異世界クジラは夢を見る
また夢を見たので書いときます。
クジラは卵から産まれた。
限りなく薄い水色の、キラキラと控えめに光る透明な卵は、上半分が溶けて流れ落ちると、それを待っていたかのように虹色のクジラがくるんと飛び出てきた。
クジラは自身の誕生を全身で歓んだ。卵の中で外を待ち遠しく思い、やっと望みが叶った歓びでいっぱいだった。
歓びのまま、卵の上で宙を泳いだ。何度もくるくる回り、弾かれるように跳ね、そしてまたくるくる回った。
クジラは未知のことが好きだった。自身の誕生も初めてのことだった。だからまず、生まれたことを歓んだ。
クジラは身体をぐっと縮め、それから内包するエネルギーを爆発させるようにパァ……と解放した。
すると小さな犬や猫くらいの大きさだった身体は、急に獅子ほどに膨れ上がった。クジラの歓喜を吸い込んで、クジラの身体は大きくなった。
クジラは自分が大きくなること、それすら面白くて、またわずかに大きくなった。
この世界には、クジラと同じく空を泳ぐクジラはいなかった。
卵から生まれるクジラはいなかった。
虹色のクジラも、生き物ではなく歓びをエネルギーにするクジラもいなかった。
クジラはこことは異なる世界の生き物だった。
気が付いたらここにいた。好奇心の強い彼の願いが、神様に届いたのかもしれない。
クジラはそれを深く考えなかった。どこで生まれても、誰だって気が付いたらそこにいるからだ。
クジラにとって大事なことは、そこが見知らぬ世界で、クジラがただ一人だということだ。
クジラは未知のことが大好きだった。
歓びはクジラの糧で、クジラはそれで大きくなった。
クジラは旅をした。
砂漠の空、草原の光、海の限りなさ、見るもの全てが見知らぬもので、クジラの気持ちを沸き立たせた。その度クジラは大きくなった。
見知らぬ世界でクジラは歓びに満ちていた。
いつの間にか虹色だった身体は、美しい半透明な白色になっていた。
希にクジラは陸で休んだ。
クジラは滅多に陸に降りなかったが、よく知らない陸で過ごすこともまた楽しかった。
動かぬ巨体のクジラに、たまに小動物が寄ってきた。
聞き耳を立て、恐々近寄り、においを嗅いだ。
やがて慣れたものがクジラの身体に登ってきた。上で走り回った。クジラはその辺の岩や丘と同じように思われた。
クジラはくすぐったいその体験も楽しんだ。
陸で過ごす夜には、肉食獣とも遭った。
歓びや楽しみ、嬉しさが糧のクジラは、敵意や害意に敏感だった。
クジラは驚いて宙へ跳ね起きた。
初めての害意に驚いたが、生きるための狩りをクジラは不快に思わなかった。むしろ初めて敵意を向けられ、ある種の冒険のように受け止め、それもまた糧とした。
クジラは気紛れに海にも潜った。
自分の空とは違うけれど、塩辛い水の海をクジラは踊るように泳いだ。
小さな小さな魚の群れも、大きな魚たちも、魚でない生き物たちも、空を泳ぐクジラを物珍しく迎えてくれた。
空飛ぶクジラではないクジラにも遭った。
もちろんそのクジラは空のクジラを仲間とは思わなかったが、共に広い海を泳いだ。
海でもクジラを襲うものはいた。
クジラは海のクジラのように闘ったりはしなかったけれど、それらと追いかけっこを楽しんだ。
捕まりそうになったら空に逃げた。
ずるいとは思わなかった。クジラが本当に泳ぐのは、空だったから。
こうしてクジラは世界中を旅していった。
一つところに留まることはなかった。
クジラにとって世界はどこまでも未知に溢れていて、クジラはどんどん大きくなった。
そしてある日、石造りの町を見つけた。
動物は群れは作るけれど、町は造らない。
町では自然のままとは違う、規則的に切られた石を組み合わせ、あちこち様々なものに使っていた。
きれいに整った道々に、小さな動く生き物がいた。
2本脚で歩くその生き物は、人間だった。
クジラは最初、初めて見る町にワクワクした。
何か分からないものだらけで、全身がざわりと震えた。
少し近寄ると、人間の活気や笑い声、怒声もどこか楽しげな感じがした。動物よりもはっきりした感情が届いた。
クジラは嬉しくなってもっと町に近付いた。
やがて町の人間たちも、空飛ぶ白いクジラに気が付いた。
何人もの人間がクジラを見上げ、中には手を振って声を掛ける子供もいた。
クジラは応えるようにぐるりと旋回し、町を何周かしてすぐにそこを飛び立った。
もっと別の町も見てみたいと思ったのだ。
飛び立つ先から、クジラの身体はまた大きくなっていた。
次に見つけたのは石の町よりずっと小さな集落だった。
石ではなく、簡素な木や土で作られた家が集まり、近くにはきれいに揃った四角い草地がいくつもあった。
そこは人間だけでなく、牛や馬たちも一緒にいた。
また町とは違う景色に、クジラの身体は成長した。
