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ジャンキー・ジャンク・ドッグフード

 ──平穏なんてものがあるとしたら、それはケインのそばにはない。

 生まれはCランクの貧民街。

 生まれながらにして最底辺。


 ケインは、いつも飢えていた。

 生ごみでも口に入れた。合成食品のミルクだけでは、彼の胃袋を満たせなかった。


 母は、ケインに無関心だった。

 それでも期限の切れた食べ物と、彼が寝起きする場所を確保していた点に関しては、ケインは感謝している。


 父は常に、ケインの“善き敵”だった。

 周りと比べて大食漢のケインを、身体ばかり大きくなる幼子を、思う存分いたぶった。

 父は格闘技が好きで、でも自分は痛い思いをするのが嫌で、抵抗できないケインをサンドバッグ代わりにした。


 父はBランク上層に住む人間で、別の家庭を持っていた。

 時々最下層に降りてきて、ケインを殴り、蹴り、関節を折り、母を抱いた。


 学習性無力感。

 生物は何度も何度も心を折られると、たとえその環境から脱することができる状況になっても、逃げだすという思考がなくなる。

 本来であれば、ケインもそうして父のサンドバッグに甘んじて、母の無関心に慣れる子供になったことだろう。


 だが、ケインは違った。

 彼は母の無関心をいいことに、父が時々しかこの家に帰って来ないことをいいことに、己を鍛えだした。

 生ごみだろうと賞味期限が切れていようと、ケインは貪り食った。

 生きるため。

 反骨のため。


 12歳になったころ、父はケインに痣をつけることができなくなった。

 腕を折られなくなり、指を折られなくなり、パンチや蹴りを捌かれるようになった。

 けれどまだ、反撃はしなかった。


「生意気なヤツだ……」


 ある日、父は“本当”の生活場所で嫌なことがあって、“こちら”へ逃げてきた。

 そこでいつものようにサンドバッグにしたケインの思わぬ“抵抗”に、憤怒した。

 今までの虫けらを見るような目から、嫌悪と嗜虐の入り混じった目でケインを見た。


「誰に教わったのか知らないが、そんな小手先の技術で勝った気になるなよ? 俺が今まで実力を出してなかったことを教えてやるよ。来い、クソガキ。反撃していいぞ」


 母を散々犯したあと、父はケインが食べていた生ごみを蹴り飛ばして言った。

 革靴についた生ごみをケインに押し付けるように顔を蹴る。


「……いいの?」


 ケインは、スツールから転げ落ちることもなかった。


「……お、おぉ」


 父は拳を握って、顔の前に上げて構えた。

 やせ細った男だった。

 泣き叫んで、この男に許しを乞うたのは6歳までだった。

 以降はただ、観察をしていた。


 どうすれば、この男を“破壊”できるか。


「……んっ!」


 そのときの父とケインの上背は、もうほぼ変わらなかった。

 立ち上がったケインが拳を振るう。

 拳が当たるその瞬間、いや、当たったあとも父はずっと前を見ていた。


 殴られたことにも気づかず、そして自分が“死んだ”ことにも気づいていない様子だった。


「……」


 ケインは半回転し、後頭部を床に思い切りぶつけて痙攣する父を見下ろした。

 目と鼻、耳から血を垂れ流した父は、すぐに動かなくなった。

 たったの一撃だった。


「……死んだの?」


 股から精液を垂らしながら、部屋から出てきた母が父を見下ろす。


「…………ん」


 ケインが返事をすると、母は父の服を弄った。

 ボロイハンガーに掛けられたスーツの中身もすべて漁り、財布から現金とカードを取る。

 そしてキッチンからほぼ新品同様の包丁を取り出して、父の親指を切り取った。


「はい」

「……うん」


 淡々と作業する母から、5万J$ジャパニーズドルを受け取る。

 ケインのためを思って渡したわけではない。現金はCランクエリア以外ではあまり使えないから、邪魔だったのだろう。


 母は何も言わず、着替えて出て行った。

 残ったのはケインと父だったものだけ。

 それ以降、母の行方は知れない。どこかで死んでるかもしれないし、父の“遺産”を元にそれなりの生活をしているのかもしれない。


 ともかくこれが、ケインが最初に人を殺した記憶である。



 ──あれから数年が経って、立派な街のゴロツキになっていた。

 母から渡された現金は食料となり、三日で胃袋に消えた。

