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ロバート・ニューヨーク

 巨大都市ネオ・トーキョーのCランクとBランクの境目に、小さなバーがある。

 カウンター席が6つほどのこじんまりとした店構えで、鉄門扉の入り口には黒スーツのガードマンが立っている。

 そこへ一人の男が近づいてきた。

 胸襟を大胆に開いた白シャツとダークグレーの細身のスーツを着こなし、くしゃくしゃの金髪を波打たせ、常に上機嫌で笑みを浮かべる男だ。

 ロバート・ニューヨーク。

 この辺りでは姿そのまま『ハイ・マン(上機嫌なやつ)』と呼ばれている。


「よぉ、ハイマン。今日もご機嫌だな」

「よぉ、ブラザー。俺がご機嫌じゃないときなんてあったかよ」


 ロバートはガードマンと軽くハグをしたあと、言われる前に両手を上げた。

 ガードマンは慣習としてロバートのボディチェックを行ったあと、手のひらを機器にかざして鉄門扉を開ける。


「バー・フラッシュ(目くらまし)へようこそ」

「感謝するぜ、ブラザー」


 愉しそうに言って、ロバートは扉をくぐって店内へ入る。

 中に先客はいなかった。

 6つある赤い革張りのスツールの、真ん中に座り、目の前のバーテンダー──マスターのスタップにニヤニヤとした笑みを向ける。


「スタップ、今日は一段と男前だな。珍しく髪を整えてる」

「うるせぇ、俺はいつだって男前だよ」


 言って、スタップはオールバックに整えた黒髪を手のひらでグッと撫でつけた。


「今日はアスミが来るんだろ? だから気合が入ってるんだ」

「へらず口を叩くだけなら、今すぐ追い出すが?」

「うわ、うわ、ちょっとしたジョークだよ。ジョーキング。わかるだろ?」

「わかったからさっさと注文しろ。今日はどうする?」


 スタップの言葉とともに、ロバートの目の前にメニュー表が浮かび上がる。

 透過スクリーンで、青白い枠とメニューの文字がイかしていた。


「新作は?」

「ない。業者がひとつ摘発された」

「警察はたまに働いたと思ったら余計なことをする」

「黒羊の仕業だとよ。あそこの部門が“正規”の新作電子ドラッグを販売する。だから邪魔だったんだろう」

「わー、くそ。黒羊製は悪くないが大人しい。新作は嬉しいが、今回もきっと刺激が足りない」

「だろうよ」


 スタップはドラッグパックを一本取り出して唇に挟み、火を点ける。

 “違法電子ドラッグバー”なんてやっているくせに、マスターの彼は電子ドラッグよりもドラッグパック派だ。


「アプリコットちゃんは?」

「もちろん捕まるわけがない。あの子がどこにいるのか俺たち卸し先の人間だって知らない。そもそも、ほとんど売ってくれないけどな」

「あれだけ上質の電子ドラッグを趣味で配布してるんだからな、すごいよ彼は」


 ロバートはメニューをスクロールして、ぴたりと指を止める。


「今日はこれにする」

「……“悪酔い”するなよ」

「当然」


 指さしたメニューは電子ドラッグ『ブラック・(暗黒で)ブラック(真っ暗闇な)オーシャン()』。

 老舗違法電子ドラッグ業者『レミントン・バロー』が販売する、大概の人間が一度は経験するドラッグだ。

 煩わしい現実やサイバネ化による幻肢痛、何も考えたくないときなどに使われる。

 価格は一回5000J$ジャパニーズドル。かなりの破格だ。

 とはいえ、ビビッドな視覚効果も、心地よい酩酊感があるわけでもない。

 だから安い。


「それじゃ、入れるぞ」

「あいあい」


 ロバートが右耳の耳たぶを掴んで持ち上げると、隠れていた鈍色のソケットが露わになる。

 そこへスタップがチップを挿入すると、すぐに“それ”は始まった。


「おぉう……」


 バーのスツールが泡みたいに消失したと思った瞬間、どぷん、と身体が暗黒の海に沈んだ。

 四方八方が暗闇で、自分以外は何も知覚できなくなる。

 ロバートは口を大きく開けて、ごぼっ、と大きな空気の泡を作って吐き出す。

 初めて入ったときは本当の海に落とされた感覚に溺れかけたが、今ではこうして遊ぶこともできる。

 もちろん空気の泡は吐き出した瞬間、闇に飲まれて見えなくなってしまうのだが。


 水中にいるような感覚に身を任せると、少しずつ暗闇に自らが溶けていく感覚がある。

 指先、つま先から少しずつ、少しずつ海に浸食されていく。一体化していく。

