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チェルシー・レッドカット

 遠い、はるか遠い場所に雷鳴が見える。

 トゥリオット・シャロンは、一本足で立つヨガのポーズで、窓の外に広がる曇天を見つめていた。


 暗い部屋だった。

 明かりは点いていない。

 カーテンがないから、外からの光だけが部屋を照らしている。

 窓に雨粒がいくつも張り付いて、ネオンの光を粒の中に閉じ込めていた。


 シャロンは裸だ。

 一糸まとわぬ姿で、その美貌と美しい乳房を始めとしたプロポーションをさらけ出している。


 だがそこはとある“塔”の最上階。

 彼女を盗み見るものはいない。


 美しい。

 と、シャロンは思った。

 曇天下に広がる人々の欲望渦巻く都市。

 誰も彼もが何者かになるため足掻く世界。

 己を満たす矮小ながらも必要最低限の幸せに気づかない、そんな尊い社会。


 シャロンはピクリとも動かなかった。

 ただ、口元に浮かんだ微笑みだけが、深く、濃くなっていく。


「先生、失礼しますよ」


 そこへ、ひとりの男が入ってきた。

 無精ひげを生やし、青色のスーツを着崩した男だった。


 チェルシー・レッドカット。

 超巨大企業のひとつ「黒羊(マヴロ・プロヴァド)」に所属する男だ。


 彼の仕事はシャロンに“薬”を届けること。

 給与は悪くない。

 道中、多少は危険だがチェルシーにとっては朝飯前だ。

 それ以外の特典としては、誰もが見惚れる芸術じみたシャロンの裸身を眺められる。

 悪くない。それどころか最高。と、チェルシーは常々思っている。


「これ、今日の分です」


 油紙の袋に入った薬を投げる。

 これまで一ミリも姿勢を崩さなかったシャロンが、ようやく動く。

 袋を片手でキャッチし、中を改めて満足げに頷く。


「ありがとう、チェルシーくん。どう? 今日は報酬いる?」


 シャロンが身体を真正面に向ける。

 一糸まとわぬ姿なので、白く豊かな乳房の先に浮かぶ淡いピンクの乳頭も、割れ目の上に生える銀色の叢も直に見えていた。


「……遠慮しておきます」


 並みの男なら、シャロンの誘いを断ることはできない。

 彼女に抱くのは彫刻めいた肢体に対する畏怖と、それらを好きに出来るという破壊願望に似た欲情に抗うことはできないのだ。


 しかしチェルシーはやんわりと拒否する。

 それは彼が“知っている”からだ。

 シャロンの欲望と誘いに乗れば、いったい“どうなってしまうのか”。


 それらはすべて、チェルシーとシャロンの間に横たわる男女が証明している。

 男女は床を埋め尽くすほどの数がいて、それぞれが股から、口から体液をこぼして失神している。

 ぐったりとして動かず、死んだように眠っていた。


 彼らはすべて、シャロンに絞り尽くされたのだ。

 男は精液を、女は愛液を。

 精も根も尽き果て、さらに求められてほとんどの人間が失神した。


 しかし恐ろしいのは、彼らがすべてシャロンの信者ということだ。

 毎日のように失神させられているというのに、彼らはシャロンに求められることをやめない。


 シャロンと、時には信者同士で精を貪る。

 男も女も関係ない。シャロンの前では誰もが等しく性欲の奴隷となってしまう。


 チェルシーが持ってくる薬の効果もそれに貢献している。

 それがどれほど気持ち良く、人を堕落させるか知っている。

 だからこそ、チェルシーは一線を引く。


 売人が売り物で溺れるなんて、目も当てられない。

 そういったわけで股間のモノがどれだけ素直に反応していようと、チェルシーはシャロンに手を出さない。


「あなたはいっつもつれないわね」

「まだミイラ取りでいたいので」

「うふふ」


 シャロンは言葉だけで笑って、袋の中に無造作に手を突っ込んだ。

 それから噛みタバコ型の薬を少量取り出して、自分の口に放り込む。

 くちゃくちゃと咀嚼していくうちに、唾液と混じり合ってシャロンの瞳が蕩けていく。

 目尻が下がり、股の間から太ももに向かって透明の液体が一筋流れていった。


「ああ、もうダメ。我慢できない」


 シャロンはそばにいた女の前に屈んだ。

 そして気絶している彼女の首を掴んで締め付け、強制的に起こした。

 それから口づけをして、薬を彼女にも注ぎ込む。


