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モーリシャス・アビドル

 モーリシャス・アビドルは麻薬を欲する男だ。

 単純なドラッグパックではない。電子ドラッグでもない。

 純粋な、昔ながらの麻薬ドラッグ


 欲しいのは、そういうモノだ。


 ネオンに目が眩むメガシティ・ネオトーキョーで“そういうの”が欲しいなら、五大超企業のひとつである黒羊マヴロ・プロヴァドに頼むのが正しい。


 というか、黒羊の息がかかっていない売人のほうが少ない。

 それに黒羊製の麻薬は質が良い。

 もちろん金払いがちゃんとしているなら、の話だ。


 金をそれなりか、自分の臓器ぐらいしか換金できない奴には粗悪品が渡される。

 あまり効かない。

 それなのに中毒性はたっぷりという、最悪な代物だ。


 その点、モーリシャスは黒羊にとって上客だ。

 五大超企業のひとつ『クリティカル』の関連企業に勤め、売人の言い値で買えるほどの財力を持っている。


 つまり、Aランクの住人である。


 メガシティ・ネオトーキョーにおいては、古き良きカースト制度が明言されていないが存在する。


 AからC。

 下に行くほど教育も民度も、人の価値も下がっていく。

 逆に言えば、Aに居ることができるなら人生は安泰だ。

 雨雲に支配される心配もない。


 気分次第で天候は変えられる。

 フルスクリーン型の天井が当然の設備だ。

 もちろんモーリシャスの豪奢な家にも備え付けられている。


 豪奢、とは言ったが実際のところAランク市民からすれば小さなマンションの一室だ。

 Bランクの下層やCランクの住民からすればとんでもない機能が様々取り付けられた一室であるのだが。


 職場ではモーリシャスを悪しざまに言う者もいるし、見下してくる同僚もいる。

 だが気にしたことはない。


 なぜならモーリシャスには麻薬がある。

 黒羊特製の、純度の高い貴重でハイな麻薬である。


「バカな連中だ。人をコケにしている暇があるなら、俺みたいに天国と地上を往復すればいいのに」


 AIロボットによって管理、清掃の行き届いたトイレの個室にこもり、モーリシャスは呟いた。

 それから白い結晶を乗せたアルミホイルを、火の出ないヒート式ライターで炙る。

 火が出ると警報が鳴るので、こういった道具が必要になるのだ。


 ドラッグパックと違って麻薬の良いところは、トイレで“ヤ”っても煙が出ず、探知されて仕事をクビにならないことだ。


 液体になった結晶を注射器で吸い取った。

 チューブで肩の近くを強く縛り、膨らませた二の腕の血管に針を突き刺す。


「あぁ……」


 注入と同時に、全身から体温が奪われていくような感覚を覚えた。

 背筋のあたりから虚脱が始まる。

 油断すると、そのまま漏らしてしまいそうになる。


 トイレで漏らすなんて最悪だが、仮に漏らしたとしても今の万能感あふれるモーリシャスなら気にしないかもしれない。


 もちろん仕事に支障をきたしてはならないので、そんな粗相をするつもりなど一遍もないのだが。


 トイレから出たところで、洗面台で手を洗っている男に気づいた。

 口に藍色のハンカチを咥えている。

 フレッシュシャワーがあるのに、今どき珍しいなとモーリシャスは思った。


「新しいのはいかがでしたか」


 男が話しかけてきた。

 トイレには今、モーリシャスとこの男しかない。

 自分に話しかけてきたのだと理解し、モーリシャスはフレッシュシャワーと滅菌ライトで手を洗浄しつつ、男のほうに顔を向けた。


「知らない人間とは話さないことにしてる」

「だとしたらお見知りおきを。あなたにこれから贈り物を届ける配達人です」


 男は手を拭きながら、人の良い笑みを浮かべる。

 上級の売人は大体こういう顔をするので、モーリシャスは簡単に心を許したりはしない。


「どこの誰だ。曖昧な言葉で濁すな」


 麻薬を入れたモーリシャスに怖いものはない。

 その筋の人間だとしても、構わず詰めていく。

 男は機嫌を損ねたような態度を見せなかった。

 代わりにハンカチを丁寧にスーツの内ポケットに戻す。


「これは失礼。ワタクシ、羊の蹄サボ・デ・ムトンのワルシャと申します」

「……本物か?」

「もちろん。こちらが証拠です」


 そう言って、ワルシャと名乗った男は懐から掌に隠せるほどの小さなビニールパックを取り出した。

 中身は白い結晶。

 モーリシャスの“大好物”。


「先任から買ったものが尽きる頃だと思いまして。お近づきの印に格安でお譲りしますよ」


 ワルシャの言う通り、モーリシャスは今夜売人と接触しようとしていた。

 だが向こうから来てくれて手間が省けた。

 もちろん彼が本物の売人なら、という話ではあるが。

 潜入捜査官、または囮捜査官という線もある。


 しかし、モーリシャスの警戒心が“もった”のもそこまでだった。


「……いくらだ」


 中毒者は、麻薬の前では無力なのだ。


「これでどうでしょう」


 ワルシャが示したのは指一本。

 すなわち、百万J$ジャパニーズドルだ。


「本気か?」


 ビニールパックには結晶がミチミチに詰まっている。

 普段なら5倍はする代物だ。


「言ったでしょう。お近づきの印ですよ」

「……買う」

「ありがとうございます」


 ワルシャがサッと取り出した掌サイズのリーダーに、モーリシャスは親指を押し当てた。

 それで支払いは完了。

 モーリシャスの隠し口座から百万J$が引き落とされた。


 モーリシャスは代わりに麻薬の詰まったビニールパックを手に入れる。


「……なんで、あんたに代わったんだ」

「なんで? ああ、先任はヘマをして死にましたので」

「……なるほど。よくわかった」


 ヘマの内容なんて聞かない。

 深入りしても良くないことなんて常識だ。

 麻薬を身体に入れた直後で、少しばかり口が軽はずみになっている。


 もっと慎重にならねばならない。

 黒羊が生み出す、白い結晶によってもたらされる天国の住人で居続けたいのならば。


「では、またご入用のときに。その前に必要になった場合は、ご連絡を。番号は先任と変わりませんので」

「わかった」


 頷くと、ワルシャが口元だけで微笑み、頭を下げる。

 踵を返すとさっさとトイレから出て行く。

 数秒待ってからモーリシャスも出た。

 長い廊下のはずなのに、ワルシャの姿は影も形もなかった。

 まるで最初からそんな人物がいなかったかのように。


「さて、午後も頑張るか」


 しかしモーリシャスにとってはそんなことはどうでもいい。

 肝心なのは運び屋、売人としてワルシャがちゃんとしているかどうか。

 モーリシャスが求めているときに、必要な量を調達できるのか。


 重要なのは、それだけだ。

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