100 胸騒ぎ
大広間まで戻る途中、女は明日の会談のことに触れた。
交渉は同行する者に任せて、ンドペキは黙っておればよいという。
ただ交渉が、それは違う、という方に向かったときには、自分の正しいと思う行動をすればよいともいう。
「相手は、女性ひとり。こちらも女性ひとり。あなたは一応はこちら側だけど、正義の使者として立ち会う。そんな役割ね。大げさにいえば」
「何の交渉なんだ」
「それは話せない。条件によって、様々に変わるかもしれないから。ただ言えることは、相手は好戦的ではないということ」
ンドペキは彼らを見たときのことを思い浮かべた。
川原や森の中で静かに暮らしているかに見える穏やかなコロニー。
黒く大きなアンバランスな肢体。
水の上を労なく歩いてきた……。
「彼らはただ、存在を認めて欲しいだけだから」
大広間は先ほどと同じように、瀬音が静かさを際立たせていた。
脱ぎ捨てたスーツも武器も、そのままの状態にある。
テーブルも椅子も、ボトルもグラスも誰かに触れられた形跡はない。
電灯はほのかな光を変わることなく投げかけ続けている。
しかし、ンドペキは胸騒ぎを覚えた。
大広間からいくつか伸びている暗い通路。
その通路に誰かいて、こちらの気配を窺っているような。
ンドペキは何食わぬ顔でテーブルに近寄り、いつでも武器を手にできる位置に立った。
女は明日の会談について、さらに、
「でも、あなたには覚えておいて欲しいことがある」という。
そして、椅子に腰掛け、グラスの水を飲んだ。
「簡単なこと。交渉相手を注意深く見ること」
女はそう説明したが、心なしか、顔が青ざめていた。
そして、それきり、黙り込んでしまった。
ンドペキの兵士としての感覚が、何者かの存在を告げている。
周囲に注意を払いながら、女を見つめた。
女は、くるくるとよく動く瞳を閉じていた。
先ほどまでの闊達さはどこへやら。
悄然として、睫毛を伏せている。
何から何までわからない女だ。
しかし、ンドペキには、いとおしいという感情が生まれてもいた。
この女と以前会ったことがある、という感触を持った。
失われた記憶の時代に。
「ところで、おまえの名は。そろそろ聞かせてくれてもいいんじゃないか」
女は、大きく溜息をついて、肩を落とした。
グラスをテーブルに置くと、両手を膝に揃えた。
そしてまた吐息。
「これだけ、一緒にいて、話もして、私の顔を見て、私の声を聞いても、思い出さないんだ」
と、顔を上げずに言った。
指先が震えていた。
きれいな爪をしていた。
そこにぽつんと涙の粒が落ちた。




