レイジー・エレニー
関連話数ep21.劉欣怡
小雨が降っていた。
都市全体を濡らした大雨がようやく、小降りになってきたのだ。
薄暗い路地には独特の臭気が漂っている。
“まとも”な場所で生きている人間なら、生涯嗅ぐことはない臭い。
「そんなに変なことを言ったか?」
その男は言った。眼鏡をかけて、クシャクシャの金髪をなまぬるい風にそよがせて。
だから私はそいつを殴り飛ばした。頬を思い切り。頭と首を飛ばすつもりで。
「べげっ」
男は奇妙な声を出して吹っ飛んでいった。
そこには水たまりがあって、男は見事にダイブした。
先ほど自慢してきたお高いスーツが哀れ泥まみれ、だ。
「なにをする!?」
私に唾をかけるような位置で怒鳴ったのは男の連れだった。
というより部下といった具合か。
私は男をねめつけて、低く呟いた。
「なに?」
男は一瞬、うっ、と詰まったが手にしたナイフを私に向けた。
「なに、じゃない! 俺の上司になんてことをしてくれた! 落とし前は高くつくぞ!」
「はっ……」
思わず笑ってしまった。
落とし前。
いつの時代の任侠のつもりだろうか。
いや、こいつの場合はただのチンピラか。
「なにがおかしい!」
「ぜんぶ」
私はサイバネ化された右拳を握って、男が突き出していたナイフを横からぶん殴った。
バキンッ、と硬質な音がして、硬そうなナイフが中ほどから折れた。
彼我の差を見せつけるのは、それで充分だった。
「ひっ!?」
男はあとずさる。上司をおいていいのだろうかと思いつつ、追いかけたりはしない。来ないのなら、別にいい。恨みはないからだ。
ただ鬱陶しかっただけ。
コバエがまとわりついたから追い払う。ただそれだけの行為だ。
だが男の足は止まった。彼の上司──つまり先ほど私が殴り飛ばした男が小鹿のように足を震わせながら立ち上がってきたからだ。
「兄貴!」
「い、てぇ……」
立ち上がった男は泥だらけの手で殴られたほうの頬に触れた。痛みに顔を顰めたあと、私を睨んでくる。
「俺は、この界隈じゃそれなりに名の通ってる組織に所属してるんだぜ」
男の言葉に私は肩をすくめた。
それは私を驚かせるほどの情報じゃない。
それなりに名の通ってる組織ならば、こちらだってそれなりに知っている。
どこに所属しているのか。まずはそれを言ってもらわないとこちらも驚くに驚けない。
スラムの主“三又城”を名乗ったら、さすがに口をバカみたいに開けてやることもできるが。
「いいか、よく聞け。俺たちはな、あの『羊の蹄』の人間だ」
「あー……」
聞いたことがある。五大超企業の一つ『黒羊』の下部組織。最近、妙に力をつけてきている連中だ。
黒羊のやり方から見て、蹄は製薬会社から直卸しした高純度の麻薬売買を担っているのだろう。もちろん一手に引き受けているわけではない。いくつかある手足の一つだ。
「なるほどね、蹄か」
「ふん。今さら後悔しても遅い」
私は顎に指を当てて考える。確か、こいつらの情報を欲しがっていた人物がいた。情報屋のティッキーとつるんでいたはずだ。
ここ数年で頭角を現した新興組織だが、それなりに金を持っているはず。
「うん。あんたたち、売れそうだ」
「は?」
コバエだと思っていたら、マニア向けの高級虫だった。
この都市で生き抜くために、金はいくらあっても困らない。
身体から力を抜いて、足を踏み込む。
一歩、二歩、三歩。
水たまりにわずかな波紋を立たせて、まずは部下の男へ。
「え? げっ! うっ!?」
第二関節を立てた拳でまずは両肩の継ぎ目を打って、身体がすくんだところへ、開いた手の甲で虫を払うように喉仏を打つ。
倒れかけたところへ、顔に向かって振り上げるように蹴りを当ててやれば、部下の男は倒れて動かなくなる。
もちろん殺してはいない。
「あ? え? あ?」
兄貴と呼ばれていた男は状況がすぐには飲みこめていないようだった。
これでは幹部どころか、下っ端も下っ端といったところかもしれない。
まあ、はした金にはなるか。
本日のヌードル代ぐらいにはなるといいのだが。
「痛いのはちょっとだけだよ」
私は言って、足を踏み込み男の顎を打った。
首が一瞬ぐるんと横向きになった男だが、これだけはまだ立ち上がる人間もいる。
だからクシャクシャの髪を掴んで引き寄せ、こめかみに膝を叩きつける。
「ぴげっ……!?」
男の目がぐるりと回って白目を剥く。
私はパッと手を離して、男が頭を打つ直前でもう一度身体を支えてやる。
それからそっと水たまりに横たえてやった。
そして情報屋のティッキーに連絡を取ろうとしたところで、路地の入口に誰か立っていることに気づいた。
「劉?」
私が呼びかけると、そいつは──その女はコツコツと馴染みのヒールの音を携えて歩いてきた。
ロシアンマフィア『蛇の庭』のボスの情婦をやっていたときよりも美しく、肌の艶もいい。
長い髪は切られ、煽情的なドレスではなく、ブラックスーツに身を包んでいるのには、やや面食らったが。
「久しぶり、エレニー」
派手な赤い口紅は封印され、青紫の唇は毒々しい魔女のようだった。
「なにしてんの、こんなところで。あんた、上に行ったはずでしょ」
「少し野暮用でね」
そう言って劉──劉欣怡は、私が転がしたばかりの男たちを見た。
「こいつら、私に売ってくれない?」
「……いくらで?」
「百万J$(ジャパニーズドル)」
頭の中で計算機を弾く。
こいつらがどれほどの情報を持っていて、どれぐらいの情報料になるかわからない。
100? 200? $ならそれぐらいあればいいほうか。J$でも十万ぐらいだろう。
だとしたら。
「売った」
「目的は聞かないの?」
「売れるような情報を吐くわけがない。それを言うなら、私を共犯にしたいか、脅したいかのどちらか」
私はにっこりと笑みを作って左手を差し出す。
劉もにっこりと笑みを作ってスーツの内ポケットから取り出した百万J$を私に渡す。
「現金?」
「ここじゃ、これのほうが都合いいでしょ?」
「……さすが元最下層暮らし」
「今は違うわ」
私は金を懐にしまって、その場を立ち去ろうとする。
と、劉が何気ない気軽さで言った。
「どうして、こいつらを叩きのめしたの?」
「私を情婦だと勘違いして交渉してきたから」
「いくらで?」
「10$」
「あっは……!」
劉がポーカーフェイスを崩して幼い笑みを見せた。
「そんな恰好してるからよ」
「……」
黒のチューブトップに大胆な赤いミニスカート。羽織ったコートの前は開いているから、私の“均整の取れた美しい身体”が見え隠れして余計に強調されている。
「娼婦のほうが慎み深いと思うけど?」
「間違いないわ」
私は片頬だけをあげて後ろに下がる。
今度こそ劉は私を引き留めなかった。
代わりに放り投げるように。
「雨はまだ降ってるの?」
そう言った。
だから私は──。
「まだ止まない。雨雲は厚いまま」
振り返らずに答えて、歩き続ける。
そう、あの日からずっと雨は降り続いている。
このレイジー・エレニーの気分が晴れるまで、きっと止むことはない。