 目を開けてもつむっても、暗闇なので、自分の目が今どうなっているのかわからなくなる。

 浮遊感に漂う肉体から、下半身の感覚、腕の感覚、みぞおちまでの感覚が失われていく。

 自分という人間があっけなく飲みこまれて消えそうになるこの感覚が、2BOの真骨頂だった。

 人によっては、ひどく拒絶反応を示すものもいる。

 発狂しかけて、ソケットを掻きむしってチップを壊した人間もいた。

 こんなに気持ちいいのにどうして、とロバートは思うが、曰く、暗闇では否応なしに自らが恐怖しているモノを突きつけられる、らしい。

 訳知り顔の常連から聞いたことなので、ロバートには結局理解できなかった。


 “ハイ・マン”ロバート・ニューヨークに怖いことがあるとすれば、それは電子ドラッグを味わえなくなること。こいつらで楽しめなくなること。それだけだ。

 人外みたいに強いヤツらも、電子ドラッグ以外は滞納しまくっている金の問題も、それに比べれば些細なことだ。

 ロバートは本気でそう思っている。


 そろそろ2BOも佳境だ。

 顎から始まった浸食が耳、口、鼻、額の順に進んでいく。

 最後は必ず目が残る。

 開けても、開けなくても真っ暗闇で何も見えない。

 そこに“何か”を見る人間もいるが、少なくともロバートには真っ暗闇だけだ。

 けれど、それが心地よい。

 何もない。

 それが何よりも素晴らしいと思うのだ。


「エクセレント!」


 すべて飲みこまれたと思った瞬間、急激に五感が回復していく。

 浮遊感がなくなり、身体が重力に従って赤のスツールに座る重みを感知する。


「おかえり」

「ただいま! やっぱりここのドラッグだな。上質な暗闇だった」

「そうかい」


 暗闇から引き上げられたロバートの前で、スタップはドラッグパックを灰皿に押しつけた。

 ロバートが来たときは空だった灰皿には十本のドラッグパックが押しつけられている。

 短い旅だと思ったが、大体一時間ぐらいは“潜っていた”ようだ。

 いつの間にか端の席に客が座っていて、そいつは一点を見つめたまま微動だにしない。


「ヤツは?」

「シックス・ドールズ。ヤりたい気分だったんだろう」

「最高だな」


 聞こえていないとわかっていながら、ロバートは指を鳴らして客を指さした。

 それから生体認証で金を払って、次はどのドラッグパックにしようか悩み始めたときだった。


「そういや、知ってるか?」

「なにを?」


 ロバートが顔を上げる。

 スタップは新たに咥えたドラッグパックの煙を斜め上に吐いて、向き直る。


「ドッグが電子ドラッグの天使エンジェルドラッグを手に入れたんだと」

「……はぁ~? ありゃ都市伝説じゃないのか?」


 信じられない話に思わず身を乗り出したロバートに、スタップは苦笑する。


「それが実在したんだとよ。ギミック・ユマンのキリバド・ラッセル。ヤツの実験が成功してたらしい」

「本当かよ? 潜りから浮上してきた俺をからかってないか?」

「まさか。酔っ払いならからかいがいもあるが、お前はそうそう酔わないだろ」

「……ふむ」


 ロバートはニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、腕を組み、右手の人差し指で左の二の腕をトントンと叩く。


「ドッグの居場所は?」

「一万」

「もちろん払うさ、ブラザー」


 今度は生体認証ではなく、スーツの内ポケットに入れていたクシャクシャの紙幣で払う。

 それを奪って懐にしまったスタップは、カウンターに両手をついて顔をずいっと寄せる。


「天使を連れて移動中。バー・ベアトリーチェに向かっているようだが……」

「追っ手は?」

「陣内、マヴロ・プロヴァド、トライデントが動いてるってよ」

「おーいえー。漁夫の利狙えちゃうんじゃないの?」


 ロバートが歯をむき出しにして笑う。

 そして飛び上がるように立ち上がると、急いで出口へ向かう。


「ハイマン!」

「なんだ?」

「もし極上なら、うちにも卸してくれ」

「当然さ、ブラザー! じゃあ、言ってくるぜ!」


 ロバート・“ハイ・マン”・ニューヨークは、その名に違わぬハイテンションぶりで、バー・フラッシュを飛び出していくのだった。

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