ケイト-1
人は食わなくちゃ生きていけない。
それは全身を義体化出来る時代になっても変わらない。
むしろ食事の他に、定期的なメンテナンス、機械化された部分に食べさせるものが増えた分、人は余計食わなくちゃいけなくなった。
ナチュラルでいれば、少なくとも食事は日に二回で済むのに──と、ケイトは思う。
目の前にはケイトの作ったぶっかけ丼をかき込む常連の姿。
両腕を義体化して、ボクサーをやっている男だ。
名をベローニ。賭けボクシングで稼ぐCランクの輩だ。
しかしギャンブルとはいえ、一応働いて稼ぐ側だから、そこらのチンピラたちよりもマシと言える。
少なくとも、ケイトはそう考えている。
だからベローニが腹を空かせてここへやってくるとき、コッソリと大盛りにしてやるのだ。
食べかけの飯にドラッグシガーを突っ込むバカ共の分を少しずつ減らしているから、店の損害にはなっていない……はずだ。
ケイトはロキシーダイナーという店で働いている。
働いているといっても、ケイトを雇ったあとオーナーは長期休暇と称してVRトラベルへ直行したため、現在はケイトが店主みたいなものだ。
店は12時から21時まで。
給仕ガイノイドがいるからさして苦労はしていないが、だからといってこれ以上働いたら早晩身体を壊すことになる。
ケイトには息子がいた。
生きていれば今年で24になるはずだった。
ベローニと同じ年だ。
同じ年齢の客たちは多い。
けれど息子を重ねるのは、ベローニだけだ。
旧イタリア系の男で、寡黙。
必要最低限のこと以外は話さず、気づけばトレーニングしている。
自分が強くなること以外興味がない。
そんな男だ。
ケイトの息子は病気を患っていた。
話せず、聞こえず、見えず。
夫はすぐにいなくなった。
ケイトは一人で働いて息子を支えようとしたが、学も得意なことも金もなかった女に、この都市は優しくなかった。
義体化させれば、息子が延命する可能性はあった。
必死で金を貯めて、クリスマス直前の日。
息子はあっさりと逝った。
抱きしめると息子は笑った。
ケイトの顔に触れて、何度も嬉しそうに。
見えないのに、聞こえないのに、話せないのに。
ケイトがママだと理解していた。
ケイトの小さな天使には、地上は負荷が大きすぎた。
彼は、天へ昇っていった。
ケイトはCランクの安アパートで泣いた。
息子の写真を抱いて泣き続けた。
壁を蹴られ、罵声を浴びせられても、涙は止まらなかった。
気づけば一月が経っていた。
どうやって自分が生き延びたのか記憶がない。
とにかくケイトは、自分が口にした腐ったパンに気づいて吐き出した。
新しい記憶はそこから始まっている。
お腹を空かせたケイトはロキシーダイナーに入り、簡素なハンバーガーを食べた。ポテトも、ナゲットも全部、培養食品で作られたものだけど、涙が出るほど美味かった。
店主のロキシーはケイトのことを知っていた。
子供を亡くした哀れな女。
だからちょうど良いと考えた。
こういう女は情緒不安定だがよく働く。
ちょうど旅に出たかったところだ。
ロキシーは出っ張った腹を撫でて、ケイトに声をかけた。
ここで働くつもりはないかと。
ケイトは働き始めた。
最初は仕事内容を教えていたロキシーは、快適なヴァーチャルの旅だ。もう十五年は帰ってきていない。
どこにそんな金を貯め込んでいたのか。
今ではもう、ロキシーダイナーのオーナーがロキシーという男であるということを知っている人間のほうが少ない。
21時を過ぎて、最後の客を送り出す。
掃除は給仕ガイノイドに任せて、ケイトはまかないのハンバーガーを口にする。
パテとピクルス、チーズにケチャップをバンズで挟んだだけのシンプルなモノだ。
指を舐めて食べ終わると、ドラッグシガーに火を点けて煙をくゆらせる。
