7
どうしてこんなことになったのだろう。
ラピスは一歩、また一歩と足を踏み出しながら思う。その隣ではミコトが楽しそうに当たりを見渡し同じくゆっくりと歩いている。
きっかけは、ラピスがミコトの手料理を断ったことだった。
ミコトの料理は美味しい。しかし、ラピスの甘い物好きを知っているためか、菓子類が多かった。毎週毎週それなりの量の甘味を食べていてはウエストに響く。現に余裕のあったはずの服がぴったりと体に添うようになってしまった。
確かにラピスは甘いものが大好物だが、実は普段は摂取を控えている。口にするのは会食で出された時かセドニーの手土産くらいだ。甘いものは別腹というが、ラピスにもそれは当てはまり、菓子ならばいくらでも入ってしまう。そしてそれはそのまま脂肪になる。第一王子の婚約者として、公爵家の第一子として、体型維持には注意を払わなければならない。運動をする機会が少ないラピスは食事量を減らすことで努力してきた。それを無にしないためにも名残惜しいところだがミコトの料理を控えなければならない。
失礼にならないよう正直に告げてしまったのがよくなかったのかもしれない。
ラピスの恥を忍んでの話に、ミコトは大きくうなずいて了承してくれたまではよかったが、続けてこう言ったのである。
「私も、最近太っちゃった気がして気になってたんだ。ねえ、一緒にダイエットしようよ」
ダイエットという言葉を知らずに聞き返すと、痩せるための運動のことを言うらしい。
「ですが、お恥ずかしながら私は乗馬は苦手でして」
「そんなの私だってできないよ。ウォーキング、歩くだけでもいいっていうし、一緒にそこの庭を歩こうよ! ラピスとゆっくりおしゃべりしたかったんだ」
「・・・動きやすい服装に着替えてまいります」
悪意のない純な笑顔を前に断れなかった。
毎週顔を合わせているのだが、到着の挨拶と完成した料理を振る舞われる際に料理について説明や感想を言い合うくらいで、ラピスとミコトは決して交流が深いわけではない。ミコトの邪魔をしてはいけないという建前でラピスは彼女を避けていた。
ミコトの口からセドニーの名前を聞きたくない。ただそれだけだった。
お茶会でも舞踏会でもどれほど気が乗らなくても必ず出席し笑顔で嫌悪感をおくびにも出さなかったというのに、いつからこんなに弱い人間になってしまったのか。
だが、そんな少ない交流の中でもミコトの人間性は理解しつつある。
彼女は裏表がない。何も知らない世界の中で己を隠す必要がないのかもしれない。権力や地位を巡って本音を隠すのが当たり前の貴族の世界の中で、彼女のような存在はそうそういない。いたとしても周囲にあっという間に駆逐されるだろう。
だからこそ慣れないし、彼女の言葉を無碍にできない。異世界の人間だからだけではない。ミコト自身の性質なのだろう。自然と人を引き込み慕う人間が増えていく。
なんと王族向きの人物なのだろうか。
そんなわけで、ラピスはミコトの提案通り、彼女と庭園を散策することになった。
庭師が丹誠込めて育て上げた植物たちは青々としていて色鮮やかな花々を咲かせている。日に一度は庭に赴きその日生ける花を選ぶことにしているラピスにとっては見慣れた光景だが、ミコトは感嘆の吐息をこぼしていた。
「やっぱり緑は落ち着くね。こんな素敵な場所でウォーキングとか、すごい贅沢」
「王城の大庭園には適いませんよ」
「あそこは広すぎ! これくらいがちょうどいいよ。ここも十分広いけどさ」
そのまま、とりとめのない会話をぽつりぽつりと交わしながら歩みを進めていく。日差しが強いが風が冷たいため不快感はない。目的もなく歩くなど久しぶりだ。いつもの庭が違った景色に見えてくる。
「でも、この世界はドレスだけどコルセットがなくてよかったよ」
「こるせっと?」
「こうぎゅーって腰回りを締め付けてウェストをよく見せる道具だよ。細ければ細いほどいいって倒れちゃいそうなくらい限界まで締め付けてたんだって。こーんなに細いってありえなくない?」
「それは、健康によろしくないのではないでしょうか」
「そうだね。まあこれ昔の話だから私もよく知らないけど、倒れちゃう人がいっぱいいたみたいだよ。現代だとそんなに締め付けなくて、腰痛の人が使うのが多いのかな。固定するといいんだって」
「なるほど。加減をすれば医療に使えるのですね」
ラピスが後方に控えているコーラルに視線を送ると、優秀な侍女は小さくうなずいた。そのコルセットとやらならば実現できるだろう。ちょうどここの庭師が腰を痛めていた。彼に試してみるのもよいのかもしれない。
ミコトにとっては何気ない日常会話でも、こちらの世界では目から鱗の発想なことはしばしばある。王城では様々な改革がなされているという。おそらく、セドニーが同じように彼女の発言を受け実現させているのだろう。社交的な彼のことだからうまくミコトの知識を引き出しているに違いない。
仲睦まじく会話をする二人の姿を想像し、ラピスは周りに悟られないよう拳を握りしめた。きっと、微笑ましく似合いのツーショットなのだろう。
ほどよいそよ風がミコトの黒髪を揺らしていく。結うことができるくらいに伸びた髪は艶があり周囲とは異質な黒が目を引いた。この国ではありふれた金髪であるラピスとは大違いだ。ラピスの髪は金色で癖が一つもなく真っ直ぐで、コーラルは結いやすい髪だといってくれるが、単に個性がないだけだ。セレナイト公爵の長子であること以外でラピスに特別な何かがあるわけではない。
