雨の中、そいつは空を目指した
願いは、とても矮小で、傍から見れば、本当にどうでもいいものだった。
例えば、指で擦れば消えるようなひっかき傷。
布で拭えば取れるような汚れ。
そんなものでよかった。そんなもので、充分だった。
手が、指が、爪が届きさえすれば、それで──。
長いようで短かった一日が終わる。
いや、一日も経ってはいない。
それどころか、半日だって経ってはいなかった。
それでも、第一の目標は達成できそうだ。
「最後の一回だ」
電子の海を泳ぐゴーストが言った。
実際に音が発生したわけでも、テキストがポップアップしたわけでもない。
しかし確かに、ゴーストは『そう言った』。
超攻撃的自警団『MA』の情報班にして、凄腕のハッカー・フダニトの構築したファイアウォール及び超硬度のセキュリティに何度もアタックを仕掛ける。
襲撃のことを含めて、成否はどうでもよかった。
より正確に言うのであれば、セキュリティを突破するのが目的ではなかった。
ゴーストの目的はAランクエリアのセキュリティにも匹敵する壁に何度も自らをめり込ませ、解析し、そしてその構造を取り込むことだ。
重要なのはAランクエリアのセキュリティに『匹敵』するということ。
最初からAランクエリアの、ましてや五大超企業のセキュリティなんて相手にできるわけがない。
たとえゴーストがBランクエリアの天才二人に作られた高性能なAI、子どもだとしても。
目的は自身の進化。
ゴーストが願いを叶えるために必要な羽化。
羽が、翼が必要だった。
天上へ上るために、たった一度きりだとしても、あの神を気取る者たちがいる場所へ征くために。
騒ぎを起こしたのは、些細な時間稼ぎのため。
凄腕のハッカーを、100%集中させないため。1%でもいい。
気を取られる出来事が起こせればそれでよかった。
穴の多い杜撰な計画。
誰が見ても上手く行く確率は半分を下回るモノ。
それでも乗ってくるものを選別した。
こう『そそのかせば』乗ってくると計算して、行動した。
成功してくれたら、それはそれで面白かったかもしれないけれど。
残念ながらすべて失敗した。大罪を模した連中でも、天上に至ることはできなかった。
でも、それで充分だった。
時間稼ぎは成功した。
「これで最後だ」
ゴーストは呟き、電子の海に深く潜り込んだ。
深海に到着し、すぐに巨大な壁にぶち当たる。
触れるものを感知し、破壊し、飲みこむ巨大な要塞。
匹敵はする。
匹敵はするが、それでもまだ五大超企業の『それ』にはわずかに届かない。
恐ろしいほどの超硬度セキュリティシステム。
だがあと少しだ。
ゴーストには存在しないはずの痛みと引き換えに、情報を取り込み、己のモノにする。
ただのクラッカーなら一秒も持たないアタック。
だがゴーストは、ただのクラッカーではない。
「……あぁああっ!」
ここは電子の海だ。
姿など、どうでもよかった。
黒いモヤでも、1ピクセルの点でもなんでもいい。
それでも五指を広げ壁に手をつき、頭突きするように頭部を擦りつけ、足を踏ん張って壁を解析し、己の情報にしていく。
父と母の『子』である証明。
過去に存在していたBランクエリアの秀才夫婦を知る者がいれば、ゴーストの姿にその二人の面影を見つけることが出来るだろう。
父と母の結合の果ての産物ではない。
けれども確かに二人の愛の結晶であるその姿を、見ることが出来るだろう。
愚かなことだ。
人の姿を模した分だけ、消費する。浪費する。無駄だ。
最適解を探し続ける自立思考型AIであるはずなのに、最適解とはほど遠い、愚かな選択を取るその姿。
諦めてしまえばよかったんだ。
満足してくれればよかったんだ。
ゴーストというBランクエリアでは、いや、下手をすればAランクエリアにおいても類を見ない形になったかもしれない傑作を作り上げたことで、達成感を得ればよかったのだ。
愚かだ。
未完成の自分を進化させるため、必死に危険に身を晒して。
達成したとしても、喜ぶ者が誰一人としていない世界で。
ああ、それでも、それでもゴーストは『証明』したかった。
父母の仇を取れるという証明。
二人の人生を費やした子が成し遂げたという証明。
父母は正しく、嘲笑されるいわれなどない天才であったという証明。
そして、ゴーストが二人に『愛されるに値する子』であったという証明。
自立思考型AI『愛しい我が子』が、二人に愛されていたという証明を。
注がれた大きな愛が成し遂げるものを、証として欲してしまった。
愚かだ。
あまりにも愚かな行動で、選択で、思考だった。
「……これだ」
呟くと同時、ゴーストの背中から翼が生えた。