今度は最初の町よりもっと大きな街だった。
石の家も木の家も土の家も、色々あった。布でできた小屋まであった。
そして何より、大きな大きな、クジラまで届きそうな城があった。
クジラは初めて、人間の顔まで詳しく見ることができた。
窓から身を乗り出してクジラを見る人々は、一様に驚きの表情でクジラを凝視した。
クジラが面白く思ったのは、驚く中にもクジラを怖がったり、美しいクジラに魅入られたり、みな様々に違う顔を見せることだった。
動物は群れ単位で同じような行動を取る。けれど人間は同じ行動を取っても、違う顔を見せた。群れの意志が個人の意思ではなかった。
今までで一番たくさんの生き物が雑多に暮らす街に、クジラは珍しく数週間に及んで滞在した。
人間はしばらくするとクジラに慣れ、当初の驚きは薄れた。代わりに徐々に、親愛の情を持ち始めた。
クジラはそれも、喜んで享受した。変化する人間の気持ちも楽しく思った。
けれどクジラは、いつも通りにそこをすぐに立ち去るべきだった。
クジラは長く、近く、人間の側に居すぎた。
ある日いつものようにクジラは街を旋回しに行った。
近頃はクジラが行くと、子供らが後を追い掛けて回った。
その騒がしい気配も、段々クジラ以外に気が逸れていく様子も、クジラのお気に入りだった。
けれどその日、クジラが最初に感じたのはピリッとした痛みだった。
クジラは痛みというものを初めて感じた。
時々クジラに触れて、甘噛みする動物には出会ったが、それで痛みは感じない。そしてその痛みは、初めてのものなのにクジラは嬉しくなかった。
クジラは初めての痛み、初めての不快感に少し不安になった。原因を探した。
今日は子供らは家々に引きこもり、不満げな顔を覗かせていた。これもクジラには不快だった。
彼らが見ていたのは、街の通りで隊列を組む武装した兵士たちだった。クジラが感じた痛みは、その兵士たちからだった。
彼らはクジラに、悪意を抱いていた。
生きるためではない、食べるためではない、何かおぞましい、クジラには理解できない感情で彼らはクジラに向かってきていた。
それは純粋な悪意だけではない。
人間らしく、害意、殺意、嫉妬、焦燥、傲慢、雑多な意識がごちゃ混ぜにクジラに押し寄せた。おかしなことに、クジラが大好きな希望や歓喜の感情も混ざっていたのに、クジラにはそれが全く嬉しく感じられなかった。クジラが好きなそれらとは、全然違うものだ、ということだけが分かった。
そして彼らが向ける悪意は、クジラにとっては痛みになると。
恐ろしくなったクジラは、その街から逃げ出した。
未知のものを恐ろしいと思ったのは、初めてだった。全く嬉しくなかった。
臆病なクジラは、ひたすらその未知のものから逃げたかった。もう人間の街に居たい気持ちなど、残っていなかった。
尻尾を返して逃げようとするクジラに、しかし兵士たちは諦めずに追いすがり、槍や矢を放ってきた。
いくつかはクジラに届かず虚しく地に落ち、いくつかはクジラの尾に弾かれ、ーーいくつかはクジラの美しい身体を傷付けた。
クジラは声にならない悲鳴を上げた。
決して耳には届かぬその声は、世界中を震わせた。
さしも醜悪な戦意を見せていた人間たちも、瞬間自失した。
その間に、悲鳴を上げたクジラはできうる限りの速さで空を泳ぎ去っていった。
はっと人間たちは我に返るが時遅く、もうクジラを追うことはできなかった。
しかしふと、路上に落ちたクジラの欠片を見付けた。
クジラと同じ白い半透明の、とてつもなく美しい、美しい石だった。
クジラはひたすら逃げた。
逃げて逃げて、世界の果てまで行ってしまいたかった。
クジラが受けた傷は、クジラの大きさからすれば微々たるものだった。けれどあれら矢が、槍が刺さった時、信じられないくらいの痛みが全身を駆け抜けた。傷の痛みではない。人間たちが向けてくる負の感情を、直接触れた耐え難い痛みだった。
逃げ疲れたクジラは、誰もいない岩場で身を縮めて震えながら眠った。
クジラの巨体は、昨日よりほんのわずか、小さくなっていた。
恐ろしい目に遭ったクジラは、それでも旅をやめることはできなかった。
世界の美しさはクジラの糧だった。
傷と痛みが癒えたクジラは、新しい景色を求め、しかし決してもう人間の街には近づかぬよう、旅を続けた。
けれど世界は以前と同じようには、クジラを迎えてくれなかった。
どこへ行っても、望んでないのに人間たちに出くわした。
初めてクジラを見て、ただ驚く者もいたが、段々とみながクジラを認知し、積極的に探し出していく様相を呈してきた。
ただ見に来るだけの者はわずかだ。
みながみな、クジラを悪意と欲望の眼差しで見た。
クジラは元々臆病な質だった。
好奇心が強く、未知のものへの探求心はあっても、他者と争うこと、傷付け合うことは怖かった。
