デリル・ヘイシュ
デリル・ヘイシュは弟を愛している。
デリルが12のときに死んだママが、弟を守ってねと言ったから、デリルはそれを『誓い』と受け取った。
兄である自分が弟であるミルコを守る。
たとえ彼がどんなに間抜けで愚かな殺人事件を犯したとしても。
何度犯したとしても。
「まただ……」
デリルは咥えていたドラッグパックを指に挟んで離し、大きく息を吐いた。大量の薄白煙がデリルの頭部を覆い、空調に吸われて消えていく。
豪奢な極彩色のソファに足を広げて座ったデリルは、背もたれに頭を預けて天井を仰ぎ見た。
犯罪組織『ルバ・ラッファ』の拠点である、Cランクエリアの小さなビルの最上階だった。
天井には、母の故郷で信仰されていた神とマントラが描かれている。
慈愛の笑みと母性の象徴である乳房が張り出した女神。しかし異様なのは彼女の頭部が二つに分かれていることだ。
一方は女神そのもの。そしてもう一方は、紫色の皮膚に上下に牙を生やした憤怒の表情。
『トゥカラ・ルーヤ』。
一対の頭部を持つ聖なる女神像。
ルバ・ラッファの、そしてデリルとミルコ兄弟の守り神だ。
「どうしたんですか、デリルさん」
そばに控えていた部下の武島が言った。
身長は170センチほどだが、がっちりとした肉体にいくつかの格闘技を修めていて、かなり出来る。デリルやミルコほどではないが。
「ミルコがまた一人殺した。しかも見つかった」
「……あぁ」
デリルはまたドラッグパックを咥え、肺まで煙を吸い込む。
粗悪な成分が混じった安物だが、頭を麻痺させるにはちょうどいい。
デリルは弟のことを考える。
愛しい弟。殺したいほど愛している弟。
いっそ殺してやったほうがいいかと考えたことはあるが、記憶の中にいる母の眼差しがデリルを止める。
大丈夫さ、ママ。言葉のあやだ。本当にやろうなんて考えちゃいない。
「誰か行かせますか?」
「……いや、そろそろシマを拡張したい。構成員を減らすことはしたくない」
「……見捨てるんですか?」
武島の言葉に、デリルは数秒ほど間を置いてからゆるく首を振った。
「少しだけ手助けをする。それで救えなかったら、ミルコはそれまでだ。刑務所で少し頭を冷やしてもらう」
「殺されませんか?」
「特別課が動かないかぎりは大丈夫だろう。もしくは、殺したヤツの縁者にリベンジャーが潜んでいなければ」
「……手配します」
武島が関係する連中に連絡を取り始める。
それをしばらく眺めたあと、デリルは再び天井を眺めた。
時刻はAM11:40を示している。祈りの時間が近い。
「我らの生は偉大なる神とともに。我らの血は偉大なる神のために。我らの行く道は偉大なる神の定めたように。我らはただ偉大なる神のため。ラカ・シュリム・トゥカラ・ルーヤ」
目を閉じ、小さく祈りを唱えていく。
誰にも邪魔されない、一日のうちで幾度か迎える神聖な時間。
願いではなく、同じ文言を繰り返し、神への忠誠と崇拝を示す。
次第に光が身体を包み、わずかな浮遊感を得る。
神と己しかない空間に飲みこまれたような錯覚と、その瞬間にだけ与えられる安らぎ、そして万能感。
ミルコはママが死んでから神に祈ることをやめた。
デリルはそんな弟が哀れでならなかった。
祈りの大切さを兄として教えてやれなかったことを、デリルは今でも後悔している。
犯罪に手を染めることも、また神の思し召しである。
それらの行動がすべて己一人によって行われている、すべてが己の意志であると思うのは愚かな考えだ。
世界のありとあらゆるものは神によって形作られている。
人ひとりの自由奔放すぎる振る舞いは許されていない。
だからこそ祈る。
ダリルは信仰のない犯罪組織は早晩崩れ去ると思っている。
神はいる。だから信仰する。
ダリルにとっての神は、その姿をただ一度だけ見ることのできた、母の故郷に住まう古の女神だ。
ダリルの背中には女神のタトゥーが刻まれている。
ゆえに、ダリルは護られている。
「ラカ・シュリム・トゥカラ・ルーヤ」
ダリルは呟き、立ち上がる。
コンタクトと耳朶に埋め込まれたアラートが同時に作動。
侵入者だ。
窓ガラスが一枚もないコンクリートに囲まれた室内に向かって、いくつかの足音が聞こえる。
今日は女神トゥカラ・ルーヤの最初の子、炎のシタルバが生まれた日で祝日だ。護衛は最低限、武島だけだ。
連絡を取りやめようとした武島を手で制したダリルは、ソファの前、ガラス製のテーブルに置かれた全長150センチのククリナイフを握り取ると、飛び上がり、空中を歩くようにして分厚いドア前に立った。
数メートルも飛び上がり、着地した脚部に異常はない。
鼠径部から下がサイバネ化されている。
スーツに隠された弾性の強い鋼鉄の脚には祈りの言葉が刻まれている。
一度回せば経文を唱えたとされるマニ車に似た機構が内蔵されているサイバネはマシンアート社製で、お気に入りだ。
そのお気に入りのサイバネ化した足でドアを蹴り飛ばす。
「ギャッ……?!」
100キロ近くある扉が内側から吹き飛んできて、侵入者が二人潰される。残りは二人。
「今日は祝日だ。女神に祈りを捧げる日だ」
「このイカレ野郎!」
ダリルの“忠告”も聞かず、侵入者の一人が安物の銃を構えた。
ドンッ、と音がした。
「……?」
けれど銃は発砲されていない。
代わりに侵入者の両手が血しぶきをあげて宙を舞った。
「……ッ!?!」
声にならない悲鳴を上げる侵入者の眼前にはいつ現れたのか、階上にいたはずのダリルの姿。
そしてダリルが縦から横になる。
「え?」
侵入者は自分が首を斬られ、頭部がずり落ちたことにも気づけていなかった。
「ひっ……!?」
数秒にも満たない殺戮に、最後の男が喉から悲鳴を漏らした。
怖気づき、身体を反転させた男は背中を押された。
いや、蹴り飛ばされた。
「あっ……」
胸に穴が開き、無骨なコンクリートの踊り場に赤いアートが生まれた。
カラリ、とふくらはぎに内蔵されたマニ車が回る。
ダリルが目を閉じ、唇を小さく動かす。
「感謝します、ラカ・シュリム・トゥカラ・ルーヤ」
ダリルは祈りを捧げたあと、部屋に戻る。
中でちょうど連絡を終えてこちらを見た武島に軽く指を振る。
「清掃と修理と葬儀、追加だ」
武島は黙って頷き、追加の連絡をこなす。
ダリルはソファに戻り、ゆっくりと腰を下ろした。
儀礼用の縁に金の意匠が施されたグラスに酒を注ぎ、己の親指を軽く切って、殺した人間の数だけ血を一滴ずつ垂らす。
そして天井の女神に掲げて捧げたあと、一息に飲み干した。
「お前はちゃんと捧げているか、ミルコ」
この場にいない弟を思う。
お前は人を殺したあと、女神に血を捧げているのかと。




