16.試合と勝負
執務室に着くと、ブラントはアミルとともにソファに腰掛けた。
二人の前にはチェス盤とティーカップが置かれ、いつものように、アミルが徐に駒へと触れる。
「それで? ラルカ嬢はお前との婚約が嫌で落ち込んでいたわけではなかったのか?」
昨日、エルミラがラルカのことを頼むためにやってきた時、アミルもその場に居た。このため、彼は『ラルカ=マリッジブルー』という仮説を立てている。
「当然です。昨日も申し上げたとおり、彼女は僕との婚約を心から望んでくれていますから」
ブラントは何食わぬ表情で言いながら、心の中で舌を出す。
ラルカがブラントとの婚約を望んでいるのは紛れもない事実だ。嘘は一つもついていない。理由はどうあれ、アミルの質問に対しては正しい回答だ。
「ふむ。では、聞き方を変えよう。
彼女は婚約は望めども、結婚は望んでいないのではないか?」
コツンという音とともに、盤に駒が置かれた。アミルは頬杖を付き、ニヤリと瞳を細める。
「――――黙秘します」
殆ど表情を変えぬまま、ブラントが己の駒を動かす。
アミルはクスクスと笑いながら、次の駒を進めた。
「だろうな。
ならば、お前は彼女の望みを知っていて、自ら仮初の婚約者として名乗りを上げた――――というところだろう? 全く、お前の考えそうなことだ」
「――――――黙秘いたします!」
アミルは昔から勘が良い。隠し事をしたところで無意味だと分かっているが、ハッキリと『はい、そうです』と認めてしまうわけにはいかないのである。
「やはりな。こんなにすぐに話がまとまるなんて、おかしいと思ったんだ。
エルミラの話だけで判断すれば、ラルカ嬢は独身主義者だ。少なくとも、今はまだ結婚を望んでいないだろう……婚約自体を躊躇うタイプだと俺は思う。
だが、彼女の考えを知った上で仮初の婚約を結んでくれるという男がいるなら話は別だ。周りへのカモフラージュのためにも、ラルカ嬢は婚約話を飲むだろう。
これがお前とラルカ嬢との婚約が実現した経緯だ」
アミルの仮説は完璧だった。ブラントは押し黙ったまま、チェス盤を見つめる。まだ序盤だと言うのに、勝てる気が全くしない。彼は小さく息を吐いた。
「お前はお前で他の男にラルカ嬢の婚約者の座を奪われたくない。当然、自分以外の男と結婚だってしてほしくない。
だから、仮初の婚約者という立場を利用して、ゆっくりと彼女との仲を深めていこうと――――そういう魂胆だな。最終的には自分と結婚してほしい、と」
「分かっているなら、皆まで言わないでください……」
アミルはとかく、感情や行動を先読みする能力に長けている。過去、幾度となく己の考えを読まれてきたブラントは、降参するしか道がないことを悟った。
「それで? 婚約が理由じゃないなら、何がラルカ嬢を落ち込ませていたんだ?」
アミルの問いかけに、ブラントは神妙な面持ちを浮かべ、しばし押し黙る。
いくら相手が王太子であっても、ラルカの家庭環境を勝手に話すわけにはいかない。
ブラントは無言で、次の駒を進めた。
「今朝、馬車で一緒に出勤していた上、先程は夕食、朝食の話が出ていた。つまり、彼女はこれから、お前の屋敷で生活をすることになったのだろう?」
「…………」
ブラントの返答を待たず、アミルが勝手に推理を進める。駒がまた一つ進んだ。
「おまけに、今朝のラルカ嬢は見るからに元気だった。たった半日で、あんなにも状態が改善することは中々ない。何故か――――憂いの元凶から完璧に隔離されたと考えるべきだ」
状況を整理しているようにも聞こえるが、アミルの中では既に結論に行き着いているのだろう。ブラントは尚も口を噤み、アミルのことを見つめ続ける。
「なるほど。つまりは彼女の家庭環境に問題があるわけだ」
ポンという軽快な音とともに、チェス盤が鳴る。ブラントは静かにため息を吐いた。
「公言しないでくださいよ? もちろん、エルミラ殿下に対しても」
「分かってるよ。
しかし、よく先方が許可したな。お前、ラルカ嬢を半ば無理やり自分の屋敷に連れて行ったんだろう? 文句の一つも出そうなもんだが」
「ですから、そちらの根回しをするために今夜は遅くなるのですよ」
言いながら、ブラントは紅茶を飲む。ついついため息が漏れ出た。
「ん? 昨日はなんと伝えたんだ?」
「ラルカが城で体調を崩したので、家に連れて帰ると。あちらの使用人たちも思うところがあったのでしょう。『それならば』と、素直に言うことを聞いてくれました」
ここ最近のラルカは、誰の目にも分かるほど憔悴していた。使用人たちも、なんとかしてやりたくて、けれどどうにもできなくて、ヤキモキしていたのだろう。
「しかし、一日ならば誤魔化しも効きますが、ずっととなると難しい。体調不良が理由では、自宅で静養するように、という話になりますし、退職を強要されたり、領地へ帰るように言われかねませんから。
とはいえ、当の元凶は遠く離れた領地にいる。使用人たちの説得にはそこまで難儀しないと思います。まあ、上手くやりますよ」
ラルカの屋敷の使用人たちは皆、メイシュのことを恐れているという。ここで上手いこと対処しておかなければ、彼らが割を被ることになるし、メイシュを王都に呼び寄せる原因となりかねない。
ブラントとしては、何があってもラルカを引き渡す気はないし、全力で護るつもりだ。けれど、何事もないほうが当然ラルカの精神衛生上良いことは間違いない。
使用人たちには、メイシュの監視をかいくぐるための知恵、彼女がブラントの屋敷に滞在する理由を授けようと考えている。
「お前は元々文官向きだし、そういう根回し関係で右に出る者はいない。まあ、まず問題はないだろう。だが、もしも難航するようなら俺の名前を使っていいぞ」
「ええ、もちろん。大いに有効活用させて頂く予定です」
ブラントはそう言ってチェス盤を眺める。試合に負けたが勝負に勝った――――この国において、アミルほど心強い味方はいないのだから。ブラントはニコリと微笑んだ。