9.見えない糸
二人の婚約から二日後、メイシュが領地へ帰ることになった。
「姉さま、忘れ物はない?」
「大丈夫よ。ちゃんと確認したわ。
ラルカったら、心配性ねぇ。んもう、可愛んだから!」
メイシュはそう言って、ラルカに抱きつく。
けれど、ラルカが心配しているのはメイシュのことではない。完全に保身のためだ。
(絶対に戻ってきちゃダメよ、姉さま)
早く出発してほしい――――そう心から願いつつ、ラルカは必死に本音を隠す。心とは裏腹に、ニコニコと笑顔を浮かべ続けた。
「良い、貴方たち? 私がいなくなってからも、ラルカのことをきちんと世話するのよ。少しでも手を抜いたら許さないんだから」
「はい、メイシュ様」
使用人たちが一斉に頭を下げる。皆一様に緊張しているのがわかった。
「そんな、姉さま。わたくしももう大人です。婚約だってしたのですから、姉さまがお帰りになったあとも大丈夫。きちんと生活いたしますわ」
ラルカはそう言ってニコリと微笑む。
そもそも、姉が領地に戻ったらすぐに、ラルカは寮に移り住む予定だ。使用人たちには口裏を合わせてもらうつもりでいるのだから、念押しなんてしないでほしい。
というか、今後はラルカのことなど一切気にしないでほしいのだが。
「あら、それは良かった。
ねぇ、ラルカ。『きちんと』っていうのはつまり、私が領地に帰ったあとも、私の望み通りの生活をしてくれるってことよね?」
「ええ、もちろん」
そんなつもりはないわ――――心のなかで囁きつつ、ラルカはそっと首を傾げる。
「実はね、私がいなくなったら貴女がまた、劣悪な寮生活に戻ってしまうんじゃないかって心配していたの」
メイシュが言う。ラルカの背筋に緊張が走った。
(まずい)
動揺を悟られたら、メイシュの滞在が長引いてしまう。
ラルカはきりりと表情を引き締めた。
「そんな、まさか。侍女も侍従も、こんなに良くしてくれているのに。寮に戻りたいだなんて、思うはずがありませんわ」
「でしょう? そうでしょう? だからね、貴女が絶対に寮には戻れないように、きちんと根回しをしておいたのよ?」
「…………え?」
困惑顔のラルカを前に、メイシュがゆっくりと目を細める。
(なに、それ?)
まさか。
そんなこと、できるはずがない。
そう思いつつ、ラルカの額に汗が滲む。
「大変だったわぁ。私ね、色んな人に『お願い』をしてまわったの。貴女がもしも寮に戻りたがっても、絶対に食い止めるようにって」
ドクン、ドクンと心臓が鳴る。
ラルカはメイシュを呆然と見つめた。
「王都に着いて、ここに貴女が住んでいないって知ったときはショックだったわぁ。裏切られた気持ちで一杯だった。あんな想いはもう沢山。
安心して? 皆、しっかりと約束してくれたわ。
絶対に貴女を、あんな生活に戻しはしない。だって貴女は、私の可愛いラルカだもの」
メイシュが微笑む。ラルカはゴクリとつばを飲んだ。
「一体……いくら渡したのですか? わたくしをこの屋敷に閉じ込めるために、どれだけのお金を……」
「そんなの、貴女が知る必要のないことよ」
ピシャリとそう言い放たれ、ラルカは絶望した。
(嘘でしょう? 妹に望み通りの生活をさせるため、他人を買収するなんて……!)
普通、そこまでするだろうか? にわかには信じがたい。
けれど、それがメイシュという人間だ。
ラルカには最早、返す言葉が見つからなかった。
「あのね、ラルカ。退路っていうのはしっかりと、完全に断ち切っておくものよ。そうすれば人間諦めが付く。
良いこと? これは意地悪じゃない。貴女のためを思ってやっているのよ?」
メイシュがラルカの喉を両手でふわりと包み込む。氷のようにひやりとした指の感触。爪の先端が頬に食い込み、ラルカはヒュッと息を呑む。
「可愛いものはね、美しい場所で大切に大切に飾られなきゃいけないの。貴女は自分では何もできない――――可愛いだけのお人形。自由になんて生きられない。簡単に壊れてしまう存在なんだから。
大体、ここでなら何不自由ない生活を送れるというのに、一体何が不満なの?」
――――何を言っても伝わらない。
ラルカは表情を曇らせつつ、小さく首を横に振る。
「わかってくれたのね! とても嬉しいわ。
ああ、言っておくけど、ここでの生活の様子は毎日私に報告が上がるようになっているの。貴女がその日選んだドレス、化粧の色合い、髪型、食事の内容にティータイムの様子まで、すべてを把握するわ。もう二度と、姉さまの期待を裏切ってはダメよ? 言いつけどおりにできていなかったら、すぐに飛んで戻ってくるからね」
「…………はい、姉さま」
答えれば、メイシュは満面の笑みを浮かべる。
それから、彼女を載せた馬車が、ようやく領地に向けて動き出した。
(結局わたくしは、姉さまから逃れられないのね)
メイシュはもうここには居ないのに。
まるで全身に見えない糸が絡みついているかのよう。
痛いし、とても息苦しい。
ラルカは段々と小さくなっていく馬車を見送りながら、瞳に涙を滲ませた。