1:プロローグ
「済まない、リリー」
好き。
「婚約を破棄してくれないか」
貴方が好きよ。
「どうして?」
私は笑顔を浮かべる。上手く笑えているだろうか。
長い長い沈黙の後、彼は口を開いた。
「………実は、好きな人が出来たんだ」
頭を強く殴られたかのような衝撃を受けた。
貴方の好きな所を挙げてと言われたら、一体どれだけ出てくるだろう。
サラサラの金髪、澄みきった空色をした切れ長の目。精悍な顔つきをしているけど、笑うと幼く見える所。それから、騎士服を着ている時も格好良くて素敵。
見た目に反して甘党な所。実直で、不器用な性格で、時々頭が固い所。思ったことがすぐ顔に出てしまう所。
挙げていったらきりがない。それでも「好き」と伝えたことは一度もなかった。
もし、一度でも口に出していたら。
そうしたら、こんな結末は迎えなかったのだろうか。
でも、“もし”や“だろうか”などの仮定の話をしても意味がない。
過去は変えられない。
泣いてしまいたい。でも、泣けない。
泣いたら彼を哀しませてしまう。貴方は優しい人だから。
最後は笑顔で別れたい。私の笑顔を少しでも覚えていてほしい。
私は、精一杯の笑顔を作る。
「……そうなの。だったら、仕方がないわね」
「本当に済まない。慰謝料は幾らでも払う」
「そんな、気にしないで」
お金じゃなくて、貴方の心が欲しかった。
「婚約破棄の手続きは俺がしておくよ」
「そう。今までありがとう、ロビン。……ああ、もう婚約者じゃないんだから“ロベルト様”って呼ばないといけないわね」
「……そうだな。今までありがとう、リリアナ」
そう言って、彼はまた深く頭を下げた。
好き、好き、好き。
今まで貴方に言わずに留めてきたこの言葉。降り積もって、私の心は貴方への思いでいっぱいになってしまった。
この気持ちを、私は何処に捨てればいいの?
この気持ちを捨てたら、私の空っぽになった心には何を埋めたらいいの?
ロベルトには、最後まで笑顔を見せられた、と思う。彼は、最後まで申し訳なさそうな顔をしていた。
固辞したのに、律儀に家まで送ってくれた。そう言う紳士なところも、好き。“元”婚約者のことなんて放っておいて、好きな人の所に行けばいいのに。これ以上、“好き”を増やさないでほしい。
彼の家を訪れるのはこれでもう最後だろうから、目に焼き付けておいた。
家に帰ると、執事が出迎えてくれる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま。今日は夕食は要らないわ」
「……かしこまりました」
幼い頃から家に仕えている執事は、詮索しないでくれた。私の性格を熟知しているからだろう。
自室にいたメイド達も下がらせて、同様のことを告げる。彼女達も詮索しないでくれた。どうせその内知られてしまうことだ。だけど今はありがたい。
「……っ……っく」
一人になると、涙が溢れ出てきた。止めようと思っても止まらない。
分かっていたことだ。どうせいつかは婚約破棄されるだろうと。彼と婚約出来たのは奇跡に近い。いや、本当に奇跡だった。
それなのに。私はいつから求めてしまったんだろう、彼の心を。傍にさえ居てくれれば、それでよかったはずなのに。
『浮気してもいいから、傍にいて。貴方が好きなの』
あの時、その言葉を必死で呑み込んだ。
なりふり構わず縋れば、彼はきっと私の傍に留まってくれただろう。優しい人だから。
だけど、心は好きな人にしか向けられない。それに彼は素直だから、そんな器用なこと出来るはずがない。
そしていつか、そんな歪な関係は破綻する。だから、これで良かったんだ。
でも、やっぱり悲しい。
どうせなら、「私が嫌いになった」とか言ってくれたら良かったのに。そんなこと言われても、結局は泣いていたと思うけど。
私、リリアナ・ソーントンは本日好きな人に婚約破棄をされてしまいました。