 ケインが生き残るためには、当時12歳という年齢で“仕事”をしなければならなかった。


 幸いにして、ネオ・トーキョーは未成年とされる18歳以下が働くとか“そういったこと”に関してはだいぶ緩い。

 特にCランクエリアの中でも一番最低に近い貧民街では。


 その腕っぷしはこの荒れる街で重宝された。

 ケインは人よりも身体の作りが頑丈だったし、回復も早かった。


 チンピラたちの抗争に呼ばれて、金を貰う。

 Cランクエリアに“遊び”に来たBランクの坊ちゃん嬢ちゃんたちを狩る。

 自警団と事を交えることもあった。

 当時の団長ですら、ケインを止めることはできなかった。


 毎日のように派手に戦った。雇われるがまま、傭兵として。

 殺しはしない。けれども相手がトラウマになるほど痛めつけた。

 ビバ・ケインの名が広がる速度と同様に、ケインの身体は血にまみれた。


 そんなある日のことだった。

 いつものように雇われたマフィアの命令で相手組織を叩き潰していると、自警団に囲まれた。

 それは罠だった。

 自警団は50名からなる人数でケインを袋叩きにした。

 しかしケインは強かった。

 40名ほどを殺さないまでも痛めつけた。

 しかし、当時はまだ団長ではなかったニシキ・ワーグナーが現れた。

 彼は強く、疲弊していたケインは打ち負かされた。


「悪いな、バケモノ。お前を倒すのにこれだけの人数が必要だった」

「は、は……くそ、くらえ、だ、羽虫……ごぇっ」


 ニシキに思い切り腹を蹴り飛ばされる。

 信じられないほどに重い一撃だった。


「殺すなよ。だが一年は動けないように痛めつけろ」


 そうなってしまえばただのナチュラルだ。

 いくら回復が早いといってもその場ですぐ再生するわけではない。

 気絶するまで袋叩きにされたあと、ケインはシティの刑務所に入れられた。

 そしてこれまでの罪状が重なり、即日35年の実刑を喰らった。


 あり得ない速度と誰しもが予想できないほど重い判決だが、ネオ・トーキョーではままあることだ。珍しいことじゃない。


 しかし、幸か不幸かその身体──完治一年以上を一週間で治した──に興味を示したものたちがいた。

 ネオ・トーキョー都市軍シティアーミー武器・装備開発部人体課。


 彼らは秘密裏にケインに接触。


「君には二つの道があるよ、ケイン君」

「…………」

「我々に協力し、都市の発展に貢献するか。それともここで無為に35年を過ごすか。さあ、どうする?」

「……飯は出るのか?」

「存分に」

「……なら、行く」

「決まりだ。歓迎するよ。“血まみれ”のビバ・ケイン君」


 そして刑が下るのと同じように、即日ケインを釈放し、開発部へと連れ帰った。


 それからケインは700名の“同僚”たちと顔を合わせることになる。

 筋骨隆々とした精悍な顔つきのエリート軍人から、ケインも名を知っている凶悪犯罪者まで種類は様々だ。


「諸君、この意義ある取り組みへの参加を感謝する。どうか君たちに幸多からんことを」


 都市軍開発部の部長を名乗る男が言って、ケインたち700名の“地獄”が始まった。


 始まりは基礎体力の確認。

 これは軍で行われる基礎トレーニングの応用だ。それを3か月。

 軍人のエリートたちは言わずもがな、最下位20名以外は試験を通過パスした。


 ケインはきちんとした訓練を受けたことはなかったが、トレーニングに耐えるだけの筋力は備えていた。

 でなければ、自警団相手に大立ち回りなんてことは、一介の不良には成しえない。


 そして指定された量の飯を食う。

 これは朝昼晩ではなくその間も含め、一日で5食分。

 さらに一食が成人男子の平均摂取カロリーの1.5倍だ。


 ケインにとっては天国のような“トレーニング”だったが、食えなくて脱落するものがここでさらに30名出た。

 これで残りは650名。

 ケインも含め、半年ほどで残った人間たちの身体は鋼のように鍛え上げられていた。


 続いて行われたのは限界超越トレーニング。

 毎日基礎トレーニングの応用で出した記録を必ず10%超えなくてはいけない。


 毎日だ。

 初日はいい。ヘトヘトになりながらも自分の限界を引き出すことが出来る。

 けれど二日目は初日に出した記録をさらに10%超えなくてはいけない。


 これを十日間×6回。

 大量の飯を喰らいながら行われる。


 ここで半分強が消えた。

 残ったのは300名。ケインもその中に入っていた。


 次はデータによって分けられた150名ずつに2班に分かれ、戦闘が行われた。