落胆するラピスを余所に、ミコトは花の蜜を吸う蝶を指さす。
「あ、きれいな蝶! なんて名前だろう?」
「すみません。虫にはくわしくなくて」
「みつるだったらすぐに分かるんだろうなぁ。見せてあげたかった」
「ミツル?」
「うん。私の弟」
ミコトが眉を下げて、泣きそうな顔で笑う。
「小学生・・・あ、えっと、十歳で年が離れてて、めちゃめちゃ可愛かったんだよね。私が作るおやつとかいつもおいしいおいしいって食べてくれて、調子乗ってあげすぎて太っちゃって、お母さんに怒られたなぁ。今度ふわっふわのホットケーキ焼いてあげるって約束したのに、結局、作ってあげられなかったや」
空を見上げる彼女は弟の姿を思い浮かべているのだろう。
帰りたい帰りたいと駄々をこねるように主張していた当初、その弟との約束や家族のことが彼女の頭にはあったのかもしれない。
短いスカートと髪に度肝を抜かれたが、今こうして一般的な貴族と同じ格好をしている彼女はまだ日が浅いというのに立ち居振る舞いに大した違和感がない。育ちがいい証拠だ。マナー面も異世界とそう大きな違いはないようで、砂が水を吸うように学んでくれると講師が褒めていたらしい。
ミコトは、家族に愛され大切に育てられてきた。
「ラピスは一人っ子?」
ミコトの無邪気な笑顔にどんな感情を抱けばいいのだろう。
怒りか、呆れか、羨望か。
だが、ラピスはもうそんな気持ちを持てないほど、家族に対して心が冷めてしまっている。小さく微笑み首を横に振った。
「いえ、一つ下の弟がいます。隣国に留学中で久しく会っていませんが」
再会したところで何の会話もないだろう。
セレナイト家の家族のつながりは限りなく薄い。
ラピスの両親は典型的な政略結婚だった。式の数日前に初めて顔を合わせたという。そんな二人の間に愛が生まれることはなく、特に母親は冷め切っていた。ラピスは母親に抱かれた記憶がない。実際そんな過去は存在しないのだろう。ラピスは誕生してそうそうに乳母であるコーラル達の母親に預けられ、世話は使用人に任せきりだったらしい。そして、早々に後継である男児を翌年に産み、再び子を乳母に託し自らは別邸へと移った。今は趣味に明け暮れつつ社交界の重鎮として第二の人生を楽しんでいるようだ。
ラピスが彼女に会うのは社交の場のみ。親子の会話など知らない。母親にとってラピスは社交界の話の種でしかない。
父親も、長子が娘であることに落胆し、セドニーの婚約者になったことでようやく意識を向けてもらえた程度にラピスに興味がない。こちらにとってラピスは政治の道具なのだろう。厳しい言葉と最低限の事務連絡しかかけられたことがない。普段は仕事か妾の元にいて本邸にいることがなく、結果ラピスは屋敷に一人きりになっている。
弟のギベオンとも、幼少時に遊んだ記憶が少しあるだけで、後継者として特別な指導を受け早い段階で留学にいくことになった彼とはまったく連絡を取っていない。会ったところでどんな態度でどんな会話をすればいいのか悩んでしまう。
だから自分は愛情を全く知らずに育ってきたなどと悲劇のヒロインぶるつもりはない。実の両親からは与えられなかったが、コーラルの母をはじめとする使用人達は実の子のように愛情を持って接してくれた。ただ、やはりその立場上どうしても線引きがあり、ラピスが家族愛を知らないのは事実だ。
そんな自分がセドニーと家族になることへの不安は常にあった。それでも、たとえ歪でも少しずつ家族の形を探していければと淡い幻想を抱いていた。
地位も、容姿も、受けてきた愛も。
何もかも、ミコトには適わない。
「ラピス様、そろそろお時間です。ミコト様、後は庭師の案内でもよろしいでしょうか? 彼ならば昆虫の名前にも詳しいと思います」
「あ、ごめんね。用事があったんだ? 気を使わなくてもいいのに。ラピス、ありがとう」
「いえ、こちらこそ、楽しかったです」
今、ラピスはうまく笑えているだろうか。
表情が崩れる前にドレスの裾をつまみ一礼し、コーラルの後を促されるままについて行く。
「・・・予定はなかったはずだけれど」
「お辛そうに見えたので、勝手ながら引き離してしまいました」
ミコトが見えなくなったところでコーラルに声をかけると、彼女は申し訳なさそうに眉を下げて申し訳ありませんと謝罪した。ラピスはそれに無言で首を横に振った。
コーラルはそんな彼女の様子をじっと見て、一歩、主へと近づいた。
「ラピス様、ここには私しかいません。今くらい、童心に帰りませんか?」
コーラルが小さく微笑み、腕を広げた。その姿は、彼女の母親を連想させた。ラピスの体が自然と彼女へと引き寄せられていく。気付けばラピスはコーラルの胸にしがみつき、嗚咽をこぼしていた。
負けたと、思った。
最初から勝負にならない勝負だった。
諦めていたはずなのに、往生際の悪い自分がいて、いつまでも婚約破棄にならない現状にもしかしてはと泡よりも儚い夢を見ていた。
今日、はっきりと悟った。
ラピスはミコトには適わない。
この、胸に深く根付いた想いをどうすればいいだろう。
好きだった。
今も好き。
愛も恋も尊い感情のはずなのに、こんなにも無用な想いになるなんて、考えもしなかった。