31.ブラントの手紙
ブラントに今の気持ちを伝えてみよう――――ラルカがそう意気込んだのも束の間、彼は多忙のため、帰りが遅くなるようになった。
残業でお疲れのブラントに、畏まった話をするのは憚られる。はじめはそう思っていたものの、彼の帰りは日に日に遅くなっていき、ついには顔を合わせる頻度まで減ってしまった。
「お嬢様、どうかそろそろお休みください。私どもが旦那様に叱られてしまいますわ」
「ありがとう。けれど、ブラントさまは今も仕事を頑張っているのだし……」
せめて『おかえり』と――――『お疲れ様』と言ってあげたいとラルカは思う。
「お気持はわかりますが、旦那様からは出迎え不要と固く言いつけられております。ですから、お嬢様は早くお休みください」
「……そう。分かったわ」
ここで意地を張り、使用人たちが叱られてしまっては気の毒だ。ラルカは渋々部屋に戻る。
(ブラントさまは大丈夫かしら?)
元々忙しかった筈なのに、ブラントは今、チャリティーイベントの責任者まで務めているのだ。
一体彼が何時に帰っているのか、休憩は取れているのか、とても心配になってしまう。
ブラントを事業に巻き込んだ人間が他でもないラルカだけに、何とも申し訳ない気分だ。
(何か、わたくしに出来ることはないのかしら?)
メイシュの件でブラントがそうしてくれたように、ラルカも彼の負担を取り除いてやりたいと心から思う。
けれど、ラルカに出来ることは殆ど無い。
ブラントは有能だ。大抵のことは既に自身で手配をしていて、ラルカが口を挟むスキすらないのである。
まだ帰ってこないのだろうか――――隣の部屋の気配に耳を澄ましていた筈が、気づけば朝日が輝いていた。
ラルカはため息を吐きつつ、身支度を整える。
凹んだ表情をしていては、ブラントに要らぬ心配をかけてしまう。
いつもよりもしっかりと頬紅を塗ってから部屋を出た。
「え……? ブラントさまはもう、屋敷を出られたのですか?」
「はい。仕事の都合でどうしても、急がなければならないと……」
使用人はそう言って、申し訳無さそうに表情を曇らせる。ラルカはシュンと肩を落とした。
「そんな……。せめて声をかけてくださったら良かったのに。見送りぐらいはさせていただきたかったわ」
「申し訳ございません、お嬢様。私共もそう申し上げたのですが、旦那様が『お嬢様にはしっかりとお休みいただくように』と仰られて」
「……そうでしょうね」
ブラントはきっと、ラルカの生活リズムを崩したくないと思ってくれているのだろう。ラルカに不自由をかけたくないと、彼は常々言ってくれていたのだから。
けれど、ラルカとしては釈然としない。それがブラントの優しさだと分かっていても、嬉しいとは思えなかった。
使用人たちに促され、重い足取りで朝食の席に着く。
するとそこには、小さな花束と共にブラントからの手紙が置かれていた。
【おはよう、ラルカ。昨夜はよく眠れましたか?
残念ながら、しばらくは泊まり込みで仕事をすることになりそうです。ラルカは気にせず、どうかこれまでどおりの生活を続けてください。
決して不自由させないよう、使用人たちには強く言いつけています。
今日がラルカにとって、良い一日になりますように】
手紙を読みながら、ラルカの胸がじわりと熱くなる。
彼は一体、いつ、どのタイミングでこの手紙を書いたのだろう?
彼はきっと、いつも通りの優しい笑顔で、この手紙を認めたのだろう。
ラルカのことを心から想いながら。
そう思うと、目頭が熱くなってくる。
そんな時間があるならば、少しでも休んでほしい。屋敷に帰る時間すら惜しんでいるくせに――――美しく丁寧な筆跡をなぞりながら、ラルカはブラントの顔を思い浮かべた。
翌朝も、食卓にはブラントからの手紙が置かれていた。
本人が屋敷に帰った形跡はないので、従者の誰かに託したのだろう。一体いつ、どのタイミングで従者に手紙を託したのだろう?