 実際の殺し合いではないが、VR空間に投影された己の肉体を使って、相手を倒す。

 銃やナイフなどは使えない。

 使えるのは己の肉体のみだ。


 これまで特に目立つことのなかったケインは、この訓練で頭角を現した。

 ケインはたった一人で、相手の1/3、つまり50名を叩きのめしたのだ。

 本当はもっといけたのだが、強制的に止められた。


 曰く、ケイン以外のデータが取れない。

 そういうことだった。


 だがケインが特別優れていたというわけでもない。

 何日にも分かれて同じ訓練が行われ、ケイン以外にも50名の討伐に成功するものが何人も現れた。

 達成者は全部で50人。

 ほとんどが軍の用意したフィジカルエリートたちだったが、ごくまれにケインのような犯罪者が残ってもいた。


 そしてその達成者たちには次のステージが用意されていた。


 薬物投与だ。

 フィジカルに問題があればそもそも投与できず、そして適切な状況判断と強さを持たないものが適応しても意味がないもの。

 それが都市軍装備開発部人体課が用意した代物だった。


「我々に恐れはない。都市どころか自分の人生にも忠誠を誓えないヤツはどうか知らんが……」

「…………」


 軍のエリートで一番の成績だった男が吐き捨てるように言ったが、ケインは聞き流した。

 衣食住が保証されていて牢屋じゃないならば、別にどこでもいい。

 この施設でトレーニングを積むうち、買っても無駄になる喧嘩は買わない主義になっていた。


 それからしばらくして、薬の投与が始まった。

 日に五回。それを約一年続ける。

 50名それぞれに個室が与えられた。試験のとき以外、おしゃべり、交流はなし。

 こちらはどうでもよかった。


 肝心の薬だが、一気に身体が変化するとか、そういうものではないらしい。

 データによれば、顕著に表れるのは投与されてから半年と聞かされていた。


 しかし例外も当然いる。

 すぐに効果が表れたものもいた。

 ケインや他の犯罪者上がりに嫌味を垂れ流す軍のエリート様だった。


「力が湧いてくる。私もスーパーマンのように……よ、あ、れ?」


 エリート様は能力が発現すると同時に、コンクリートを素手で破壊し、ホロスクリーンのヒーローみたいに壁を跳び回って見せた。

 しかしすぐに鼻血を出し、目からも血を流した。


「な、なにかの間違いだ……な、なんで……くそ、と、とま、れ……」


 呂律も怪しくなってくる。

 研究者たちは冷ややかに、ただ実験動物を見るようにエリート様を観察していた。


「あれはもうダメだな。お前もそう思うだろ?」

「…………ああ」


 エリート様の様子を見ていた横の男が、ケインに話しかけてくる。

 確かフィルマンとかいったはずだ。

 都市警備航空部隊に所属しているとかいう、あまり目立たない男だ。


「俺には分かるぜ。この実験の成功者がな」


 フィルマンは両手の指で7を表した。


「7人だ。この中からたったの7人。一人は俺だから、あとは6人」

「…………」

「そしてお前には残念なお知らせだが……お前はその中にゃ入ってないぜ」

「…………そうか」


 そっけないケインの態度に、フィルマンは片頬だけを持ち上げた笑みを浮かべる。


「自分が“そう”なることはわかってるって顔だ。荷物はまとめておいたほうがいい。犯罪者なんだろう? 血まみれ。このままだと、お前は実験動物だ」

「…………あぁ」


 フィルマンが立ち上がり、片手を上げて去っていく。

 同時に、エリート様が膝からくずおれて、そのまま動かなくなった。



「……はぁっ、かはっ……ひ、ひ、う、あ……がっ、あぁあッ!?」


 ビクッ、ビククッ、と身体が反り返る。

 薬物投与が始まって一年まであと少し。

 ケインはリノリウムの床をのたうちまわっていた。


『被検体001、不適合』


 薬物を投与されて、指定されたトレーニングに挑む。

 その最終試験に近いものを行っているときだった。


 これまでなんともなかった、順調そのものだった肉体が急に悲鳴を上げた。


 床をのたうちながら、胃が痙攣して嘔吐する。

 手指が勝手に曲がり、つま先がピンッと伸びて引き攣っていた。


「かっ……かっ……」


 呼吸ができない。

 ケインは白目を剥きながら、ビクッ、ビクッ、と身体を反らせた。

 試験はそれで終わりだ。

 不適合の不合格。


 最終的にその試験をパスしたのは、フィルマンを含めた7名だけだった。



