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厨房に行ってホットチョコレートのおかわりを三杯飲んだらやっと元気が出た。
お母さんだってお貴族様と釣り合わないって分かってたんだろう。愛人だったにしても、あの苛烈なフェルマー公爵夫人ではいつか殺されてしまう。
「ご主人様もきっとどこかのお貴族様と結婚するもんねぇ」
庭に出て、オニキスとエリーザベトを探す。
出て行くのなら挨拶はしておかないといけない。最後の晩餐がローストビーフならば、悔いなし。最後の晩餐を卑しくお腹いっぱい食べてデザートも食べて、そうして明日起きたら出て行こう。
善は急げだ。だってこういうのは一週間後に出て行くなんて呑気に言っていたら決断が鈍るから。お母さんだって引っ越しする時はいきなりだった。
しばらく歩いていると黒い塊が走って寄って来た。顔中舐められてお返しにわしゃわしゃ撫でまわす。オニキスはフェルマー公爵夫人の部下がスキルで掘った落とし穴に落ちたが、怪我一つなかったのだ。
「エリーザベト様はいる?」
「ワフワフ!」
「そっかぁ、やっぱり姿を見せてくれないよねぇ」
「シャアア!」
聞きなれた唸り声がした。
ガサガサと音がして木から塀にエリーザベトが飛び降りる。そしてフンとばかりに鼻を鳴らした。尻尾はフサフサで元通りになっている。
「あ、エリーザベト様」
フーフーと唸りながらもエレノアの足元まで来てくれた。しかし、撫でさせてはくれない。エレノアの足元をぐるぐる八の字を書いて回ってすぐに離れる。
「私を見つけてくれてありがとうございました」
お辞儀するエレノアに、私にかかればそこの犬よりも当然とばかりにフンと鼻を鳴らす白ネコ。
「エリーザベト様を最後にお風呂で洗ってあげたかったけど、出て行くまでには難しそう」
「フシャー!」
エリーザベトは「お風呂」「洗って」という単語に異常なほど反応して慌てて飛びのいた。
「また誰かにお風呂で洗ってもらってくださいね~」
エリーザベトはすさまじい速さで木に登って見えなくなった。
***
「カイル。緊急事態だよ」
カイルが公爵邸で仕事をしていると、兄のジョシュアが走って部屋に入って来た。
「殿下から何も知らせは来てないんだが」
「さっきエレノアちゃんがオニキスとエリーザベトに喋ってるの聞いちゃって」
「動物と会話できないだろ」
「エレノアちゃん、公爵邸から出て行くって言ってたよ?」
「それのどこが緊急事態なんだよ」
「その会話をたまたま聞いていたロザリンドが持っていたテーブルクロスを取り落として、それをオニキスがくわえて走ったから三枚のテーブルクロスが泥だらけで犠牲に」
「全然緊急事態じゃない」
「母さんのお気に入りのテーブルクロスだ」
「それはマズいな」
やっとカイルは書類から顔を上げた。
「カイルはエレノアちゃんが出て行っていいの?」
「? 出て行かないだろ」
「何なの、我が弟ながらその絶対の自信は」
「この前ここにずっといればいいと話した」
「通じてるの、それ?」
そういえば「はい」とも「すん」とも聞いていない。
「カイルにとってエレノアちゃんってペットなの? 何なの?」
「ゲイリー殿下に押し付けられた保護対象だ」
「じゃあ、彼女が出て行っても問題ないわけだ?」
「なんで出て行く話になってるんだ? 殿下からも何も言われてない」
「フェルマー公爵だって捕まったし、もう全部終わったと思ってるんじゃないの。フェルマー公爵家も領地を何割か取り上げられただろ」
新天地に行く話は諦めたのかと思っていた。
公爵邸でジャガイモの皮むきするなんて言っていたし。以前からあいつは厨房に出入りしてたからこれまでと変わらない。
出て行きたいのだろうか、彼女は。出て行ったらこの屋敷はさぞ静かになるだろう。
あいつはいるだけで本当にうるさい。
「カイル。俺はあの子、カイルの仮の婚約者だって聞いてたよ」
「そういえば、そんな設定だった」
対外的にはそういう設定だった。パーティーで踊ったにも関わらず、その後の事件が激しすぎてすっかり忘れていた。あのパーティーに出たことで、人身売買からエレノアの父親まで分かったわけだ。
「どうすんの。キスまでしといて」
「あれこそ緊急事態だ」
エレノアは覚えていないようだった。ああいうタイプなら覚えていたら真っ先に文句を言いそうだ。調子がよろしくないのはフェルマー公爵夫妻の記憶を一気に見たせいに違いない。カイルだってスキルを使い始めた当初はよく寝込んだ。あいつはご飯はしっかり食べているから、まぁ大丈夫だろう。
「出て行かないだろ」
「なんでそんな自信満々なの。とりあえずこれからどうするのか、ちゃんと話し合っといてくれよ」
「別にすぐに結婚するわけじゃない」
「え、エレノアちゃんと結婚する気あるの?」
「あいつに貴族夫人も令嬢も無理だろ」
「どっち!? カイル、一体どっち!?」
任務をずっとこなしていたせいで、カイルには婚約者がいなかった。殿下は第二王子だから任務に理解がある家と早くに婚約していたし、ダンカンも信頼できる幼馴染と婚約していた。
だが、カイルのスキルは『記憶操作』だ。第二王子のように『無効』のスキルを持っていなければ簡単に記憶を改ざんできる上に、記憶も見ることができる。他人に好意を植え付けることも、好意があると錯覚させる振る舞いをすることも簡単だ。
カイルは惚れただの好きだのの感情を一切信用していなかった。困ったらそのつど記憶をいじればいいからだ。自分の手で好き勝手塗り替えられることに興味など持てるわけがない。
一時期カイルと『完全記憶』で頭痛に悩まされるクラリッサ・クロフォードとの婚約が持ち上がっていたが、結局彼女は第二王子の婚約者になった。
エレノアといると疲れる。ギャーギャーうるさいし、食事の度に感動しているし、父親の件ではいつもヘラヘラしているくせにかなり頑固だ。二つもスキルを持っているくせに使いこなすにはまだほど遠い。
「出て行かないだろ。エリーザベトはあいつしか風呂に入れられないし」
「カイル、大丈夫? 動揺してるのか?」
口から出たのは自分でも訳の分からない言葉だった。
好きになる要素は全くないはずの女だ。ピンクブロンドと濃い紫の目は珍しいが、絶世の美女でもない。どちらかと言えば、バカでアホだ。
「あんなガサツで面倒な女を好きになるはずがない」
なのに、彼女が傷ついたらこちらの心まで痛いのはなぜだろうか。
誘拐されて指を折られて手まで切られていたのに、カイルを見て「死んじゃう!」と叫んでいたエレノアを思い出す。父親に接触されてスキルを暴走させてしまった彼女も。
思い出しただけで少し心が痛んだ。訳が分からない。こんな感情は嫌いだ。
そもそも、アイツの記憶をいじれなかったのが問題なんだ。
「うわぁ、うちの弟。めんどくさい。スキルや仕事上仕方ないけど、めんどくさい。母さんなんかエレノアちゃん連れてきた瞬間からとっくに分かってたのに」
「そうそう、ご主人様。私そろそろここを出て新天地に行ってみようと思います」
晩餐の席で山盛りのローストビーフを前にエレノアがそんなことを言い出したので、カイルはローストビーフを思わず落とした。