162 悔しさ、悲しみ、憎しみ、後悔、無力感、そんな感情が
「誰?」
声は返ってきません。
相手の体を揺さぶり、もう一度、声をかけました。
バードではないか。
もちろん、そう思ったのです。
「ちょっと! バードじゃないの!」
相手が身動きしました。
何度かそれを繰り返すうちに、とうとう、相手が唸りました。
「痛い……」
「バード?」
暗闇の中から声が聞こえました。
「そう。あなたは?」
「レイチェルよ!」
たちまち涙が溢れてきました。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
それからふたりは真っ暗闇の中で、顔をさすりあい、手を握り、互いを慰めあいました。
もう何時間も前に、放り込まれていたのでしょうか。
バードの声は、弱々しいものでした。
私の胸に、一刻も早くここを抜け出さなければ、という気持ちが強くなりました。
ここで人間らしい扱いを受けるとは、とても思えません。
この暗闇がどれほど広いのか分かりませんでしたが、少なくとも生きている人間は自分達だけのように感じました。
とにかく、なにか行動を起こさなければ、と思ったのです。
「バード、ここを抜け出そう」
返事がありません。
まさか。
「バード! 死んじゃだめ!」
「まだ大丈夫。でも私、動けない」
私はほっとしましたが、別の不安を抱きました。
「動けない?」
「うん。怪我してる」
「どこ?」
「右足がない」
「ええっ!」
バードは動けませんでした。
立つことも座ることもできなかったのです。
私が声をかけていなければ、意識も戻らないまま、そのまま死んでいただろうというのです。
「バード……、私のせいで……」
「どういうこと?」
一部始終を話しました。
バードは、それを聞いても怒りはしませんした。
「いいよ。レイチェルがホメムだってことはうすうす感じてたよ。初めてそのこと、話してくれたんだ。この街で一番偉い人だったんだね。やっと話してくれたんだ。うれしかったよ」
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
「だから、もういいって。それより、早くここから出たいね」
迷いました。
バードをこの暗闇に置いて、脱出できる場所を探し出せるだろうか。
叫んだところで、どうなるものでもない。
待てば、事態が展開するというわけでもないだろう。
どこかに向かわねばならないのでしょうが、それではバードを置いていくことになる。
「ねえ、バード。どうすればいいと思う?」
「出口を探すしかないと思うけど、そうしようとして、このざまになった」
バードは、立ち上がった途端に、足が切れたというのです。
「膝から下、なくなった」
「なんてこと……」
言葉を失いました。
残酷な刑です。
そんな刑がここで行われていて、自分がその一端を担っていたのです。
また涙が出ました。
自分の愚かさを憎みました。
悔しさ、悲しみ、憎しみ、後悔、無力感、そんな感情が一度に押し寄せてきました。
バードの手を探りあて、強く握って、心の暴発を押し留めようとしました。
もし、手に刃物があれば、自分の胸を刺していたかもしれません。
バードの声が救ってくれなければ。
「ねえ、レイチェル。今、何日? 何時ごろ?」
かろうじて現実に引き戻されました。
なかなか声になりませんでしたが、やっとのことで言いました。
「七月一日。夜の九時頃かな」
「そうなんだ。まだここに放り込まれて九時間しか経ってないんだ。もう何日も閉じ込められてる気分だったけど」
心を決めました。
悔やんでいても仕方がない。
自分を恥じているなら、行動するとき。
「ねえ、バード、私、行こうと思う。出口を探しに」
出口はある、などと甘い考えを持っていたわけではありません。
しかし、ここに寝転がっていても死を待つのみ。
しかも、バードの脚からはかなりの血が流れたでしょう。
ますます衰弱していくことは、目に見えています。
バードを助けることができるのは、自分しかいない。
バードは、そうして欲しい、と言いました。
「気をつけて。立つとやばいから」
私は、バードの頬に口づけしました。
「じゃ、ちょっと行ってくるね。放り込まれたのはこの上の方だから」
しかし、床は徐々に急勾配になっていました。
冷たい平滑な床は滑り、途中から登れなくなりました。
私は滑り落ちていき、元のところに。
「上の入り口はダメみたい」
「うん」
「どこか、他のところを探さなきゃ」
「みたいだね」
「部屋の端まで行ったら、とりあえず戻ってくるから」
「うん」
「私が戻ってくるまで、起きていてね」
「わかってる」
バードの声は小さくなっていました。
「バード!」
思わず、大声を出しました。
「起きてるよ。待ってる」
「うん」
生きていてくれ、と祈りました。
バードのそばにいたい。
後ろ髪が引かれましたが、私は暗闇を睨みつけました。
行くしかない。
自分で事態を打開するしかない。