「やぁ、やぁ、目は覚めたかね?」

「…………こ、こ……は……?」


 眩しい光に晒されて、ケインは目を覚ました。

 横から声はするものの、焦点が合わない。


 薬物投与試験で痙攣を起こして以後の記憶がない。


 身体は横たわっている。

 ベッド……いや、手術台に載せられていた。

 すぐに気づいたのは、薬物投与の際に暴れないようにするため何度も、この感触の台に載せられていたからだ。

 ご丁寧に、ケインの手首と足首は拘束具によって締められていた。


「……あんたは……?」

「ああ、私かね? ほぉ、理性はちぃと残ってると見える。うん、いい。さすが最終試験前まで残った検体だ。軍部のエリートは何名かを残してあとは使い物にならなくなった。まったく、軟弱なことだ。ふふふ」


「……あんたは、誰だと、聞いている……」

「はっは、そうだった。どうせすぐに忘れると思って、無視してしまったな。私はギミックユマンのキリバド・ラッセル。君たち脱落組の身体を弄る権利を持った研究者の一人だ」


「弄る、だと?」

「そうだ。これまでさんざん都市軍の人間に弄られてきただろう? 常人なら発狂もの、致死量といってもいい薬物をその身体に流し込まれ、とっくに内部は人間離れしている。そういうわけで、私がこれからすることは、君が今までやられてきたことと変わらんよ」


「…………」

「君より早く脱落した連中も、全員薬物投与は行っているんだ。その結果は散々たるものだけどね。まあ、常人離れした化け物が何体も生まれたから、研究データとしては上々だな」


 横から、カチャカチャと何か道具を扱う音だけが聞こえる。

 手術灯が眩しい。

 光以外は、ぼんやりとしたら輪郭しかない。


「君にも他の検体同様、薬物漬けにして化け物にしてもいいんだが、少しね、脳を弄らせてほしいんだ。ちょっと進めている研究で行き詰っていてね。このチップを埋め込んだら人はどうなるのか。発狂しない検体が欲しかったところなんだよ」

「…………」


 ラッセルを名乗った男の手か、ケインの頭が両側から締め付けられる。


「本当は合格者たちの脳を弄りたかったんだが、それはさすがに咎められた。そりゃあそうだな。私もダメ元だった。だが、君は“もらえた”。頑丈な身体に、頑丈な精神。環境によって犯罪者でいるしかなかった君を実験に使えることは、私の幸運だ」

「……人の身体を弄って、それで幸運だと……マッドが……」


 ケインの頭上で、ラッセルが鼻で笑った。


「バカだな、ケイン君。マッドじゃなければ、人の身体を弄ろうなんてしないさ」

「かっ、あ……」


 首に太い注射針を打ち込まれる。

 冷たい液体が、ケインの静脈に流し込まれていく。


「夢を見なさい。幸福な夢だ。君は生まれ変わる。いや、“作り変えられる”。安心しろ。私のことなんて忘れる。辛いことなんて忘れる。幸福さえもどうでもよくなるだろう。実験が成功した暁には、ビバ・ケイン。君こそが“地獄”になるのだ」

「く、そ……や…………」


 全身から生気を奪われたように脱力していく。

 逆らえない。動けない。意識さえも遠のいてく。

 手術灯の一つが暗くなって、丸い影が視界に入った。


 そいつは、キリバド・ラッセルは笑っていた。

 深く皺の刻み込まれた顔。

 丸縁の眼鏡。

 酷薄な笑み。


 忘れない。

 何を忘れようとも、この男だけは……。



「はぁっ……はぁっ……はぁ……」


 ケインは走っていた。

 手術着のまま、雨に打たれ、全身を血まみれにして。


「がっ、あっ、あぁ……」


 路地裏に逃げ込んだとき、頭が酷く傷んだ。

 剃り上げられた頭部。額から後頭部にかけて円を描くように開頭痕があった。


「なんだってんだ、いったい……」


 “あの場所”から逃げ出さなくてはいけない。

 その一心で暴れ、職員たちを殺し、ケインは逃亡した。

 行く当てなどない。

 記憶も混濁している。


 覚えているのは、自分が痙攣で倒れ、それから病院に担ぎ込まれたということ。

 “手厚い看護を受けたものの、薬物投与の副産物で身体の異常な回復力を発現させて以降、奇妙な連中から狙われていたこと”。

 そして、そいつらが病院にまで潜り込み、ケインを浚ったこと。


 そこから逃げ出した。

 都市軍装備開発部人体課の連中が言っていた『超人アポストロ計画プロジェクト』の失敗作だったケインは、本来ならば服役囚に戻らないといけないはずのケインは、こうして外へ逃げだした。


