12.家においで
ラルカがたっぷりと泣き叫び、ようやく落ち着きを取り戻した頃には、空はすっかり暗くなっていた。
ブラントは未だ、ラルカのことを抱きしめながら、ポンポンと背中を撫でてくれている。
(どうしましょう……)
我に返ってみれば、とても恥ずかしい状況だ。
ブラントは表面上はラルカの婚約者ではあるが、実際に結婚をするつもりはない。男性に抱きしめられるのだって、当然初めての経験だ。
ラルカを支える逞しい腕に、大きな手のひら。彼女を抱き留める広い胸は、ちょっとのことではビクともしないだろう。
女性ものの甘いコロンとは異なる、どこかスパイシーな香り。
胸が高鳴る。頬が紅く染まっていく。
一体、どうやってこの状況に区切りをつければ良いのだろう?
どんな顔をしてブラントと話をすれば良いのだろう?
もんもんとそんなことを考えていたら、頭上から優しい声音が降り注いだ。
「少し、落ち着かれましたか?」
「……ええ」
恐る恐る顔をあげると、ブラントは穏やかに瞳を細めて笑っていた。
ラルカの心臓が、一際早く鼓動を刻む。
恥ずかしくて、居たたまれなくて、
――――けれど、このまま彼に抱き締められていたい――――
そんなことを考えている自分に気づき、ラルカは大きく首を横に振る。
「ありがとうございます、ブラントさま。たくさん泣いて、スッキリしました」
「それは良かった。顔色も大分良くなった気がします」
「そう……でしょうか?」
頬を撫でるブラントの手のひらにドギマギシつつ、ラルカはそっと首を傾げる。
「ええ。ここに来るまでの貴女は、今にも倒れてしまいそうな様子でしたから。……ずっと我慢をしていらっしゃったのでしょう?」
「そんな風に見えていたのですか?」
密かにショックを受けつつ、ラルカは目を伏せる。
「そうですね……。わたくし、本当は誰かに打ち明けたかったのだと思います。自分の置かれた状況を、今の気持ちを。
だけど、どこを見ても、誰と会っても、まるで姉さまに見られているような気がしてしまって……」
冷静になって考えれば、エルミラや同僚たちは、ラルカのことを心配してくれていた。彼女の味方になってくれたのだろうと分かる。
けれど、恐怖に支配された状況では、判断力が失われる。己を取り巻くすべてのものが敵のように思えてしまう。
ラルカは自分が怖くて怖くてたまらなかったのだと――――追い詰められていたのだと気づいた。
「辛かったですね」
ブラントが言う。優しく寄り添われ、ラルカの瞳に涙が滲む。
「はい……」
辛かった。
悲しかった。
寂しかった。
苦しかった。
胸の奥底まではびこった感情が、涙となって流れ落ちる。ラルカは静かに肩を震わせた。
「では、行きましょうか?」
ブラントの言葉に、ラルカはビクリと反応する。
(そうよね)
いくらブラントが優しくとも、いつまでもここに居座るわけには行かない。
彼に迷惑をかけてはいけない。
ラルカは少しだけ心に影を落としつつ、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうございます、ブラントさま。何から何まで――――此処から先は、わたくし一人で大丈夫ですわ」
馬車を貸してもらおうか、家人を呼んでもらおうか――――散々迷った挙げ句、ラルカはそう口にする。
ブラントならば、どちらの頼みも聞いてくれるだろう。なんなら、一緒に送ると言ってくれるかもしれない。
けれど、彼の厚意に甘えてばかりではいけないとラルカは思う。
二人は仮初の婚約者。
互いの感謝だけで成り立つ関係なのだから。
「いえ、さすがに案内なしでは困るでしょう。これから向かう先は、この屋敷の――――貴女の部屋ですから」
「え……?」
ブラントは立ち上がり、ラルカの手をギュッと握る。その表情は、あまりにも温かく優しい。ラルカは大きく目を瞠った。
「僕は貴女を、あの家に帰しはしません」
「ブラントさま。そ、れは……」
ドキドキと、心臓が鳴り響く。期待と不安が入り乱れ、ラルカはブラントを真っ直ぐに見つめる。
「この家で――――僕と一緒に暮らしましょう」
ブラントが微笑む。ラルカは瞳を震わせた。
「ここには、貴女を人形のように扱う人は誰も居ません。貴女のお姉さまから指図を受ける人間だって、一人も居ません。
貴女は貴女らしく、この家で自由に生きたら良い」
「だけど、ブラントさま……! そこまでしていただくわけには参りません。あまりにも申し訳なくて――――」
本当は、このままブラントに甘えてしまいたい。嬉しくて幸せで、堪らない。
けれど、たまたま利害が一致して、婚約を結んだ相手に、ここまでの負担をかけるわけにはいかないだろう。
ラルカは内心葛藤しつつ、そっと俯く。
「いいえ。仮初とは言え、僕は貴女の婚約者です。婚約者同士が一緒に暮らすのは、普通のことでしょう?
既に部屋は用意してありますし、家人たちも貴女を迎えられることを喜んでいます。彼等は僕等が本当の婚約者同士だと思っていますし、嬉しそうに部屋の準備をしてくれました。
僕は主人として、彼等の労力を無駄にしたくはありません。
それに、共に暮せば両親や貴女のお姉さまに『結婚する気がある』とアピールできます。
是非、ここに居てください」
力強いブラントの言葉。ラルカだけでなく、彼にもメリットが有るのだと説明され、心が大きく揺れ動く。
「……良いのですか? 本当に?」
「良いも何も、これは僕からのお願いごとです。わがままです。
どうか、僕のわがままを聞き入れていただけませんか?
僕は貴女と一緒に暮らしたいんです」
ブラントはそう言って、ラルカを優しく抱き締める。
素直になって良いのだと――――甘えても良いのだと、言われているような気がした。
「わたし……わたしは――――家に帰りたくない。ここで暮らしたい、です!」
ラルカが声を震わせる。
ブラントは嬉しそうに目を細めつつ、宥めるようにラルカを撫でた。
「ええ。今日からここが、貴女の家――――帰るべき場所です」
空っぽだった心に、ブラントの言葉が染み込んでいく。
ブラントに抱き締められながら、ラルカは数日ぶりに笑顔を取り戻したのだった。