27.アミルの質問(2)
(わたくしを、妃に……?)
アミルの問い掛けを反芻しつつ、ラルカは大きく目を瞠る。
そんなこと、これまで一度も考えたことがなかった。
そもそもラルカは、結婚をしたいと思ったこと自体がなかったし、妃になりたいという野望を抱いたことだってない。
メイシュから離れて活き活きと仕事をし、自由な生活が送れたらそれが幸せで。
自分に妃の適性があるとも思えないし、およそ現実的な話として受け止められなかった。
「よく考えてみてほしい。
この国において、女性が生きたいように生きることへの理解はまだまだ不十分だ。結婚をした女性は家に入り、子を育てるのが当たり前。外で仕事をすることは稀だ。
女性文官の数とて、年齢を重ねるごとに極端に少なくなっていく。
だからこそ、君はブラントと婚約をしたのだろう? 結婚の時期を最大限に引き延ばし、仕事を辞めずに済むように、と」
「え……ええ、その通りですわ。しかし…………」
「妃となれば、国を――人々の意識を変えることができる」
アミルはそう言って、真っ直ぐにラルカを見つめる。
「働く女性の何が悪い? 己の能力を活用して何が悪い?――――そう想うなら、君が貴族たちに、国民に、言葉と行動でそう示していけば良い。
妃となれば、エルミラの補佐としてではなく、自分のやりたいことを、やりたいようにできるようになる。
とても魅力的だと思わないか?」
蠱惑的な笑み。ラルカは思わず視線を逸らす。
アミルの言う通り、妃になれば、ラルカの想いを体現することは容易い。
妃というのは、結婚をしても、子どもを産んでも、王族として公務をすることが当たり前という稀有な存在だ。
国のために働きたい、ずっと働き続けたいというラルカの想いとも合致している。
それ自体は間違いないのだが――――。
「それからもう一つ。
王族になってしまえば、君の親族とて、おいそれと君に干渉できなくなるだろう。何かを強要されることもなければ、言いなりになる必要もない。俺が全力で君を守ろう。
どうだい? まさに君の理想通りの生活だろう?」
アミルの言葉に、ラルカは小さく息を呑む。
(姉さまから離れられる……)
もう二度と、メイシュの影に怯えることも、惑わされることもない。
妃となれば、そんな理想的な生活が送れるのだという。
以前のラルカならば――――ブラントと出会う前ならば、ラルカは大手を振って喜んだだろう。
(けれど)
何故だろう。
先程からずっと、ブラントの笑顔が脳裏に散らついて、ちっとも離れてくれそうにない。
ラルカを呼ぶ声が。
繋いだ手のひらの温もりが。
ラルカをその場に縫い止める。
もしもラルカがアミルの妃になったら、ブラントは何と言うだろう?
喜ぶだろうか。
おめでとうと、笑うだろうか。
それとも――――。
アミルはニコリと微笑むと、ラルカの頭をポンと撫でた。
「このイベントを成功させれば、否が応でも妃の呼び声は高くなる――――少なくとも君は、その自覚だけはしておく必要がある」
「……ご忠告、ありがとうございます、アミル殿下。
ですが、わたくしは形だけとはいえ、既にブラントさまの婚約者です。妃になるのは難しい――――いえ、できかねますわ」
気づけばラルカは、そんな言葉を返していた。
二人は仮初の婚約者で。
簡単に壊せてしまう関係で。
――――いつかは解消する約束だと、自分が一番よく知っている。
それでもラルカは、『分かりました』と言いたくなかった。
アミルの唇がゆっくり大きく弧を描く。
彼は離れた場所にいるブラントをちらりと見遣ると、やがてゆっくりと目を細めた。
「婚約者、か。あいつに聞かせてやりたい言葉だが……。
なぁラルカ嬢、ブラントはなんと言って、君に婚約を持ちかけたんだ?」
「え? それは――――まだ結婚を考えていないから、時間稼ぎのために婚約を結びたい……と」
ブラントと約束を交わした日を思い返しながら、ラルカはそう口にする。
「誠実そうな顔をして――――あいつはとんだ嘘つきだな」
「ブラントさまが嘘つき、ですか?」
唐突に話題が変わったことに戸惑いつつ、ラルカはそっと首を傾げる。
「三年もの間、結婚を一心に望んでおきながら、『考えていない』、か」
呆れたように笑いつつ、アミルは小さくため息を吐く。
(ブラントさまが結婚を……?)
