閑話壱 神君御免状異見~触れ得ざる家
本筋はほのぼのを目指しますが時代の先端は……
2025年5月1日修正加筆
江戸城本丸御殿 御用部屋 老中首座 大久保忠朝
「加賀守殿、この風聞いかがでござろうか?」
顔を上げると阿部豊後守の顔が見えた。興味津々といった面持ちだな。上様への代替わり後も紆余曲折あったがようやく落ち着いた所で生来の詮索好きが出てきたのかもしれん。
「さて、豊後守殿はいかがお思いかな? 真に神君家康公がそのような書付を残されたかについてだが」
「聞いているのはそれがしでございます。噂されております{かけつぎ御免状}が真にあるのか否か、老中首座におわす加賀守殿であればなにかご存じかと思いましてな、そうは思いませぬか越前守殿?」
問われた同役の戸田越前守は巻き込まれたことがいささか不本意であったのか「ええ」と短く答えたのみであった。まあ、下世話な話であり謹厳な面のある戸田殿にとっては迷惑の類であろう。儂もいささかそう思わなくもないがまあ、後進への引き継ぎ事項であれば確りと言うておかねばなるまい。
「そう言われるのであればお答えしなくてはなりませぬな。それがしも先達の稲葉美濃守殿に伺ったお話ゆえこれは歴代の老中が知るべきことかもしれませぬな」
こうして儂は二人に対して口を開いた。真に奇妙な話を。
「時については幾つか諸説があり判然とはいたさん、何年の何月とは伝わっておらぬ。ただ神君様のお傍に本多上野介が付いていたそうだから恐らくは大御所として駿府に居られた間の事と思われる、よろしいな?」
二人が頷いた所で一息つき言葉を繋ぐ。
「当時の旗本榊原家初代は大御所様のお傍に仕えておりその日も大御所様に伺候した後勤務に付く予定であったのであろう。その場で本多上野介が初代の裃に目を付けたのが始まりよ」
「上野介は裃に継ぎ当てがあるのを目ざとく見つけ責めたという。{大御所様の御前にてそのような裃を着る事は許されぬ、即刻下がりおろう}とな、だが大御所様はお止めになり初代に尋ねたそうじゃ」
「{借金で首が回らぬほど窮しておるのか?}これに対して初代は頂いている禄を超えた費えを行い奢侈に耽るのは不忠、武士はいざという時に武具を揃えて駆けつけられねばご恩に答えられることは出来ぬ故日頃は清貧に勤めておりますと答えたという。これにいたく感激された大御所様は{忠義の心真に天晴、これぞ真の三河武士よとお褒めになり、自分の着物を与え更に{そなたの衣服にとがめだて致すものがあればこの書付を出すが良い}と仰せになり書付を与えたという。これがいわゆる{かけつぎ御免状}と呼ばれるようになったという話じゃな」
「なんと、真の事でございましたか! しかるにその榊原何某は書付を使ったことがあるのでしょうか?」
「某もそれが気になりまして美濃守殿に伺いましたが今の今まで一度も使われたことは無いそうでござる」
豊後守はよほど気になるのかぶつぶつ独り言を申しておるがそこまで気になるのであろうか?もう一人の越前守はどうかのと思い顔を向けると当の越前守が聞いてきた。
「その榊原家は今もまだあるのですかな?」
「気になられるか越前守殿?」
「今となってはいささか、徳川四天王と言われた榊原家の分家がいかがしているかは気になり申す」
「なるほどの、某も気になって調べて見た所代々小普請入りしておってな、禄百五十俵の旗本じゃな」
「なんと!小普請といえば余程に役立たず、いや代々という事は歴代当主はいかがなものでしょうか?」
「表から見ると越前守殿の言われる通りでござろうな」
「そのような者に神君様の書付を預け置くのはいかがなものでしょうや、取り上げるべきでは?」
「いや、越前守殿、それはならぬ」
「何故でございます?」
「書付にはこう記してあるそうだ{この書付をむやみに奪う者があれば徳川の名を持って成敗いたす}とな」
「なんと!」
「神君様は本多上野介が奪う事を想定しての事であろうが話には続きがあっての、その本多上野介が改易となった理由の一つに書付を奪うよう指示を出していたという物があったのじゃ」
「まさかそのような事が」
「うむ、故にその後幕閣ではこの書付{かけつぎ御免状}については誰も触れてはならぬ、触れれば家を滅ぼすと言われたのだ。{下馬将軍}と呼ばれしかの大老酒井雅樂頭殿が触れようとして大老を解任されたとの噂もあるな」
「真の事で?」
「それは噂にすぎぬが……そもそも御目見えの時に継ぎ当てのある服を着て行く事を許しただけの書状、それを咎めだてして幕閣の身分をふいにするか考えれば気にすることが馬鹿々々しくはあるまいか、よいかあの家は{触れ得ざる家}その事同輩や後輩に確りと伝え置くようにな」
「「ははっ確りと伝え置きます」」
二人は平伏し話は終わった。
これで良し、この二人がこの後皆に伝えていくであろう。そもそも我ら老中がこのような些事にかまけてはおれんのだ。上様は聡明なお方であるうえ時に激しく御政道に物申される。越後の騒動の事を思い出して見よ、我らが懈怠するは許されぬのだ。この後も油断なくお仕えせねばな。
しかし、老中首座を務める大久保忠朝をもってしても知らぬことがあった。
御免状がその一枚ではないということに、だが触らぬ神に祟りなしという諺も示す通り万事が慎重な彼がその厄を受けることはあり得ないのであった。
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この作品に登場する人物は全て創作によるものですので、現実の歴史、史実について関係はございません。