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ミルコ・ヘイシュ

 ミルコ・ヘイシュは酒場にいた。

 Cランクエリアにある、最低限、酒とつまみがあるだけの酒場だ。

 ネオンが光り輝く表通りではなく、饐えた臭いのする裏通り。

 バラック街から離れてはいるが、雰囲気はほとんど変わらない。


「あぁ、うめぇ」


 ミルコはビール瓶を一本飲み干して、乱暴にテーブルに置く。

 それからすぐにあらかじめ購入していたもう一本のビール瓶を開ける。

 蓋は硬かったが、指で軽く弾き飛ばす。

 裏通りには喧嘩自慢や犯罪組織の人間が多く、ちょっとしたことで喧嘩に発展するが、今のミルコにふっかけようとする人間は少ない。


 彼が犯罪組織「ルバ・ラッファ」の頭であるデリル・ヘイシュの弟であることは周知の事実であるし、彼自身も何をしてくるかわからない危険性があるからだ。


 犯罪組織や喧嘩自慢との喧嘩は普通、相手の命までは取らない。

 お互いにそこまでの良識はある。

 だがミルコは違う。

 彼には“最後”までやる危うさがあった。

 殺しを躊躇わないヤツに喧嘩を売るのは損だ。なにせ殺し合いになる。メリットがまったくない。


「ふん、腰抜けばかりかぁ?」


 ニヤニヤしながらミルコが周りを睥睨する。

 しかし誰も彼を相手にしたりしない。

 このメガ・シティでの勝者は最後まで生き残った者だ。

 もしくは、伝説を作って死んだ者。


 ミルコもそれは承知している。それでもなお、自分を駆り立てる焦燥に近い感情を持て余している。

 適当に隣のヤツでも殴り飛ばしてみるか。

 ミルコがそう考えたときだった。


「ミルコさん」


 後ろから声がかかった。振り返ると、黒スーツ姿の男が立っていた。


「……よぉ、マイト。兄貴のお使いか?」

「セーフハウスに移ってください。そこで一か月大人しくしてくれていれば、あなたの殺人は別の人間の罪になります」

「なるかよ」


 男、犯罪組織「ルバ・ラッファ」の構成員であるマイトの言葉を、ミルコは鼻で笑う。


「あの女を殺した罪は俺のものだ。誰にも渡さない」

「……セーフハウスへは?」

「行くわけがない。俺は自力で逃げ切ってみせるぜ。そう兄貴に伝えとけ」


 ニヤニヤと笑うミルコに対し、マイトは無表情のままだ。


「……本当によろしいんですね?」


 ミルコが表情を消して立ち上がる。椅子が派手に倒れて、周りの客たちがミルコとマイトの様子を窺う。


「必要ねぇ。いもしねぇ神のために兄貴は生きろ。俺は俺で生きる」

「……わかりました。失礼します」


 マイトがあっさりと引いたことにミルコはきょとんとした。

 これまでなら、後ろから数人の構成員がやってきて、ミルコを半殺しにしても兄貴、デリルのもとへ連れていくからだ。


「とうとう俺を諦めたか、兄貴」


 ミルコは嬉しそうに、凶悪な面構えで笑みを浮かべた。

 去っていくマイトを見ていると、隣から蹴りが飛んできた。

 太ももを足裏で蹴られたミルコは、胡乱な目つきで隣をねめつけた。

 そこは、男五人が泥酔しているテーブルだった。

 全員がミルコを睨んでいる。


「さっきから鬱陶しいんだよ、ガキが。ちったぁ静かに出来ねぇのか」


 ミルコを蹴った男が言った。


「そうそう。こういうのでいいんだよ」

「あ?」


 ミルコが怯むはずもなく、男の顔を躊躇いなく蹴りつける。

 男は一発で床を転がり、失神してピクリとも動かなくなった。


「てめぇっ!」


 男たちがいきり立つ。しかしミルコは平然と男たちを眺めた。


 暴れて、暴れて、また暴れる。

 そんな生き方しかできないんだよ、兄貴。


 ミルコは笑いながら、全員を半殺しにした。

 殺さなかったのは単なる気まぐれだ。

 手痛い反撃に遭って、自分も傷だらけになったから、ということもある。


 だが、そんなものは大したことじゃない。

 ミルコは問題と面倒ごとが起こせればそれでいい。

 あとは誰が傷つこうと、関係ない。


ー・-・-・-・-