「はっ、はっ、はっ、はっ、はぁっ、は、はぁっ……」


 と、前方からいきなり息せき切って男が走ってきた。

 よだれを垂らし、目は血走っていた。


「どけっ! どけぇえええっ!!」


 男は叫びながら、大振りのナイフを振り回してケインに突っ込んできた。

 というか、道は狭く、ケインに突っ込まざるをえなかった。


 だが──。


「がひゅっ……!?」


 ケインは手の甲を軽く振って男が強く握っていたナイフを叩き落とし、そのまま片手で首を絞めた。

 いわゆる喉輪の状態で男を宙づりにする。


「がっ、かか、がっ……」


 男はケインの腕を掴み、足をバタバタと暴れさせたが、手が外れることはなかった。


「……うるさいんだ、お前は……通るつもりなら、静かに……」


 ドンッ、と腹に響く音がした。

 男の頭が吹き飛んで、ケインの顔に鮮血がべちゃりと張り付いた。


「…………」


 頭部を失った男を投げ捨て、ケインは前方を見つめる。

 そこには一人の男が立っていた。

 黒い帽子に黒いロングコート。死神みたいないで立ちで、手には大型の銃を握っている。

 銃口から硝煙。

 男が撃ったのはまず間違いなかった。


「俺の獲物だ。横取りは許されない。わかるか……って、おい!」


 鮮血を浴びた瞬間、ケインは猛烈な眠気に襲われていた。

 意志の力では到底抗えない。

 このとき、ケインはこの力が抜ける感覚を眠気だと思っていたが、これは陶酔だった。

 痺れるような、頭の芯から蕩けるような、甘い陶酔だ。


「お前には当ててないはずだぞ……」


 撃った男の声が聞こえる。だが、返事はできない。

 頭部を失った男の腹を枕にでもするように、ケインは倒れ、そのまま意識を失った。



「…………」


 目を開けると、そこは見知った“ねぐら”の光景だった。

 ベッドに腰かけるように身体を起こす。

 明り取りの窓からネオンの光が差し込んでくる。

 雨の影が、鉄板をそのまま打ち付けただけの壁に反射していた。


「……懐かしい光景だ」


 “鮮血”と呼ばれるようになって何年、いや、もしかしたらまだ何か月かもしれない。

 あれから幾人も人を殺し、そのたび鮮血を浴びてきた。

 血まみれは、鮮血となった。


 あの日、ケインを拾ったフォーカスとはすでに袂を分かっている。

 父を殺したあの日から、ずいぶんと血にまみれた生活を続けていた。


 これからも、血にまみれる生活を送ることだろう。


 “鮮血を求めよ。鮮血を浴びよ。”


 相も変わらず声が聞こえる。

 同時に、衝動が湧き上がってくる。


 誰かを“浴びる”までは、声は遠くならない。


「……やれやれだ」


 ケインは立ち上がり、コートを羽織る。

 玄関先に置いてあるドックフードの箱を斜めに傾けて、中身を貪り食う。


 そのまま黒い傘を取って、扉を開けると、視界に広がるのは生まれたときから見知った貧民街。

 生家に近いプレハブ小屋だった。


「わふっ!」

「…………」


 足元で吼えたのは野良犬だった。

 尻尾をブンブンと振って、ケインを見上げている。


 ケインはドッグフードの入った箱を投げ捨てた。

 野良犬は嬉しそうに箱に鼻を突っ込んで、餌を貪り始める。


 ケインは天上にも届くのではないかと思うほど高いAランクエリアのビル群を眺める。

 それから、鼻で笑った。


「求めよ、さらば与えられん。ふっ、嘘つきが。奪えの間違いだろう。誰がこんな生活を求め、与えられてるんだ。くっくっく」


 重酸性雨の一滴がケインの瞳を焼く。

 けれどすぐに細胞が修復し、ケインは口元に浮かびかけていた笑みを消した。


「…………」


 ケインは歩き出す。

 硬いブーツの音が通りに響く。


 薬中ジャンキー廃人ジャンク犬の餌ドッグフード


 そのどれにもなれなかった男は、今日もまたどこかで、誰かを“浴びる”。


こちらはpixivのほうで依頼をいただいたケインの話となります。

ご本人様から承諾を受けて掲載となりました。

皆さまにも楽しんでいただけたら幸いです。

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