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ドッグ 7

「……あんたは」


 バーベアトリーチェに命からがら飛び込んだドッグは、カウンターのスツールに座った白衣の男を見た。

 横にいたエアリスも、その男をジッと見つめる。

 なぜかカウンターの内側にマスターのアイヴィがいない。

 背後でひとりでにドアがロックされた。


「待っていたよ。ドッグくん」


 男は手にしていたグラスを置き、スツールを回してドッグとエアリスに正面を向ける。

 白衣で白髪、青白い、深く皺の刻み込まれた顔。

 丸縁の眼鏡が寒色系の照明を反射し、酷薄な笑みに静かな迫力を与える。


「キリバド・ラッセル……」

「その通り、君の依頼主であるキリバド・ラッセルだ」


 ラッセルは眼鏡のツルを触ってから、ドッグの横にいるエアリスをジッと覗き込む。


「うん、間違いない。ちゃんと私の娘を連れてきてくれたね。思ったより優秀な人材のようで安心した。金は現物かな? 生体認証かな? まあ、どちらでもいいんだけどね。うん」


 ラッセルは立ち上がり、手を広げた。


「さあ、おいでエアリス。私の娘」

「…………」


 しかしエアリスは動かなかった。

 ドッグの服の裾を掴んで立っていた。


「どうしたんだい? ほら、パパだよ。逃げたことはもう叱ったりしないから。戻っておいで。それともその男が気に入ったかい? もしかしてもう力を使ってしまったのかな?」

「…………」


 それでもエアリスは動かず、口を動かすこともしなかった。


「黙ってちゃわからないだろエアリス!」


 すると、ラッセルが急に怒鳴った。

 カウンターテーブルに平手を思い切り叩きつけ、声と音で怒りをあらわにする。

 ドッグにまで振動が来るほど、エアリスがビクリと跳ねた。


「なんだ!? なにが言いたい!? なんとか言え! 私はここまで譲歩しているのにお前はなんだ! 言いたいことも言わない! 私にだけ負担を強いる! お前が逃げてからどれだけの心労を抱えたと思っている! それなのにお前と来たら、何でも屋の男にしがみついて! パパは私だぞ! もう叱らないと言った私のもとに帰ってくるのが当然のことだろう! そもそもお前の力を有効利用できるのは私だけだろうが!」

「きゃああっ!」


 ラッセルが一息に怒鳴ったあと、一歩足を前に踏み出す。

 その瞬間、エアリスが頭を抱えてしゃがみこんだ。

 直後だった。


「がぁああっ!」

「うぐっ、うぁっ!」


 ドッグとラッセルが呻いて膝をつく。

 突然視界が歪んで、頭を締め付けるような痛みに襲われたのだ。


「いやぁっ! 戻りたくない! やだっ! やだぁっ!」


 感情に乏しいと思っていたエアリスの突然の恐慌に、ドッグは驚かされた。

 エアリスは端正な顔を歪ませ、尻もちをついて壁側に逃げようとする。

 そんなエアリスを見てドッグは困惑し、ラッセルは──笑っていた。


「ひ、ひひ……おおぉ、すごいぞエアリス! 発現しかかっている。それだ。その力だ」


 左手で左こめかみを押さえながら、這うようにしてドッグたちのほうへ近づいてくる。

 目は爛々と輝き、口からは堪えきれずよだれが垂れている。

 ドッグも口を押さえきれず、よだれが垂れる。

 なんだ、なにが起こっている?

 これがエアリスの力ということか?


