8.等価交換
メイシュはラルカとブラントの婚約を見届けたあと、一人で屋敷に帰っていった。二人で交流を深めろ、ということらしい。
ラルカ自身、メイシュとできる限り離れていたいので、今回ばかりは姉の指示に心から感謝した。
(良かった……!)
ラルカは大きくため息を吐き、ふかふかのソファに身体を預ける。無事に婚約へと漕ぎ着けたことが、あまりにも嬉しかった。
「噂に違わぬ、パワフルなお姉さまですね」
ブラントがくすりと笑う。
彼の表情は温かく、とても優しいが、ラルカは申し訳無さでいっぱいで、頬を真っ赤に染めあげた。
「申し訳ございません。あんな……不躾に色々と申し上げて。姉の失礼な態度に、気分を害されたのではございませんか?」
「とんでもない。妹思いの良いお姉さんだと思いましたよ。ラルカはとても愛されているのですね」
ブラントはそう言って、ラルカの額をそっと撫でる。
(妹思い……)
やはり、第三者からはそんな風に見えるのか――――ラルカはほんのりと表情を曇らせる。
妹に良い縁談をと望むことは、謂わば普通の感覚だ。表面だけを見れば、とても良い姉なのだろう。
ただ、そこにラルカの意思は全く反映されておらず、拒否権もないと言うだけで。
「だけど良かった。無事に婚約を結べて、ホッとしました」
ブラントはラルカの手を握ると、柔らかく微笑む。
「ええ! ブラントさまには本当に、なんとお礼を申し上げたら良いか……!」
「お礼だなんて、そんな。これは互いの目的を叶えるために結んだ婚約です。貸し借りなし。今後は『申し訳ございません』と『ありがとう』は禁止でいきましょう」
そう言ってブラントは首を小さく横に振る。
「まぁ……! だけどそれでは、わたくしの気が済みませんわ。わたくしが受ける利益のほうがずっと大きいですし、せめて『ありがとう』ぐらい言わせてください」
ぐいっと身を乗り出せば、ブラントはほんのりと頬を染める。
「しかし……」
「良いですか、ブラントさま。わたくしは貴方がいなければ、姉の望むとおりすぐに結婚をし、大好きな仕事を辞め、貴族の夫人としての望まぬ毎日を過ごさねばなりませんでした。わたくしはそんな人生はごめんです。本当に、嫌でたまらなかったのです」
毎日毎日、好みでないドレスを着て、飲みたくもないお茶を何杯も飲み、他人の悪口や噂話に終止する。そこにはラルカの意思や感情は全く必要とされない。
生きているのか、死んでいるのかすらよくわからない、人形のような人生。
何故だろう。
貴族というだけで――――女性だと言うだけで、生き方が酷く制限されてしまう。
活き活きと仕事をして何が悪い? 結婚をしないことの何が悪い?
メイシュに抑圧された分だけ、ラルカは強く思ってしまう。
「人々の価値観が少しずつ変わりつつあるとは言え、わたくしのような考えを実際に受け入れてくださる男性がどれだけ居るでしょう?
ブラントさま。
貴方はわたくしの気持ちを聞いてくださった。笑わずに受け入れてくださった。
そして、わたくしの願いを叶えてくださったのです。
ですから、どんな事情があろうと、貴方はわたくしの大事な恩人。どうか、わたくしにお礼を言わせてください。
婚約を解消したあとも、できる限りのことをさせていただきたいと思っております」
ラルカの真剣な眼差しに、ブラントは静かに目を瞠る。
それから、眩しげに目を細め、そっと身を乗り出した。
「わかりました。
でしたら、これから僕等の間に『ごめんなさい』はナシにしましょう。
互いに負い目はなし。
今後は『感謝』を基にした等価交換、ということでよろしいでしょうか?」
まるで悪戯を思いついた子どものようなブラントの表情に、ラルカはクスリと笑い声をあげる。
「ええ。そうしていただけると、とても嬉しいです。
ブラントさま、改めて、ありがとうございます」
二人は顔を見合わせ、微笑み合う。
「僕からも改めて――――ありがとう、ラルカ」
ブラントはラルカの頬を優しく撫で、うっとりと目を細める。
あまりにも優しいその表情に、ラルカは思わず頬を染めた。
「わ、わたくしは残念ながら、ブラントさまにお礼を言っていただけるようなことは、まだ何もできておりませんけれども」
彼がラルカとの婚約を望む理由、『両親から結婚を急かされなくなる』ということは、ラルカの名前があれば事足りる。婚約さえ結べばそれで終わり。実際の労力を何も必要としないので、感謝されるほどのことではない。彼が恩恵を受けるのは、これから先のことだろうに。
「いいえ。僕は貴女から、既にたくさんのものをいただいています。本当に、ありがとう」
ブラントはラルカの髪を一房取り、恭しく口づける。
思わず体を震わせれば、ブラントはラルカのことを熱っぽく見上げた。
(待って! わたくし達が結んだのって、仮初の婚約――――でしたわよね⁉)
思わず口に出して確認したくなるほど、彼の言動や行動はどろどろに甘い。
男性に色香を感じたのも、生まれて初めての経験だった。
ドキドキと騒がしい胸を抑えつつ、ラルカはブラントをおずおずと見つめる。
「えっと……どういたしまして…………?」
戸惑いながらもそう言えば、ブラントはラルカのことを抱き締める。直前に目にした満面の笑みに、ラルカの胸がまたもや跳ねる。
(わたくしったら、先程から変です。一体どうしたのでしょう?)
頭を何度も捻りつつ、ラルカはブラントの温もりを受け入れるのだった。