クジラは心休まることがなくなっていった。そしてクジラの身体は、日を追うごとに縮んでいった。
人間たちは徒党を組み、次第にクジラを追い詰めていった。
疲弊したクジラの泳ぎは、以前のような精彩を欠いていた。
そこを突いて地形を利用し、罠に嵌め、クジラの動きを縛って攻撃を仕掛けた。
人間たちの凶器は、またもクジラを傷付けた。
クジラは音のない悲鳴を上げ、身を捩り、苦痛に喘いだ。けれどそんなクジラを顧みず、むしろますます狂熱的に人間たちは奮い立った。
近寄って攻撃してきたり、クジラの周囲に散らばった欠片を拾いに来た者たちの中で、たまたま誰かがクジラの身体に直接触れた。
瞬間。
それまで武器で傷付いたのより以上の、凄まじい痛みがクジラを襲った。
痛みだけではない。雷のような何かがクジラの体内を走り、暴れ、ーーそして比喩でない、本物の激烈な雷撃が人間たちに放たれた。
直接撃たれた者たちは即死した。
撃たれずとも近くにいた者は酷い火傷を負い、助からぬ傷を受けた。
雷撃から遠かった者は視覚や聴覚を失い、突然のことに呆然としていたが、すぐに我先にと逃げ出した。
人間たちが死んだことも、大怪我を負ったことも、逃げていったことも、クジラにはよく分からなかった。
人間が、悪意が触れた痛みが身体中を打ち鳴らし、意識が遠退きそうだった。
クジラはただ、怖くて怖くて、そして悲しかった。
クジラは初めて、涙を流した。
それでもクジラを追う人間はいなくならなかった。
クジラには理解できない何かを求めて、人間たちはクジラを狩り出した。
その内クジラは、追いかける人間に気付く度に雷撃を撃っていた。
クジラは生き物を殺すことは嫌いだった。
不快な感情に追われ、嫌いなことを続け、クジラはどんどん弱った。色を失い、かつての白い半透明の身体は濁っていった。ついには元の、仔犬のような大きさに戻ってしまった。あの時の、美しい虹色は戻らなかった。
クジラは森の陰で臥していた。
もう空を泳ぐ力もなかった。
汚れ、縮んだクジラに人間たちは興味を失った。皮肉にも、この時になってやっとクジラは休むことができた。
けれどクジラはもう、歓びを求めて旅することはないだろう。身体は弱り、それ以上に心が傷付き、萎んでしまった。
クジラはその場でただ終わりを待っていた。
その人間が通り掛かったのは偶然だろう。
もう人間たちは欲を持ってクジラを探さなかったし、美しさに魅せられてクジラを見に来たりもしなかったからだ。
その者は旅人だった。
彼はクジラの話は、おとぎ話でしか知らなかった。
見る影もなくなってしまったクジラを見付け、けれど彼はそれが例のクジラだと分かった。
彼はクジラに話し掛けた。
君は、どうして泣いているんだい
クジラは声を出すことはできなかった。
しかし彼は、クジラの気持ちが分かるようだった。
ああ、もう世界を見ることができないのが、悲しいのか
彼は首をかしげ、しばし何かを考えていた。
やがてかすかに微笑むと、そっとクジラを抱き上げた。
久しぶりに触れてくる人間に、またあの痛みが思い出され、それにこの優しく話し掛ける人間を傷付けることを恐れ、クジラはびくりとした。
ところが旅人に触れられても、クジラに痛みは襲ってこなかった。
どころか、優しくあたたかい力が触れられたところから伝わってきた。
クジラは思い出した。
久しく忘れていたが、この世の美しいもの全ては、自分の糧であったと。
それまで悲しくて泣いていたのとは違う涙が、ポロリとクジラの目から零れた。
クジラを抱き上げた旅人は、クジラを見つめながら語りかけた。
僕も旅が好きで、世界中を旅して回っている。だから君が悲しい気持ちは分かるよ
だって世界はこんなに美しくて、どこまで行っても追い付けない
クジラは精一杯頷いた。
そう、そうだった。何でこんなことになったのだろう。
またクジラは悲しみの涙をこぼした。
それを見て、また旅人はちょっとだけ悲しげに笑った。
でもね、きっと君はまた世界を見に行けるよ。今でなくても、遠い先でも、ここでなくても、世界を飛び越えても、きっと
何となく、そんな気がする、と彼は言った。
僕も君と同じ、旅人だからと。
クジラはじいっ、と彼を見詰めた。
心が真っ白になった。
それまで果てしなく疲れ、傷付き、うちひしがれて、萎んだ心が、真っ白になった。
クジラの身体が、淡く虹色に光り出した。
光は全身を包み込み、頭の先から粒子となって空を飛んで行った。最後、尾の先まで光の粒と消えてしまうと、旅人の手の中にはもう何も残っていなかった。
クジラの光は空を越え、時を越え、世界を越え、
新しいそこで、美しい水色の卵となった。
書いてる最中にクジラがゲシュタルト崩壊起こしそうでした。
ところで主役がクジラでも異世界転移って必須なんでしょうか(違和感)