「あぁっ、あぁあっ!」


 女ふたりの喘ぎ声が始まると同時に、チェルシーが部屋からそっと抜け出していた。


「やれやれ。お盛んなことで」


 外に出たチェルシーがため息と同時に吐き出す。

 紙のドラッグパックを口に咥えて、着火。

 煙を吸って、静かに吐き出す。


 メガシティ・ネオトーキョー。

 Bランクにある、最もAランクに近い摩天楼群。

 そのひとつにチェルシーはいた。


 超巨大企業のひとつ「クリティカル」関連企業の重役候補であるシャロンに薬を届けるために。


 一本吸い終わり、携帯灰皿にドラッグパックを押しつける。

 すると、アイ型デバイスが着信を知らせた。

 瞳の動きで応じると、相手の顔と名前が透過スクリーン越しに表示される。


『よぉ、元気に商売してるか、チェルシー』


 通信の主は、黒羊の売人グループのひとつ『羊の蹄(サボ・デ・ムトン)』のトップであるミスタだった。


「ああ。今もお得意様に届けたところだ」

『お前の顧客はひとりだけだろう。くっくっく』


 わざとらしい笑い声。

 口元に笑みを浮かべているが、その目はティアドロップ型のサングラスによって隠されている。


「何の用だ」

『用、用か。そうだな。俺たちの間にはそういうのが必要だ』

「……」

『くっくっく、そう怒るな。美味しい話だ。お前、ルバ・ラッファは知ってるか?』


 ルバ・ラッファ。

 知っている。

 あの妙な神を崇拝している男がトップの犯罪集団だ。

 確か、デリル・ヘイシュ。ふくらはぎにマニ車を搭載したイカれた男。

 弟はもっとイカれているとの噂だ。


「ああ」

『そいつらと少し仕事をしようと思っている。奴らの力で新規開拓できそうなルートが生まれそうなんだ』

「信頼できるのか? うちの組織でもないだろ」

『信頼? そんなもの必要か? 金になるかどうか、だ。奴らは金になる。裏切れば、まあそうだな。いつものように処理すればいい』


 物騒な言葉を、当たり前のように言う。

 しかしそれも真理だとチェルシーは思う。

 使える道具は使う。使えなくなったら捨てるか、また使うときまで取っておく。

 道具が生ものなら、当然捨てる、もしくは処理する、だ。


「それで? 俺に何をさせたい?」

『監視だよ。ルバ・ラッファがキチンと仕事をしているか。口出しもしなくていい。ただこっちが命じたとおりに動いているか、その監視を頼みたい』

「なにが起こっても手は貸さない。それでいいのか?」

『もちろんだ。仕事を失敗するならそれまで。ちゃんとしないなら、それもまたそれまでだ。ちゃんとしているならそれでいい。どうだ? 簡単だろう?』

「……いくらだ」

『お前が顧客にブツを届けるお使い代、10回分』


 高い、とチェルシーは素直に思った。

 ただの監視でそれだけの金が動くわけもない。

 つまりこれは、ただの監視ですら危険が伴う仕事というわけだ。


「ノった」


 しかしチェルシーは即答した。

 断る理由はなかった。

 金はあればあるほどいいし、仕事も往復だけで退屈していたところだ。


『お前のそういうところ、大好きだぜ。連絡は部下からさせる。期間は一週間。明日からさっそく始まる』

「了解だ。前金を用意しておけ」

『ああ、当然だな。俺とお前は長いこと“やってる”仲間だが、信頼関係があるわけじゃない』

「そのとおり。前金と情報が振り込まれ次第動く。連絡はその部下にでいいな?」

『ああ。いい仕事を期待してる』

「こちらこそ。いい金払いを期待している」


 言って、チェルシーは通信を切る。

 直前に向こうから大笑いが聞こえた気がした。

 たぶん気のせいではないだろう。


 チェルシーとミスタはほぼ同期。

 向こうのほうが出世頭なのは間違いないが、部下と上司という関係でもない。

 とはいえ、対立する相手でもない。

 そういうのは、“向こう”で勝手にやってもらうことにする。


 チェルシーはあくまで上客に対する上質な運び屋だ。

 それ以上でも以下でもない。

 ただほんの少しワルで、仕事以外にも小遣い稼ぎをしたりする。


「予定外が起きてくれたらいいなぁ」


 チェルシーは咥えた二本目のドラッグパックに火を点けて、ミスタの部下から連絡が来るのを待つのだった。

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