ラルカは手紙を開きつつ、ブラントのことを思い浮かべる。
その翌日も。
そのまた翌日も。
続けざまに数日、同じことが続いた。
エルミラと共に休憩を取りながら、ブラントの手紙を何度も眺める。
何とも言えないモヤモヤした気分に、ラルカは唇を尖らせた。
「何? ブラントって今、そんなに忙しいの? 屋敷に帰ってこれないほど?」
状況を聞きながら、エルミラは驚きに目を見開く。自分たちが優雅に休憩を取りながら仕事をしているだけに、驚きもひとしおだ。
「そうなんです……。以前にも、多忙な時期があることはお聞きしていたのですが。
あの……エルミラさまは、アミル殿下から何か状況を聞いていらっしゃいませんか?」
「いいえ、何も。
そもそも、私達は食事も基本的に別々にとっているから、互いの状況はよく分からないのよ」
予想通りの返答だが、ラルカは思わず落ち込んでしまう。
同じ建物で働いているとはいえ、城内は広い。たまたまで遭遇する機会など皆無に等しい。
エルミラですら状況が分からない以上、他の文官や騎士に尋ねたところで、返答は同じだろうし――――。
「ねぇ、ラルカ。そんなに心配なら、様子を見に行ったら良いじゃない?」
呆れたように笑いながら、エルミラがラルカの肩を叩く。
「ほら。折よくお兄さまにお渡ししたい書類があるし、これを持っていくと良いわ。貴女は真面目だから、理由がないと会いに行けないのでしょう?」
ニヤリと笑みを深めつつ、エルミラは小さく首を傾げる。
「けれど、エルミラさま。屋敷に帰る時間すら惜しいほど多忙な中、わたくしが会いに行ったら迷惑ではないでしょうか? 書類は他の方にお任せしたほうが……」
ブラントは優しい人だ。
会いに行けば、どんなに忙しくとも、ラルカとの時間を作ろうとするだろう。それがかえって彼の仕事の進捗を妨げるとしたら、あまりにも申し訳ないことだ。ラルカはほんのりと表情を曇らせる。
「全く。貴方たち二人は、どちらも互いに気を使い過ぎなのよ」
エルミラは言いながら、ブラントからの手紙をヒョイと取り上げる。
「――――ほら、見なさい。ここ。インクが滲んでいるでしょう?」
「え……ええ。そうですわね」
彼女の言う通り、手紙の最後の方、『僕』という単語の部分が不自然に滲んでいる。とても些細で、言われなければ気にならない程度の滲みだ。これが一体どうしたというのだろう?
「多分だけど、毎日同じ部分で滲んでいるはずよ。
ほら。筆に迷いが生じた時、インクって滲むものじゃない? 完全無欠なあの男なら、本来、そういうやらかしはしないと思うけど」
言われて他の手紙を取り出してみれば、なるほどエルミラの言うとおりだった。
最後の一文。『僕』という単語の部分で、インクが不自然に滲んでいる。
「ブラントさまには、何か他に、わたくしに伝えたいことがある……?」
手紙に認められたのは、どれも優しく、温かい言葉ばかりだ。ラルカの身体を労り、心配をしない程度に状況を伝え、良い一日を過ごせるようにとそう願う。
けれど、もしも彼に、言葉にできない想いがあるのだとうしたら――――。
一体どんな想いで、どんな言葉を飲み込んできたのか――――想像しながら、ラルカは瞳を震わせる。
「私が思うに、本当は『寂しい』って――――『会いたい』って、書きたかったんじゃない?」
エルミラはそう言って穏やかに微笑む。
忙しい中、寝る間を惜しんでブラントが手紙を書いてくれたその理由。
ラルカへの想いを伝えたいだけじゃなく、己の願望を――――本当は『会いたい』と思ってくれていたというのなら――――。
「エルミラさま、この書類、わたくしがお預かりしますわ!」
ラルカはエルミラから書類をひったくると、勢いよく踵を返す。
「行ってらっしゃい!」
エルミラはクスクス笑いながら、ラルカの後ろ姿を見送った。




