99 自分は暗闇を怖がらない
気がつくと、あたりは一面の闇だった。
アヤは起き上がろうとして、うめき声を上げた。
体中が痛い。
自分は暗闇を怖がらない。
何百年も前、ある夜、イコマにそう話したことを思い出した。
あの頃の自分は聞き耳頭巾の使い手として、深夜に村の神社に行き、木の話を聞いたりしていた。
暗闇に巣食うと考えられている数多の者共は、さほど恐れる相手ではない。
妖怪が存在するとしても、彼らは人間とは異なる地平に住むものであって、生きた人間にすぐさま脅威を与えるものではない。
魑魅魍魎といったものが存在するとしても、彼らとて誰彼無しに襲って来るものでもない。
恐るべきは、生きた人間の常軌を逸した意識だと。
そう思っていたころの自分は、もっとおおらかで、にこやかで、はちきれんばかりの命を持っていた。
そして、自分を愛し、誰かを愛し、未来を信じていた。
あの頃の自分には戻れそうにはないが、イコマと再会して、希望を持った。
意識をしっかり持とう。
今、放り出されている暗闇も、自分のそんなささやかな喜びを覆い隠してしまうことはできない!
そう考えながら、アヤは暗闇に目を慣らそうとした。
私は聞き耳頭巾の使い手。
これしきの闇では恐れはしない。
漆黒の闇。
自分の手を顔にどれだけ近づけても、指一本、輪郭さえ見えない。
どんな物音も聞こえない。
聞こえるのは自分の吐息と鼓動、そして耳鳴りだけ。
転ろがされているところは、金属的な冷たさがある。
かすかに傾斜した床のようだ。
脚より頭の方が、少し低いように感じる。
横向きに倒れているようだ。
体の下になった右腕の感覚がない。
ただ、少なくとも拘束はされていないようで、痛みにさえ堪えれば、左腕は動かすことができるようだ。
左手を体の上に滑らせた。
このボタンは……。
職場の制服……、ワンピース……。
大昔の修道僧のような飾り気のない合わせの衣服。
次に頭に手をやった。
手串を入れるように撫でていく。
いたるところ痛むが、傷はないようだ。
もっとも、何も見えないので指先に血がついていても分からない。
顔も撫でたが、たいした異常はない。
かさぶたができた傷はたくさんあるようだ。
冷たい床の上に手を滑らせてまさぐった。
少なくとも指に当たるものはなにもない。
かすかに埃っぽい臭いがするが、埃が積もっているのかどうか、指先ではわからない。
床面はあくまできわめて平滑だ。
アヤは左腕をそろそろと床に突っ張らせる。
右腕を体の下から抜こうとして、うめき声を上げた。
首を少し動かしただけで、強烈な眩暈がした。
無理かも……。
息をゆっくりと吐き出して、ひとまず体の力を抜いた。
依然として、指先さえ見えない闇。
夜の暗さとは違う、本物の暗黒。
目を閉じれば、普通ならまぶたの血管が浮かんだり、網膜の上の埃が不思議な模様を描いたりするが、それさえもない。
アヤは体のいろいろなところに意識を集中した。
動かせるところは用心しながら動かしてみて、体の状況を知ろうとした。
感覚のない右腕を除いて、たいした傷はないようだ。
ただ、あちこち骨が折れているかもしれない。
そんな痛みがある。
撫でて済ませるような軽い怪我ではないが、打撲や骨折なら何とかなる。
いろいろなことを試しに考えてみて、自分の意識にも異常はないと思った。
息を整えて、再び慎重に右腕を抜きに掛かる。
背中の方に抜ければうつぶせになることができ、起き上がれるかもしれない。
しかし、体を浮かせようとすると、体の中心が悲鳴を上げ始めるし、激しい頭痛にも見舞われる。
「しっかりしろよな」
小さく呟いたつもりだったが、声が反響した。
自分の声の大きさにびっくりしたのと同時に、聞かれてまずい相手に聞こえたかもしれない。
そんな予感がして、思わず縮こまった。
様子を見ようにも、あたりの様子は何ひとつわからない。
アヤはしばらく息を潜めた。
声が反響したということは、ここは室内。
それもかなり硬い材料で囲まれた部屋。
空気はまったく動かない。
窓のない部屋……。
何も起こらないことを確認して、今度は仰向けになろうとした。
地面に手が突けるうつぶせの方が安全だが、それがだめなら仰向けになってみるのもいいかもしれない。
しかし、これには勇気がいる。
まず、動く左手の届く範囲で、背中側も普通に床が繋がっていることを確かめた。
ごろんと横になることになるが、万一、背中に怪我でもしていたら、痛い目にあうことになる。
しかも、そのまま起き上がれないかもしれない。
アヤは、左腕を床に突きながら、最後は歯を食いしばって体を横たえた。
案の定、背中に激痛が走ったが、右腕は抜けた。
体中を突き抜ける激痛の元は、肋骨の背中側か。
何本か折れているかもしれない、と思いながら息を整えた。
そして、右腕の感覚が戻るのを待った。
仰向けになったまま、アヤはことのいきさつを思い出そうとした。
襲われたときのことを思い出そうとしたが、痛みが激しくて集中できない。
しかも襲われたのかどうかも怪しく、何も思い出すことができない。
順を追って思い出そう。