そんな、まさか。
そんな話、一度も聞いたことがない。
だとしたら、自分たちの婚約は一体何なのだろう?
エルミラと微笑み合うブラントの姿を遠目に眺めつつ、ラルカはそっと胸を押さえる。
足元がぐらつくような心地がした。
「ラルカ嬢。君は、あいつの想い人が誰なのか、気づいていないのだろうか?」
アミルが尋ねる。
ラルカはしばし逡巡し、それから大きく首を横に振った。
「本当に? 全く、見当がつかないのか?」
「はい。
……あっ! けれど、先日一緒に出かけた際に、騎士としてやっていこうと決めたキッカケがあると――――そう思わせてくれた女性が居ると、話していらっしゃって」
確か、ブラントが騎士を辞めようとしていたのも、先程アミルが言及したのと同じ三年前のことだ。
アミルは同時に、ブラントが彼の側近を目指した理由は不純な動機からだと話していた。
(もしかして、ブラントさまは想い人に近づきたくて――――それでアミル殿下の側近になりたかったの?)
ありえる。
寧ろ、そう考えた方がしっくりくる。
(もしかして)
アミルの側近になることで、親しくなれるであろう女性。
一介の貴族では、おいそれと近づくことのできない女性。
簡単には結婚の叶わない女性。
そんな女性が一人だけ、居るではないか。
ラルカはブラントの隣で微笑む女性――――エルミラをそっと見遣る。
胸が千切れそうなほど、大きく軋んだ。
「そんな……わたくしはブラントさまに対して、なんて酷いことを」
他に想い人がいる人に、仮初の婚約を結ばせてしまったなんて。
しかも、その相手はエルミラの側近であるラルカだ。婚約の事実は隠し立てできないし、エルミラに要らぬ誤解を与えてしまう――――少なくとも、ブラントはそう感じたのではなかろうか?
一人愕然としていると、アミルがポンと肩を叩く。
「――――気づいたのなら、早く応えてやると良い。あいつは優しい男だ。君自身のためにも、結論を出すのは早いほうが良いだろう?」
アミルとしては、ラルカがブラントの想いに――――ラルカ自身の想いに気づいてほしいと、発破をかけたつもりだった。
ラルカの願いは最早、自由に生き、仕事を続けることだけでなく、ブラントと共に生きることに変わっているのだと、自覚させてやりたかった。
妃として望まれることよりも、ブラントとの婚約を選んだ時点で、アミルは己の目論見が成功したと思っていた。
けれど、ブラントの想い人が自分だなんて、ラルカは夢にも思っていない。
彼の婚約者であることを選びとったのだって、無意識だ。
さすがのアミルも、ラルカの繊細な感情の動きまでは読み取ることができなかった。戸惑いながらも、彼女は小さく頷く。
二人の想いは、見事にすれ違ってしまったのである。
(もしかして、はじめてお会いしたあの日も、ブラントさまはエルミラさまに会いたかったのかしら……)
過ぎし日のやり取りを思い返しつつ、ラルカはそっと胸を押さえる。
ブラントはただ、恋しい人に一目会いたかった。
だから、ラルカをエルミラの執務室まで送ろうとした。
けれど、ブラントは道すがらラルカの苦悩を聞かされて――――優しい彼は、困っているラルカを放っておけなかった。
ブラントが自分の想いに嘘を吐いてまで、ラルカの仮初の婚約者になってくれたのだとしたら――――。
絶望がラルカの胸を突く。
ブラントに対して、あまりにも申し訳なかった。




