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とある殺人事件

「ダメだ。おさまらねぇ」


 重酸性雨が降る中、バラックの軒下にビールケースを裏返しにした簡易イスに座っている男がいる。

 ドラッグパックを何本も吸い尽くした男、ミルコは最後の一本をギリギリまで吸ったあと、指でピンッと弾いた。

 ドラッグパックは雨に打たれ、ジュッと音を立てて地面に落ちる。

 革のジャケットの下に黒のパーカー。薄汚れたジーンズに合皮の靴。

 黒髪に浅黒い肌。長いCランク暮らしで淀みながらも、鋭い目つき。

 喧嘩慣れしていて、体つきは厳つい。拳は何度も人を殴っているので、皮膚が固く盛り上がっていた。


「問題を起こすな。面倒ごとはダメだ。少し大人しくしてるだけでいい」


 ミルコは立ち上がり、胡乱な目つきを正面のバラックに向けた。

 メガシティ、ネオ・トーキョーの最下層。

 その貧民街の一角に、ミルコは立っている。


「わかってるさ。ガキじゃねぇんだ。だがよ、そんな些細なことができねぇから俺はこうなってるんじゃないのか? 兄貴」


 ミルコはここにはいない実兄のデリルに向かって話しかける。

 もちろん返事はない。ミルコの大きな独り言だ。


「なに、大したことじゃない。俺たちはチンピラだろ。これぐらいはやるのさ。殺しがご法度? そんなわけがねぇ。ここじゃ日常茶飯事さ」


 ミルコはジーンズのポケットに両手を突っ込んで歩き出す。

 雨に打たれることを気にする様子もなく、数メートルの距離を詰めていく。

 バラックには一人の女がいた。

 元はBランクの比較的裕福な階層にいた女は粗悪なドラッグにハマり、ここへ流れついてきた。

 女は塗装が剥げ、斜めにずれたサイバーグラスを掛けている。

 電子ドラッグを“ヤ”っているのだ。

 “向こう”の世界で電子ドラッグ。そしてこちらでは生のドラッグ。

 女はそうやって、自分の人生を限界まで痛めつけていた。


「こんなのは掃いて捨てるほどいるだろ。ここまでになったらもう人間じゃねぇんだよ。だから、生きてても死んでても変わらない。そうだろ? 兄貴」


 ミルコがポケットから薄い板を取り出す。

 軽く振ると、内側からナイフが展開された。いくつかの抗争で使って、もうボロボロのナイフだ。


「俺はよ、兄貴。問題を起こすぜ。面倒ごとを起こすぜ。大人しくなんて無理なんだよ」

「……あ?」


 女がようやくミルコに気づいたのか顔を上げる。

 しかしグラス越しにも焦点は合っていない。

 ミルコは女の右肩を掴み、右手に握っていたナイフを女の心臓に突き立てた。


「う……?」


 女は何が起こったのかまったく理解していなかった。

 ミルコはグリグリとナイフを押し込んで、パッと手を離した。


「は、は……」


 支えを失った女が仰向けに倒れていく。

 屋根と寝床と少しの衣服があるだけの粗末な狭いバラックだから、女は壁に頭をぶつけた。


「ごぷ……」


 口から赤い血がこぼれる。

 女が小刻みに痙攣し、ズルズルと横倒しになっていく。

 やがて、女の目から光が消えた。


「……」


 ミルコは女を見下ろし、大きく息を吸った。

 饐えた臭いがする。垢やドラッグ、吐しゃ物の乾いた陰気な臭いが鼻を突いた。

 しゃがみこみ、女の懐に手を突っ込み、それから衣服をどかした。

 わずかばかりの金があった。

 中毒者がどうやって金を稼いでいるのか、ミルコは興味がない。

 自分は稼いだ側を、いつだって奪う側だからだ。


「ほら、問題がひとつ増えたぜ兄貴」


 ミルコは立ち上がりかけ、女の胸からナイフを抜き忘れていることに気づいた。

 しかし抜こうと手を伸ばしたときだった。


「ラミレア、いるかい? いい酒が手に入ったんだ」


 バラックに人がやってきた。


「ドラッグばかりやってないで、この酒でさ……」


 入り口に立った男は、中を見てポカンと口を開けた。

 倒れた女、ラミレアとこちらを見ている男。


「あんた──」


 誰だ、と聞こうとしたときにはすでに、ミルコの拳が男の顔にめり込んでいた。


「はは。面倒ごともプラスだ」


 ミルコは倒れた男を見て笑みを浮かべ、それから重酸性雨の中を走った。

 盗んだ金を握り締め、強盗殺人を行った男はネオンの中へと消えていった。


ー・-・-・-・-


 Cランクエリアにほど近い警察署の仮眠室で、一人の男が寝ていた。

 がっしりとした身体を簡易ベッドに横たえ、胸の上に手を置いて規則正しい寝息を立てている。

 そこへゴンゴン、とドアをノックする音がした。

 男がパチリと目を開くと同時に、返事する間もなくドアが開いた。


「おはよう、サム。事件よ」


 入ってきたのは無機質で暗い部屋には似つかわしくない、華やかな笑顔と明るい雰囲気を持つ女性刑事だった。

 長めの整えられた金髪と、ブランドもののパンツスーツがよく似合っている。


「……エミリー。返事も待てないのか」


 エミリーと呼ばれた女刑事は肩をすくめ、くびれた腰に手をあててサムを見た。


「殺人よ。バラックで暮らす女性が一人、殺された」

「通報があったのか?」


 サムは身体を起こし、ベッドに腰かける。


「その女性と仲が良かった男性ね。本人は犯人に殴られて鼻を骨折してるって」

「……わかった。まずは現場に行こう」


 サムが立ち上がり、横のチェアにかけていたスーツジャケットを羽織る。

 しかし出て行こうとしたとき、エミリーが顔をしかめた。


「なんだ?」

「サム、あなたまずはエアシャワーを浴びてきて。臭う」

「……普通じゃないか?」


 サムは自らの体を軽く嗅いだあと一応抵抗してみるが、エミリーは首を横に振った。

 こうなると同じ車に乗ることすら嫌がる。


「先に車の用意しておく。急いでね」

「やれやれ」


 急ぎならエアシャワーを浴びなくてもいいだろうに。

 そうサムは思うのだが、ここで言うことを聞いておかないと車内でずっと文句を言われることになるので、大人しく従うことにした。

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