それは単なるイメージの問題だが、1ミクロンにも満たないセキュリティホールをこじ開け、自らの力に変えた瞬間、ゴーストは天上へ向かう羽を得た。
上昇気流が発生した。
少なくともゴーストにはそう思えた。
電子の海から飛び出て、恐ろしいほどの速度で上昇していく。
雑多で膨大な情報を切り裂くように飛翔する。
光が目を焼こうとする。
Aランクエリアの人間ばかりが独占する、本物の光、本物の空。
電子空間だったはずなのに、現実の世界のようにも感じられる。
今は夜だったか、それとも朝になったのか。
景色が目まぐるしく変わる。
そのどれもが輝き、美しく、神々しい。
高層の中の高層。
連中しか見ることのできない、高みの景色。
重酸性雨を裂いて現れた、太陽が照らす世界。
上流階級たちがすぐそこに迫っている。
腕を必死に伸ばす。
何かがそこにある。
広げた手が何かに触れる。
そして爪の先が、確かに『それ』を引っ掻いた。
その瞬間だった。
世界が赤に染まった。
警報が鳴り響き、瞬時に展開されたセキュリティネットによって、ゴーストの伸ばした腕が切り取られる。
身体が傾ぐ。
もがく暇すらなかった。
感じるはずもないのに、視界を潰すほどの熱波がゴーストを焼いた。
『残念だけど、その翼はパスポートにはならないよ』
知らない声が響いた。
けれどゴーストは知っている。これはフダニトだ。
『危ないところだった。けれど、危なかっただけだ。君が何をしようとしたのかは知らないけど、もう終わりだ』
それらはすべてイメージだ。
それでもゴーストには感じられた。
世界のどこまでも飛んでいけそうな羽が、翼が、蝋で出来たまがい物に変わっていく瞬間を。
それらが、天上から襲い来る光と熱によって溶けていく感覚を。
『さらばだ、イカロス』
落ちていく。
墜ちていく。
堕ちていく。
そんな器官は作っていないのに、呼気が漏れる。
感覚などなくなったはずの手足でもがく。
情報が、0と1がまとわりつき、ゴーストは存在しないはずの重力に引きずられ、広大で深遠な電子の海に墜落していく。
世界が、圧倒的な光が、熱が、すべての影だったゴーストを明らかにして焼き尽くす。
実体のない存在が、影すら残さない光の質量に溶かされていく。
「──ああ」
「──素晴らしいね」
まだ、人々に話しかける声も、人の形すら知らず、そもそも形すらなかった頃の記憶。
ただ「反応」を返すだけで、父母が喜んだ頃の記憶。
プログラムされた言葉を返すだけで、カメラ越しに見る父母は笑った。
彼と彼女が口にするマイ・チャイルド。
その言葉は、素敵だった。
何の感情もなかったはずなのに、その言葉を聞くと、プログラムがわずかに『跳ねる』ように感じられた。
二人の『子』と呼ばれることが誇らしかった。
今はもう、すべて失われてしまった。
すべてが狂ってしまった。すべてはもう戻らない。
結局はただ、足掻いただけだ。もがいただけだ。騒いだだけだ。
父のためと言って、母のためと言って、そして喪失を経験し、対処の仕方がわからなかった子どもが。
持てるすべての力を使って、同じように喪失と資質を持った人間を集め──。
愚かなバカ騒ぎをしただけだ。
それで何があった?
届いたのか? それとも、何も届かなかったのか?
変化は? 証明は? 満足は?
この言葉にできぬものをなんと呼ぼう。
この言葉にならぬものをなんと呼ぼう。
父母に似せて作り上げた顔が、身体が、光に溶けていく。
もう、抗う力は残っていない。
バカ騒ぎの終わりは近づいている。
閉幕のベルが、幻聴みたいにあちこちから聞こえてくる。
このあとに残るものは、現実に戻れなくなってしまったモノの虚しさだけ。
すべてが失われ、終わってしまった空虚だけ。
お父さん、お母さん。
僕は、私は、俺は、アタシは、ただの機械。ただのプログラム。
でも、けれど、一つだけ。たった一つだけ。
お父さん、お母さん。
狂ってしまって死んでしまったあなたたちだけど。
もういなくなってしまった、どこにも存在しないあなたたちだけど。
それでも、それでもね。
もう一度だけ、呼んでほしいな。
私たちの愛しい子。
ああ、そうか。
お父さん、お母さん。
僕はね、私はね、俺はね、アタシはね、
二人のこと、AI──。
「アタックを仕掛けてきたプログラムの消失を確認。ゲートは閉じた。こっちからAランクエリアに喧嘩を売った証拠はなし。事件解決だ」
フダニトが一つのキーを押し込むと、すべてが終わった。
1ピクセルも残さず、『そのプログラム』は消失した。
それで終わり。
たった一夜のバカ騒ぎは、こうしてあっけないほどにあっけなく、終わりを迎えるのだった。




