答えを見つけようとも思わないから。
見つけた
大きく開かれた光る目の
潤い濁った 青い黒色は
私だけを見つめ返している
朝方の透明な太陽に照らされて
銀屑を散らした湖面のように
私には とても眩しくて
心は強く戸惑ってしまう
それは今 ゆっくりと瞬きをした
長い睫毛の重なり
柔らかな膨らみで訴える下瞼
火照るような温度に
私は、気持ち良く支配されていく
待ち合わせ室に放送が流れる。
立ち上がって、指定された番号のドアへ向かった。
壁、床、何処までも焦げ茶色だ。
木目に気を取られないように、薄目で進む。
私は、誰にも聞こえないくらいの小さな音を立ててノックした。
鏡面のステンレスに歪んだ顔が写る。
綺麗に掃除されていても手のひら全体を使って握る気分には到底なれないから、指先だけでゆっくりとドアノブを回した。
部屋の中に一歩入り、慎重にドアを閉めてから振り返る。
大きな音を立ててはいけない。
硬いフェイクレザーの簡素な四角いソファが二つ、4メートル四方の狭い部屋に窮屈な配置で並べられているから、壁の外に押し出されそうな圧迫感があって嫌な気持ちになる。
焦げ茶色の擦れた絨毯は、あらゆるゴミ屑を目立たせない理想的なものだ。 また、茶色。
中央の冷たく無機質な輝きを放つガラス天板テーブルが部屋の空気を一層重いものに演出していた。
壁一面を覆う巨大な絵をちらりと観て、改めて暖房機具の様だなと思った。
広大な砂漠を歩く数匹のラクダが描かれたその絵は、鈍い金色の額縁に立派に額装されているが、絵に対して明らかに大き過ぎるから妙な違和感を感じる。
果てしなく暑苦しい景色が、息苦しさを演出する。
私は一つ大きく息を吸い込んで、出来るだけ楽しい事を想像しようと努めた。
『このラクダは親子だろうか?』
『いや、その問いは先月にも、答えは出なかったよね?』
『そう、一行の向かう先にはオアシスが?または?』
部屋全体の空気が乾燥しているのは、きっとこの絵のおかげだろうと一瞬考えたら、吸い込んだ息を飲み込む事も難しく感じてしまった。
ここに通院してから、もう3ヶ月が経っただろうか。
長い問診にはじまり、数字や図形を使ったテストは簡単なものから長時間に渡るものまで様々で、毎回何を試されているのか分からずに不安ばかりが募った。
ようやくそれぞれの結果が出たのか、男性の主治医から発せられた言葉は、
「もう、大丈夫ですね?」
との一言であった。
私は閉口した。
『何も分からないままに、私の診断は終わってしまうのだな?』
不安な気持ちが表情に暗く表れた私に、主治医はこう付け足した。
「では、また別のカウンセリングを別の医師としてみましょうか?こういう会話を少し続けると、心が軽くなると他の患者さんも言ってますよ。」
と薦められ 、私は次の予約を取ったのだった。
この歳まで、自分の不安定な部分はなるべく他者に気づかれないよう隠すことに努めてきた。
そう考えるようになったキッカケなんて覚えていないし、こんな思いが自分の中にあった事に驚愕し改めて本当の自分を知りたいと思った。
可笑しな話だが、自分の本当のことなんて全く白紙であり、また全くの他人任せな性質であると決め込んでいた。
心の弱さを実感してはいても、それを表に出すことはやった事も無いし、全く出来そうにも無いのだ。
弱いと嘆く事は武器になるから、私はいつだって普通らしさを装った。
そんなつもりでも同じように寂しい人間などが、どこかで同調して意識しないでも魂が寄り添ってしまうからか、私の周りには実際のところ、精神的な面でのクリニックに通院する者や多少の薬に世話になっている人間が目立つ。
何時だって自分の判断に委ねられている。
初対面の女性カウンセラーが私を待っていた。
まだドアの前に立ったままでいる私は重たい気持ちのまま、やっと顔を上げて目線をそちらに向けた。
「こんにちは」
白いレースのカーテンからこぼれる鈍い光を背にして座っている彼女は、私を一見するなり確かに表情が変わった。
大きな瞳の奥に、可愛らしい動揺がはっきりと感じられたのだ。
あっと、声が出そうになって咄嗟に私は俯いた。
そう、いつものあの感じだった。
思いは、心の向こう側に押し込んだ。
不自然に沈みすぎるソファーに腰掛けた私に、優しい女の声色で問診は始まった。
私の発する一言一言を、彼女は紙にメモを取る。
丁寧に書き留めている紙を滑るペンの音が、私を一層遠くの場所に案内する。
「緊張していますか?今も?」
「はい。手と足が少し、震えています。」
相手の顔を見ながら話す事が難しい。
さっきから俯いているから、自分の手指しか見えていない。
身体中の関節から痛みが出るほどに強張って、肩から重りを吊るしているようだ。
震える膝をさすっていた両手で、今度は顔を隠した。
溜息はあまりに長すぎて、息が止まってしまいそうになる。
息が止まって苦しくても、それを他人事のようにして笑顔で顔を上げた。
私が笑うと、彼女もまた、笑った。
その腫れぼったい瞼の膨らみを、私はただ楽しんで記憶に焼き付けた。
問診は続いていた。
私は、彼女の質問の一つ一つに戸惑いを覚えた。
明らかに今までの他の医師とは違う会話だった。
私は素直に声に出して尋ねてみた。
「これは、今までの会話は…もう、もしかして
カウンセリングは始まっていますか?」
遠い親類と初めて会った時のような、初対面なはずなのに、どこか打ち解けた風な柔らかな会話がやり取りされた。
私の閉ざされかけの心には、その時、暗い不安が小さく生まれていた。
「はい。なんでも無い様な会話ですが、先程から全てカウンセリングの一部ですよ。私は今日初めて栄さんに会いました。初回のカウンセリングは、こんな感じで進めていきます。次回からテストなどをやるかどうかは、今日お話してから考えていきます。」
不思議で可笑しな気分だった。
診断されている自分の状況を、初めて楽しいと思った。
いつもとは違う、何処か居心地の良いような、質疑応答に時間を忘れた。
つま先が空いて踵の高い白い靴。
肌色が美しく透ける場違いな花柄があしらわれた黒いレースのストッキングから、薄桃色のネイルをした足指が私を冷ややかに脅かすように生き物みたいに蠢いていた。
全体を思うと、とても気が遠くなる。
中の方に生息している自分が、また眼を覚ます。
何かを叫ばずには居られない。
触ることも出来ないでいるくせに、不確かな喜びと何時も消えることの無い躊躇いは、私をもっと楽しませている。
ただ空気を吸い込んでみても、甘い味などを感じてしまいそうで。
また俯いて無音に笑っている。
単純で平凡な景色にも色が冴えるのだ。
ため息も、もう楽しいばかりだ。
私は久しぶりに落ち着いた。