ヘイシュ兄弟
目の前にいたはずの女刑事が消えた。
違う。消えたわけじゃない。
開いたはずの扉が、勢いよく閉じたのだ。
火花が散った。
身体が前に出るのを止められなかった。
顔を強かに打ちつけ、鼻血が噴き出す。
握ったナイフが突き刺したのは、柔らかい肉じゃなかった。
硬い扉だ。
スチールに刀身の半ばまで突き刺さったナイフは手からすり抜けた。
ミルコは顔をぶつけた勢いのまま、狭い室内にひっくり返る。
掛け軸が破れ、畳に血が散った。
今度は扉が蹴り飛ばす勢いで開いた。
入ってきたのは男の刑事だった。無精ひげを生やした強面の男。
「警察だ。殺人の重要参考人としてミルコ・ヘイシュ、お前を逮捕する」
ミルコは近づいてきた刑事に対して、少ない荷物が入ったカバンを投げつけた。
しかし刑事はそれをあっさり手で払いのけると、ミルコの腹に思い切り蹴りを入れて来た。
「げぇっ……!?」
革靴のつま先が少し上目に伸びてきて、鳩尾にめり込んだ。
身体がくの字に曲がる。
ミルコは床をのたうち、黄色い液体を畳に吐いた。
「それから警察に対する公務執行妨害、暴力未遂、殺人未遂も追加だ」
「ぐ、くそ……なんだ、暴力未遂ってのは……ふざ、けんな……」
しゃべりながらも、ビクッ、ビクッ、と身体が痙攣する。
ミルコはうつ伏せにされ、手錠で後ろ手に拘束される。
「サムッ!」
扉の前で、女刑事が叫んだ。
ミルコと、サムと呼ばれた刑事が同時に女刑事のほうを見る。
奇妙な呻き声をあげて、店員が吹っ飛んでいくところだった。
突き出した足が見えたので、蹴られたのだと理解する。
ダボついた黒い作業用ズボンに硬い黒革のブーツ。
女刑事がミルコたちから見えないところに視線をやって、構える。
手のひらを開いて、ボクシングの構えで襲撃者と相対していた。
視界の端から拳が飛び出してくる。
握り込んだ拳の小指側から何かが伸びていた。
ナイフだ。
柄についた環に指を通すカランビットナイフ。
女刑事は頭を後ろに振ってその一撃を避ける。
寸でのところだった。
激しい動きについて来られなかった髪が幾筋か断ち切られた。
女刑事は上半身を後ろに振った反動を利用して、鋭い直蹴りを放った。
ゴツッ、と硬い音がして、女刑事が顔を顰める。
サムが立ち上がる。
腰に携帯していた特殊警棒を取り出し、強く振って芯を伸ばす。
飛び出すと同時に女刑事が大げさに下がった。
それを恐れと見たのか前に出た襲撃者の姿が露わになる。
サムが振りかぶった警棒を思い切り叩きつけた。
襲撃者はサムの存在に気づくが反応がわずかに遅れた。
「グッ!?」
ガードのために上げた右腕と右肩、そして目だし帽に隠された頭部が打たれる。
襲撃者の身体が壁に叩きつけられ、呻き声が漏れた。
しかし形勢逆転とはいかなかった。
「きゃあ!」
「エミリー!?」
視界から消えたはずの女刑事が体勢を崩して戻ってきた。
そのまま床に倒れ込む。
エミリーと呼んだ女刑事に一瞬視線が向いた。
それがサムにとって命取りだった。
襲撃者とは反対方向から伸びて来た拳が、サムの無防備な顎を思い切り打ち抜いた。
「ガッ……く、そ……たれ……」
脳が揺れたのだ。
サムの膝が折れ、倒れかける。
しかしドア枠を掴んで、なんとか起き上がろうと踏ん張った。
その胸元に向かって、もう一人の襲撃者が蹴りを入れた。
硬いブーツの底面が分厚い胸板に叩きつけられ、今度こそサムは吹っ飛んだ。
ドア枠に新たな手がかけられる。
現れた人物は目だし帽を脱ぎ、頭を振ってクシャクシャの髪を晒す。
ミルコにとっては見知った顔。
生まれたときから、今までで一番そばで見ていた顔だ。
「……兄貴」
入ってきたのはデリル・ヘイシュだった。
背後で右腕を振ってダメージを確認しているのは、武島だ。
目だし帽は取ってないが、身長は高くないしがっちりとした肉体でなんとなくわかる。
「ラカ・シュリム・トゥカラ・ルーヤ」
デリルは呟き、両脚の踵を踏み鳴らした。
ふくらはぎのマニ車が回る。
経文一回分。
デリルはミルコを見て微笑みを浮かべた。
母と兄が信仰している女神のような不気味な笑みだ。
と、ミルコは思った。
「武島」
「はい」
呼ばれた武島がサムの懐から拝借した鍵を投げる。
電子錠なので、鍵穴はない。
キーの部分と手錠の結合部分を触れさせると、短い音がする。
それでようやくミルコは解放された。
デリルが真っ白なハンカチを差し出してくる。
ミルコは受け取り、遠慮なく鼻血をかんだ。
ハンカチを返すと、デリルは嫌な顔ひとつせず、ミルコの前にしゃがんだ。
「俺たちは家族だ。知ってるな、ミルコ」
「当然知ってるさ、兄貴……ガッ!?」
デリルの手がミルコの顔を掴んだ。
力が加えられ、痛みがミルコを襲う。
デリルの腕を掴んで離そうとするが、びくともしない。
「俺はお前を見捨てない。見捨てられない。ママとの約束だからだ。だがな、今回ばかりは少し向こう側に入ってもらおうと思っていた」
「ガッ、ぐ、うぐ、あっ……」
ミルコの身体が少しずつ持ち上げられていく。
恐ろしいほどの腕力だった。
「しかし心変わりした。それではお前のためにはならないと。だからな、モラトリアムはもう終わりだ。家族のために働け、ミルコ」
デリルは立ち上がっていた。
ミルコは片手で持ち上げられている。
足は浮いていた。つま先が畳をかすったのが最後だ。
両足がバタバタと空中でもがき続ける。
「俺、は……」
「すまん。答えは聞いていない。お前が言うのはイエスだけだ」
「は?」
デリルの手には注射器が握られていた。
それがミルコの首にブスリと刺さった。
「あに、き……」
「あとは神がお前を導いてくださる。ラカ・シュリム・トゥカラ・ルーヤ」
その言葉を最後に、ミルコの意識がガクンと途絶えた。
「……ま、待ちなさい……」
ダメージから回復したエミリーが、去ろうとするデリルたちを引き留める。
再び目だし帽を被ったデリルが顎で武島に指示を出す。
頷いた武島が、立ち上がろうとするエミリーの顔を蹴り飛ばした。
顎を狙った的確な蹴りだった。
脳が揺れる。
エミリーは起き上がれなくなり、床を這いつくばる。
「殺しますか?」
「いや、いい。警察は殺しても得がない。それにそいつらは気骨がありそうだ。汚職刑事ならぶっ殺してもよかったが」
ミルコを背負ったデリルが再び歩き出し、武島もそれに続いた。
エミリーは焦点の合わない目で、それを見ていることしかできなかった。




