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出血毒

作者: 竹尾 練治
掲載日:2021/05/31

 僕は今日も、彼女の地下室の扉を開ける。


「こんにちは。いい子にしてたかい?」

「どうかしら? 今日はまだ手首は切ってないわ」


 彼女は悪い女の子だ。

 弱くて、泣き虫で、嘘つきで、自傷癖がある。

 彼女はいつも独りは怖い、独りではいつ死んでしまうか分からないから、と鎖で己の足首を戒めて、地下室のベッドに座っていた。

 彼女は僕のいる時に、手首をカミソリで撫でたり、ボディピアスを開けたりして、痛い、痛い、と泣いてみせる。

 ――彼女は傷ついて見せないと、僕が消えてしまうかもしれないと、不安で堪らないんだ。

 そんな、ありのままの彼女を受け止めてあげることができる人間は、きっと僕だけ。

 だから、僕はずっと彼女の隣にいてあげると、決めている。


 でも、今日の彼女はいつもと少し様子が違った。病的に白い肌は更に青ざめ、苦しげな吐息を漏らしながら、小刻みに体を震わせている。

 どうしたの、と聞くと。


「……蛇に、咬まれたの」

「蛇?」

「毒蛇に咬まれたの。ブッシュバイパーという怖い毒蛇に。

 もう一時間も前の話よ。……だから、私はもうきっと助からないわ」

「嘘だ。蛇なんて、どこにもいないじゃないか」

「いいえ、本当よ。いるのよ、この部屋に」


 彼女には虚言癖があった。

 それは、いつも彼女が手首を切ってみせるような、僕の気を引く為の稚拙な嘘だと思った。


「そんな蛇が、この部屋にいるはずない。その、何とかバイパーって、外国の毒蛇だろう? そんなに強い毒蛇なら、輸入するのも禁止されているはずだ」

「手続きを踏んでお金を払えば、飼えない動物はいないわ。

 私の家なら、毒蛇の一匹を飼うぐらい、簡単に許可が取れるわ。分かるでしょう?」


 彼女は、僕の追求を煙に巻こうとする。荒唐無稽な話だったけど、僕は彼女に話を合わせてあげることにした。


「それなら、早く病院へ行かないと」

「もう無駄よ。バイパーの毒は世界一強い出血毒なの。体に入ると、全身の血管を滅茶苦茶にしてしまうのよ。

 今、私の体中の血管を巡って蛇の毒が広がっているわ。感じるの。全身が痛いの。体中が満遍なく針で突き刺されているように痛むの。貴方は、また私が嘘をついていると思っているでしょう? 私はこんなに痛い思いをしているのに。ああ痛い、痛いわ……」

 

 彼女は次第に語気を荒げ、痛い、痛いと体を震わせて泣き声を上げた。


「鎮痛剤も切れたわ。もうダメ、こんな痛いの、耐えられない……」


 白皙の(かんばせ)が歪む。鼻筋に皺を寄せ、犬歯を剥き出しにして彼女は痛みに喘いだ。

 唇を噛み切ったのか、その口許から一筋の朱が垂れる。

 これが演技にせよ、その心に抱えている苦痛は本物なのだ。

 僕は背中をさすりながら、大丈夫、大丈夫だよ、と声をかけた。


「もう、手遅れよ。粘膜からの出血も始まったわ」


 彼女の充血した瞳から、朱色の涙が流れ落ちた。

 僕は余りの衝撃に眩暈さえ起こし「ひっ」と悲鳴を上げて仰け反ってしまった。

 血涙を流す彼女は、寂しさと失望を露わに眦をさげた。


「苦しんで死ぬのは嫌なの。もっと沢山の毒を体に入れれば、早く死ねるかしら」


 紫のセーターを、彼女はたくしあげた。

 果たして、そこに蛇はいた。マムシなんて比べ物じゃない(まだら)の蛇が、彼女の裸身に巻き付いていた。

 蛇の身体は濡れた光沢を放ち、男性器めいた頭部は淫靡に彼女の身体をまさぐっている。

 不意に、蛇は蝶番が外れたように口を広げ、青白い彼女の乳房を咬んだ。

 ――その光景に、蛇に彼女が強姦されているような倒錯を覚えた。

 蛇と、衣擦れと、彼女を戒める鎖の音。


 世界が、朱に染まった。

 僕は、わけの分からない叫び声を上げながら、彼女の手の届かない所に置いてあった手斧を握り締めた。それは、万が一の時に彼女の鎖を力ずくで断ち切るためのマスターキーだった。思考する余裕などなく、彼女の身体から蛇を剥ぎ取って地下室の床に叩きつけ、間髪入れずにその首を斧で切り落とした。

 頭を失った蛇が半狂乱になって踊り狂う。僕は怒りに任せ、その体を二度三度と斧で打擲した。


 ――ふいに、地下室に朗らかな笑い声が響いた。彼女が、可笑しくて堪らないという様子でお腹を押さえ、涙さえ流して僕の狂態を笑っていた。

 彼女がハンカチで目元を拭うと、先程の血涙は嘘のように消え去った。

 悪戯げに、血糊のような色をした目薬を取り出して床に放った。


「ああ、可笑しい。毒蛇なんて、嘘に決まってるじゃない。本当に信じるなんて」


 憑き物が落ちたように、胸中の瞋恚の炎が消え失せた。掌中から血まみれの斧が滑り落ちる。


「あーあ、可哀想。この子、何の毒もない、ただのボールパイソンだったのよ」


 彼女は赤いネイルの爪先でまだ動き続ける蛇の身体を撫で、指を汚した血糊をそっと舐め上げた。

 僕は彼女の嘘に怒る余裕も、騙された無知を羞じる余裕もなく、ただ、彼女が無事であることに安堵して涙すら流した。


「良かった、嘘で、本当に良かったよ……君が、死ななくて良かった」


 彼女はとろりとした笑みを浮かべ、僕の頭を抱いて「いい子、いい子」と撫でてくれた。 


「貴方は、ずっと一緒にいてくれるのよね?」

「うん、僕はどこにも行かない」


 彼女と一緒に居てあげられるのは、僕だけなのだから。

 赤い彼女の唇が、僕の頬にそっと触れる。多すぎるピアスが擦れて鈴のような音を立てる。

 僕の足元で、頭を失った蛇が、ゆっくりと動かなくなる。


 了

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