ここで働き始めてからついた習慣だ。
イスに座り、掃除するガイノイドたちを見ながら煙をファンに向かって吐き出す。
けばけばしいネオンが視界の隅でうるさいが、いい加減もう慣れた。
店内には音楽もなく、喧騒もない。
今日は雨もないから、とても静かだ。
吐き出した煙の中に、息子の姿を思い浮かべる。
今はもう、写真を見なければ思い出せない息子の顔。
ふと、店のガラスに見知った男の顔が浮かんだ。
見ると、ベローニだった。
左腕の肘から先がなくなっていて、人工筋肉やチューブがむき出しで垂れ下がっている。
ケイトは立ち上がり、クローズの札が掛けられたドアを開けてやる。
「……負けたの?」
ベローニが頷く。
「……入りなよ」
ケイトが促すと、ベローニは素直に応じた。
いつものスツールに座ったベローニと、カウンター越しに見つめ合う。
翠色の瞳は人工的で、反射神経を強化する義体化が施されているはずだ。
すべては強くなるため。
そんな男が、負けた。
「それで、今日はどうしたの?」
沈黙が長く続いたあと、ベローニはゆっくりと口を開いた。
「……俺は、もうダメらしい。大損させた。使えないと上に判断された」
ケイトが吐いた煙が、ファンに吸い込まれていく。
「だから、最後にここの飯が食べたくなった。お願い出来るか?」
今度はケイトが黙る番だった。
黙って、そしてベローニがいつも食べている様々な食材をぶっかけただけの丼を出してやる。
いつもは箸だが、今回はスプーンだ。
左手が無い状態では、たぶん食べづらいだろうから。
ベローニはスプーンを取ると、一掬いして口に運ぶ。
いつものかき込むような食べ方ではなく、一口を味わうように咀嚼する。
たぶん、これが最後の晩餐になるとベローニは理解しているからだ。
「……どうにかならないの?」と、ケイトが聞く。
「どうにもならないな」と、ベローニが答える。
ケイトはイスに座り、新しいドラッグシガーに火を点ける。
少しだけ震える手で、口元にシガーを運ぶ。
「怖くないの?」
「……怖かったが、あんたの飯が食えた。そうしたら、少し怖くなくなった」
嘘を感じない言葉だった。
「……そう……そうか」
「どうしてあんたが泣く?」
問われて初めて、ケイトは自分が泣いていることに気づいた。
「前途ある若者の死が悲しいからだよ」
「……そうか」
少しだけ間を置いて、ベローニは言葉を選んでいるように視線を彷徨わせた。
「……俺のために泣いてくれてるとしたなら……俺は、たぶん嬉しいと思っている。こんなことは初めてだから、確信は持てないが……」
「バカだねあんた。私が悲しがってあげてるのに、喜んでるんじゃないよ」
「……すまない」
そのあと、ベローニは器を空にして席を立った。
金を払って店を出ようとするベローニの後ろ姿に、ケイトは声をかける。
「ねえ、あんた逃げなよ」
ベローニが振り向いた。
「ここから逃げてさ。セキュリティの追えない原住民たちのところへ行ってもいい。逃げてさ、生きなさいよ」
たゆたう煙越しに、ケイトはベローニに息子を見ていた。
「それで、ほとぼりが冷めたらまたここに食べに来なよ。私はいつでも待ってるからさ」
ベローニが外へ出る。そして、一度振り返ってケイトへ頭を下げた。
そしていつもとは違う方向へ歩いて行く。
都市の外へ出る方角だ。
ケイトはドラッグシガーを咥え、ロキシーダイナーから外を眺めている。
閉店した店の中で、給仕ガイノイドも動いていない。
外では重酸性雨が降っている。
ネオンの揺らぎが、いつもよりも細かく激しかった。
ケイトが、ふぅーっと息を吐く。
煙が眼前をたゆたう。
ケイトは煙が晴れるのをゆっくりと待つ。
煙の向こう側、ロキシーダイナーのドアに、誰かが立っていることを期待しながら。