35.イベント当日(3)
(ああ、どうしてあんなことをしてしまったのかしら……)
ブースに戻り、一人頭が冷めてから、ラルカは自分の振る舞いを大いに反省した。
人前であんな――――頬にキスをするだなんて。
少し前までのラルカならとても考えられなかった。
自分では良識のある方だと認識していたというのに、恋は人をこうも変えてしまうのだろうか?
火照った頬を仰ぎつつ、ラルカは一人百面相をする。
きっと今頃、エルミラはお腹を抱えて笑っていることだろう。
ブラントは頬を真っ赤に染めていたし、ラルカと同じように恥ずかしさで悶絶しているかもしれない。
しばらくの間は、同僚たちからも大いにからかわれることだろう。
(だけど、それでも、どうしてもブラントさまを盗られたくなかったんだもの)
イベントに来ているのは平民だけではない。
エルミラとアミルが主催のイベントとあって、高位貴族の令嬢たちも多く訪れているのだ。
二人の婚約が知れ渡っているといっても、せいぜい騎士や文官を務めている者たちの間だけ。少しぐらい、牽制したくなるというもの。
(ダメだわ。これじゃ独占欲丸出しじゃない)
首を横に振りつつ、ラルカは熱い息を吐き出す。
早く平静を取り戻さなければ――――そう思ったその時だった。
「ラルカ!」
背後から勢いよく抱きつかれ、ラルカは小さく息を呑む。
甘ったるい香水、どぎつい化粧の香り。
それが誰かなんて、振り返らずともすぐに分かった。
「姉さま」
ラルカは冷静な声でそう呟く。
メイシュが来るであろうことは、最初から予想していた。
領地から大量のドレスを取り寄せたし、侍女たちまで借り上げたのだ。派手好きなメイシュが飛びつかないわけがない。
どれだけブラントが心を砕き、メイシュとの接触を最小限に食い止めてくれたとしても、今回ばかりは避けようがない。
大丈夫――――ここまでは全て想定内だ。
立ち向かうための準備は万端にできている。
ラルカはゆっくりとメイシュの方へ振り返った。
「お久しぶりです、姉さま」
「ええ、久しぶり。数カ月ぶりに可愛いラルカに会えて嬉しいわ。
それにしても、チャリティーイベントだなんていうから、一体どんなものかと思って来てみたら……すごい盛況っぷりじゃない」
感嘆の声を上げつつ、メイシュがぐるりと会場を見回す。
「ええ。予想以上に多くの方に足を運んでいただけて、わたくしも驚いていますわ」
「そうよねぇ。まぁ、貴女のドレスを貸し出したのだし、当然の結果かしら?
だけど、本当は私嫌だったのよ? 可愛い貴女のドレスを他人に貸すなんて。だって、ラルカじゃないと似合わないもの!
けれど、ソルディレンさまがどうしてもと仰るし、今のうちに王家に恩を売っておくべきだって言われたら、ねぇ?」
そう言ってメイシュは口の端を吊り上げる。
ブラントの根回しは本当に完璧だった。メイシュの思考を上手く読み取り、情報操作を重ね、上手に協力へと漕ぎ着けてくれた。
おまけに、今日までの数ヶ月間、ラルカとメイシュの接触を抑え続けてくれたのだ。彼には本気で頭が上がらない。
「……ありがとうございます、姉さま。姉さまのおかげで、今回のイベントが無事に開催できましたわ」
「ふふ、そうね。私の協力なしには成り立たなかったものね。
ところで、こちらのブースの責任者はどなたなの? 一応挨拶ぐらいはしていただいて然るべきだと思うのだけど」
その瞬間、ラルカは思わず目を瞠る。
このブースの責任者は、他ならぬラルカ自身だ。
けれど、メイシュに対してラルカは侍女だということになっているので、そうと名乗り出るわけには行かない。
言えば、今すぐ、無理やりにでも仕事を辞めさせられかねないからだ。
「――――っと、そうですわね……今は席を外しているようですわ」
後でこっそり、同僚の女官にお願いをしよう――――密かにそう決意をし、ラルカは作り笑いを浮かべる。
「そう? だったら仕方ないわね。後で私のところに連れてきてちょうだい」
「ええ。後で必ずご紹介しますわ」
「よろしくね。
それはそうと、やっぱり私のラルカが一番可愛いわ! 久しぶりに会ったからかしら? 随分、綺麗になった気がするわね」
「……そう、でしょうか?」
ラルカはほんのりと目を見開き、少しだけ頬を赤らめる。
「ええ! 痩せて、少し大人っぽくなったのかしら? 幼い頃の貴女も可愛かったけれど、大人になったらまた別の可愛さがあるわね!」
メイシュはそう言って、ラルカの両頬を包み込んだ。
以前ならば、全くもって素直に受け入れられなかった賛辞だが、今はほんの少しだけ気分が違う。
最近のラルカは、同僚や騎士たちからも褒められることが増えた。
元々、美人と評判だったが、輪をかけて美しくなったと――――ブラントの影響が大きいのだろうと、もっぱらの噂だ。
たとえ相手がメイシュであっても、褒められて素直に嬉しいと思う。これもきっと、ブラントのおかげだろう。
「ありがとうございます、姉さま。
申し訳ございませんが、わたくしは仕事がありますので、そろそろ失礼いたします。
今日はどうか、楽しんでいってください」
「ええ。そうさせていただくわ。
また後で、ね」
メイシュの返答に、ラルカはそっと微笑む。
こんな穏やかな気持ちでメイシュの前に立てる日は、一生来ないと思っていた――――ラルカは胸を押さえつつ、ブースの中を見て回る。
ラルカの実態を知れば、メイシュはきっと、再び彼女を縛り付けようとするだろう。無理やり仕事を辞めさせ、ブラントとの婚約を破棄し、領地に連行して自分の支配下に置こうとするに違いない。
けれど、今のラルカはメイシュを跳ね除けられるだけの強さを持っている。
きっと大丈夫。
どんなことが起きても、怖くないと思えた。
「あの……お姉さん、こっち! こっちに来て!」
するとその時、年の頃十歳ぐらいの女の子が、ラルカに向かって必死に手招きをしてきた。
「どうしたの、お嬢ちゃん?」
「あのね、あっちであたしの友達の具合が悪くなっちゃったの」
「まぁ、それは大変だわ!」
ラルカはその場に居た同僚にブースを離れることを伝えると、急いで女の子の後ろについていく。
「こっち。今は外に出てるの」
ぐいぐいと手を引かれながら走り続け、やがて会場の外へと連れ出された。
救護班に声を掛けようにも、ここから応援を呼ぶのは難しい。ひとまず場所と状況を確認すべきだと判断し、ラルカは女の子に付いていった。
「こっち、こっちよ」
女の子がそう言って、建物と建物の間、路地裏へと入り込む。ラルカはそこで、暗がりにうずくまった子供の姿を見つけた。
「大丈夫? 気分が悪くなったのね?」
イベントの人混みに酔ったのだろうか?
ラルカはしゃがみ込み、子供の額に手を当てる。
触ってみた感じ、熱は無いようだ。汗も殆ど掻いていないようだが――――
と、そのとき、ヒヤリとした感触が首筋に押し当てられ、ラルカは小さく息を呑んだ。
「騒ぐな。声を上げたら刺す」
背後からはどこか幼さの残るテノールボイス。
目の前には、ラルカを連れてきた女の子と、先程までうずくまっていた子供が、ラルカのことをじっと見つめている。
(こ、れは……)
背中を冷や汗が伝う。心臓がバクバクと嫌な音を立てて鳴り響いた。