「うぅっ……うぅうううっ!」


 エアリスが歯を食いしばってラッセルに恐怖の目を向ける。


「うぉああっ!」

「ひひっ! はぁはぁあっ!」


 ドッグとラッセルは、背骨が曲がるかと思うほどのけ反る。

 さらに性的な感情が想起させられ、手足の指先が鉤のように曲がった。


「あぁあああっ!」

「いいぞぉ……! エアリス、そうだ! もっと、もっと発現させろぉっ!」


 こんな状況でラッセルは狂気じみた笑みを浮かべ、床をのたうち回った。

 そうしながらも、エアリスから目を離さない。


「エア……リス……!」


 痛みと快楽を同時に味わいながら、ドッグはその光景を見ていた。

 虹色の海に飲みこまれる。

 乳房や股座、唇で体中を愛撫され、身体が蕩けていく。

 世界が遠くなったり近くなったり、崩壊したり創成されたりする。

 そして唐突にその粘りつく感覚が薄くなっていく。

 直後、耳元に声が響いた。


『ヘイヨー、ブラザー。何が起こってんだ。愉しそうだなおいおいおい!』


 その声は、ヴィンセントだった。


「お前のおかげか? ヴィー」

『ちょっと対抗として電子ドラッグを流し込んだだけだ。すぐに切れるから、大元を止めろ。できるか?』

「さぁな。やってみる」


 ドッグはよろよろと立ち上がり、震えるエアリスの前に屈み、強く抱きしめた。


「大丈夫だ、エアリス。お前をアイツに渡したりしない。大丈夫だ。平気だ」

「……ほん、と、に?」


 泣きながら、荒く息を吐くエアリスの背中を優しく撫でる。

 エアリスは少しずつ落ち着いてきた。

 ドッグとラッセルを襲っていた凄まじい感情の奔流も弱くなっていた。


「そうだ、それでいい。大丈夫だエアリス。大丈夫だ」

「…………うん」


 ドッグはエアリスが“何”なのか理解してはいない。

 しかし今の出来事で、とてつもなく危険なことはわかった。

 そもそも依頼主がギミック・ユマンのキリバド・ラッセルの時点であとは察せる。

 この男はマッドサイエンティストなのだ。


「なぁにが大丈夫だ! なにを落ち着かせてるんだ君は! この無能が!」


 ラッセルは立ち上がるなり暴言を吐き、ドッグとエアリスに詰め寄ろうとした。


「動くな」


 だが手が触れるよりも早く、ドッグが銃を抜いてラッセルに突きつけていた。


「……私は依頼主だぞ? 何でも屋くん」

「人道に反してるのは好きじゃない」

「…………?」


 ラッセルは言われた意味がわからないという顔をした。

 それから目をこちらに向けたまま大笑いする。


「あっはっはっはっはっは! はーっはっはっはははは!」


 それから手を背中に回して、ドッグを蔑んだ目で見下ろした。


「人道ね。そんなもの、この時代に何の意味がある」

「少なくとも、この子をあんたから助けてやれる」

「それはねドッグくん。助けてから言うものだよ。おい、来い」


 ラッセルが合図すると、奥の部屋から銃を向けられ両手を上げたマスター、アイヴィが出てきた。

 銃を向けている男と、その後ろからゾロゾロ出てくる男たちの両こめかみから側頭部に向かって鋭い形の翼のタトゥーが入れられている。

 フライングヘッド。

 ラッセル子飼いの部隊だ。


「お前、この店でこんなことをして……」

「許されないよ。普通なら。だがエアリスがいればこんなワガママも叶う」


 アイヴィは一言も発しない。

 ただ、ジッとドッグの出方を窺っている。


「さて、どうするドッグ。私を殺してもいいが、その際はすぐにあの女も死に、合成された証拠映像が警察などに送られる。君は警察やバウンティハンターに追われるなもちろんエアリスは保護者なしになって、誰にどんな利用をされるか」

「……卑怯者が」

「そもそもエアリスを誘拐しようとしたのは君だ。法的には私が所有者だ。私が実験のため、彼女にどんな酷いことをしていたとしてもね」


 ラッセルがにやぁっと嫌な笑みを浮かべ、それから右手をこちらに向かって伸ばす。


「さあ、エアリス。君のワガママのせいで二人の人生が狂ってしまうよ。君のせいだ。でも、今ならまだ何事もなかったことにできる。お前が私の元へ戻ってくるだけで」

「…………」

「聞くなエアリス。お前のせいなんかじゃ絶対に」

「撃て」


 パンッと乾いた音が響き、アイヴィではなくドッグの太ももに穴が空いた。


「があぁっ!?」

「ドッグ!?」


 銃を落とし、太ももを押さえて横倒しになる。

 血が流れ、高級な床を赤色に染めていく。


「ドッグ!……ドッグ!」

「ハハハ、お前のせいだよエアリス。お前のせいでそいつはそんな目に遭ったんだ」

「私の……」

「……聞くな、エアリス。違う。お前のせいじゃ……ない」

「やれやれ。面倒な。おい、そこの何でも屋にもう一発……」

「やめて! もう、やめて……」


 エアリスが、ドッグを守るように前に立ち、両手を広げた。


「戻る……パパのもとに、戻るから、もう酷いことしないで」

「ああ、やっと素直になってくれたか。よかったよかった」


 俯き、ラッセルのもとへ行こうとするエアリスの手を、身体を起こしたドッグが握った。


「エアリス……ダメだ……そいつは」

「……でも、ドッグが、あの女の人が私のせいで傷つくのは嫌だよ」

「……ふむ、そういうことか。素晴らしいな。あの一瞬の発露で感情を獲得し始めているのか。それで力の発現が……なるほど、なるほど」


 血に濡れたドッグの手から、エアリスの手が抜ける。

 地獄に行くとわかっている幼子を、守ることすらできないのか。

 力がなければ何も成せない。

 この街がそうであることはわかっているが、ドッグは今ほど自分の無力さを呪ったことはない。

 身体はサイバネ化されている。

 運悪く生身の部分を抜かれただけだ。

 まだ、身体は動く。無茶をすれば、状況を少しだけ引っ掻き回すことはできるか?

 時間がない。

 ドッグは一つだけ賭けに出ることにした。

 自分の力では、アイヴィとエアリスを同時に助けることはできない。

 ましてやフライングドッグを負傷した身体で全滅させることも無理だ。

 勝てたとしても、戦闘の最中で必ずアイヴィが死ぬ。


「おや、逃げるのかい? 何でも屋くん」


 だからドッグはバーベアトリーチェのロックを解除することにした。

 エマやモニカ、シオリに明王蜂でもいい。

 誰かが追いついてくれていたら、ドアを開けたら、この状況に風穴を開けてくれる誰かがいるかもしれない。

 そしてドッグはエアリスに背を向けてドアに飛びつき、それからロックを解除した。


「あははは! カッコいいことを言っても、所詮は根無し草。自分の命が大切だよなぁ。あはははは!」


 ドアを開き、風雨がわずかに入ってくる。

 知っている足音は近くにない。


 賭けは負けか。

 ドッグが、そう思ったときだった。


「やはり、お前だったか。ドクター・ラッセル」


 黒い傘を閉じて、一人の巨漢が入ってきた。


「君は……まさか?」

「たまにはこのくそったれな運命に従ってみるのもいい。お前と出会えたんだからな」


「やはり、君か……ビバ・“鮮血スカーレッド”・ケイン」

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