 ミルコの兄、デリルは幼少期から頭が良かった。

 腕っぷしも強かった。学業では常にトップ圏内で、街に出れば他の悪ガキたちを拳とククリナイフで叩きのめす。自慢の兄だ。これまでも、そしてこれからも。


 幼少期からずっと兄のあとをついて回った。

 偉大なる兄を持つことで、誇らしくもあった。

 兄が変わったのは、母が死んでからだ。


 兄は母が信仰していた神『トゥカラ・ルーヤ』に傾倒するようになった。

 規律とともに生きるようになり、裏道の悪ガキとして暴れることもなくなった。

 代わりにもっと危ない連中と渡り合うようになった。


 兄が偉大になっていく。

 上へ、上へ。翼でも生えているかのように駆け上がっていく。


 そんな兄貴とともに動くとき、教えられるのは『我慢』だった。

 あれをしてはいけない。これをしてはいけない。

 代わりに金、酒、女に不自由はしなかった。だがそれだけだ。

 そこにミルコの楽しみはない。


 使いたいときに振るう暴力はなく、抑止力のためにある暴力のみ。


 兄といるのは、つまらなくなった。


 Cランクエリアにあるドラッグショップ『デッドリー・トリップ』の一席で、ミルコは全身を畳に預けて大の字に寝ていた。

 完全個室で客のプライバシーは守られる。

 公権力から身を隠すには良い場所で、ミルコのような人間も無防備な恰好でいることができる。

 もちろんミルコは、見つかったらそれはそれで暴れるチャンスだからいいと考えてもいた。


 掛け軸に『浪漫』と書かれた個室で、ミルコは起きたまま夢を見る。

 頭部から目元までを覆うヘッドセットで、視界に広がるのは深い闇。耳に聞こえるのはブディストに伝わる微かな鈴の音。


 昔の夢を見ていた。

 最高の兄を崇拝し、そして離れるまでの物語を、わずかな時間で。

 懐かしい夢。ミルコにとって、美しく素敵な夢だ。


「やっぱり、脳みそが一番の記憶装置だ。なあ、そうだろう兄貴」


 ミルコはヘッドセットをゆっくり取り外して身体を起こした。

 あぐらをかいて、頭を深く落として深呼吸する。

 吸引型のドラッグ『夢想』の影響で、目と鼻と耳と口から白い煙が微かに立ち昇り揺らいでは空中で消える。


 充分に休憩した。傷は癒えてきた。痛みは少ない。


 黒いパーカーの腹ポケットにナイフを忍ばせてから、ゆっくり立ち上がる。

 そのとき、耳が不穏な会話を捉えた。


「お客さん、困りますよ」

「こっちは警察なんだから捜査に協力して」

「だから、警察だろうとうちにそんなの関係ないって……あ、おい!」


 ガチャン、と隣のドアが乱暴に開けられる音がした。

 中から大音量のアダルトVRの音と、それから男の悲鳴が聞こえた。

 ミルコは思わず笑みを浮かべていた。

 しまったばかりのナイフを再び握り、ドアから少しだけ距離を取る。

 鍵は開けておく。スムーズに入ってきたヤツを、スムーズに刺すほうが面白い。


「聞いたかよ兄貴。警察だぜ。さすがにクソで弱い公権力の警察といえど、連中を殺せばヤバイ罪だ。兄貴だって揉み消せない。そんな犯罪を弟がやるんだ。楽しいな兄貴。興奮するだろ」


 ミルコが呟き、ナイフの先端をユラユラと揺らした。

 入ってきた相手の心臓を瞬時に見極めて、突き刺す算段だ。

 うまくいかなくてもいい。相手が生き残ってもいい。

 トラブルが起こった時点で、ミルコの目的は達せられている。


「ちょっと! まだやる気ですか!?」

「あなた、これ以上騒ぐようなら公務執行妨害で逮捕するからね」

「うぐ……クソポリ公が!」


 ガチャリ。

 騒がしい声とともにドアが開く。

 内開きの扉が、スローモーションみたいに動いた。

 女の姿が見える。店員の姿も見える。

 ドアが開き切る前に、ミルコが動いた。


 女が気づいた。だが、もう反応できない。

 狭い室内はたった一歩強く踏み出せば外に手を伸ばせる。

 ミルコが突き出したナイフは、金髪の女刑事へと真っすぐ突き進んでいった。

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