10.自我の喪失
メイシュの根回しは完璧だった。
屋敷の使用人たちも、寮母やその住人たちに至るまで、誰もラルカの味方にはなってくれない。
『もう一度寮で生活したい』『一晩泊めてほしい』と頼み込んでもダメだった。絶対に無理だと突き放されてしまう。
(なんで? わたくしはただ、自由に――――自分らしく生活したいだけなのに)
ささやかな筈の願いは、けれど決して叶うことはない。
「申し訳ございません、お嬢様。メイシュさまに固く言いつけられていますから」
侍女たちはそう言って、嫌がるラルカを着せ替える。
太陽も昇らぬうちから湯浴みをさせ、顔を塗りたくり、何枚ものドレスに身を包む。
これから仕事で、城に着いたらどうせ制服に着替えるのだ。この屋敷以外の誰も見ないというのに、なんとも無意味なことだとラルカは思う。
「……ここにはもう、姉さまは居ないわ。貴方たちが黙っていてくれたらバレやしない。もうこんなことは止めましょう? 朝からこんなことに労力を使うなんて馬鹿げているわ。
第一、ドレスなんてどれを着ても同じじゃない。化粧だって、こんな濃いのは好みじゃないし」
一度はラルカの意思を尊重し、寮住まいを応援してくれた使用人たちも、皆揃って首を横に振る。彼等の表情には、はっきりと恐怖心が浮かび上がっていた。おそらく、メイシュに相当絞られたのだろう。ラルカは深いため息を吐く。
「さあ、お嬢様。今日のお化粧はオレンジの色合いを試しましょうね?」
少しでもラルカのテンションが上がるよう、使用人たちは無理やり笑顔を浮かべる。
けれど、ラルカの表情が晴れることはなかった。
(お化粧なんて、しなくて良いのに)
感情を押し殺し、時間が過ぎるのをひたすら待つ。
甘ったるい化粧品の匂いが、以前よりもずっと嫌いだと思った。
嫌だと伝えることすら面倒で、やがてラルカは何も言わなくなってしまう。
貴族の令嬢である以上、ある程度の制約は当然だ。ラルカとて、そんなことはわかっている。
けれど、彼女が置かれた状況は、とても普通の令嬢のそれではなかった。
監獄ぐらしの方がマシではないかと思えるほど、あらゆる行動を強制、制限されている。
自分という人間すべてを否定され、少しずつ 少しずつ消去されていくかのような感覚。
メイシュは既に居ないのに、ラルカはこれまでよりも雁字搦めにされたような気がしていた。
そんな中でも、仕事を続けさせてもらえたことは、本当に奇跡に近かった。
「どうしたの、ラルカ? 最近元気がないじゃない?」
エルミラが尋ねる。
「そ、れは……そんなことは…………」
ないとは言えない。
ラルカは軽く目を瞠り、それから頬を真っ赤に染めた。
(わたくしは、一体何をしているのでしょう?)
職場は今のラルカにとって、唯一自分らしく居られる場所。
そんな大切な場所で、エルミラの信頼を失うような真似をした自分が恥ずかしくて、それから情けなくてたまらない。
「申し訳ございません」
こんな自分が、エルミラにお仕えしても良いのだろうか?
これまでは、こんなネガティブなことを考えることはなかった。
誰かに尋ねられたとしても、『否』と即答できただろう。
けれど、今のラルカにはそれができない。
自分に全く自信が持てなかった。
(わたくしは、エルミラさまのために何もできない)
俯き、涙が溢れるのを必死で堪える。エルミラは首を傾げつつ、ラルカのことをじっと見つめた。
「――――もしかして、マリッジブルーかしら? 環境が変わると、ナーバスになるっていうものね」
「……え?」
どうして結婚のことを?
――――そう尋ねようとしたその時、その場に居た侍女や文官、近衛騎士までもが勢いよく身を乗り出した。
「マリッジブルー⁉ 誰が⁉」
皆、あまりにも興奮していて、主君に対する礼儀を失している。けれど、エルミラは気にしていないようで、至極穏やかに首を傾げた。
「誰がって、当然ラルカよ」
エルミラが言う。皆一様に目を丸くした。
「ラルカ嬢が結婚⁉」
「お相手は誰なの⁉」
「まだ結婚に興味なさそうだと安心していたのに!」
同僚たちが騒ぐ中、エルミラがラルカの肩を抱く。ラルカはおずおずと顔を上げた。
「……ご存知だったのですね」
「当たり前じゃない。私を誰だと思っているの?」
ふん、と鼻を鳴らし、得意げに頬を染めるエルミラに、ラルカは深々と頭を下げる。
「ご報告が遅くなって、申し訳ございません」
「別に、謝ることじゃないわ。貴女が私に黙っていた理由だって何となく分かるもの。仕事を辞めたくないと思ってくれているのでしょう?」
「エルミラさま……」
当たらずとも遠からず。結婚のために仕事を辞めたくない――――それは、ブラントと出会うまでの間、ラルカの頭を悩ませていた内容だ。
けれど、本当のことを話すのは憚られる。ラルカは頭を下げ続ける。
「良い、ラルカ? 私は、一人で悩むぐらいなら相談してほしいと思っているの。だって貴女は、私の大切な女官だもの。誰よりも頼りにしているもの。まだまだ手放す気はなくってよ?」
エルミラが微笑む。
そのままのラルカをエルミラが必要としてくれている。
けれど、そんな言葉すら、今のラルカには届かない。
メイシュの操る糸がラルカを絡め取り、思考を、感情を少しずつ奪っていく。
瞳から涙がポロポロと零れ落ちる。
(誰か、助けて)
ラルカは声にならない叫びを上げる。エルミラが差し伸べた救いの手に気づかぬまま。