幕間 Name AA_
底辺。
地獄。
この都市にはそんなものがそこかしこに存在する。
古翁が言った。
僕には何のことかわからなかった。
それでも彼は話を続ける。
そんなことより手を動かしてほしいのだが……。
工場の中はコンクリートに囲まれた灰色の世界だ。
巨大なベルトコンベアが駆動音を響かせ、大きな口から様々な色をした四角い塊を吐き出す。
ベルトコンベアの左右に並んだ僕と古翁のような労働者が、それをちぎって小さな長方形に成型する。
そしてまた小さなベルトコンベアに乗せて流す。
それを機械が包装し、他の労働者がパッケージングしていく。
その作業の繰り返し。
僕たちは“それ”が何かを知らないし、知る必要性も感じない。
淡々と仕事をこなすだけ。
だって僕らは労働者だから。
「いいか、底辺だとか地獄だとかは色々あるがな、Bランクエリアの地の底は間違いなくここだ」
昼食の時間になり、大きな食堂で僕の前を陣取った古翁が言った。
何本も歯が抜けた口を開けて、労働者用支給糧食Aを食べている。
ピンク色のパテと黄色いゼリー、赤と白のカプセル剤と紫色の錠剤、労働者用飲料水。
ちなみに僕は労働者用支給糧食Bを食べている。
AとBの違いはゼリーの色と成分。それだけだ。
「なんでそう思うの?」
僕が聞くと、古翁は嬉しそうに口を歪めた。
焦点の合わないサイバネアイがキュイ、ギュイ、と左右であらぬ方向に動く。
「いいか。お前らは孤児だ。そしてある程度の年齢になったらここで働かされる。工場労働者としてな」
古翁の目が一点を見つめる。
7、8歳の子供の集団。彼らはおしゃべりせず、黙々と児童労働者用支給糧食を食べている。
十年以上前に、僕もあの集団の中にいた。
「同じブロイラーだとしても、外に家を持つヤツはまだ恵まれているといえる。だがお前らは違う。お前らは半ば工場で生まれ、工場に奉仕し、工場の中で死んでいく。これを不幸や地獄と言わずなんという。この場所しか知らず、この場所以外で生きる術を持たないお前たちを」
古翁が大げさに手を広げて主張する。
けれども僕以外の人々は彼に関心を向けない。
それもそうだ。食事の時間は大切だ。
食事の時間に自分たちの幸福について考える。
野垂れ死んでいた自分たちを救い、育てた工場に感謝し、そして工場で働けることに感謝する。
その心があれば、僕らは幸せである。幸福であると工場長は言った。
だから僕はそう思う。
きっと、他のみんなもそう思っている。
けれど古翁は違う。それは地獄だという。
僕は、古翁は頭がおかしいんだと思っている。
口には出さないけれど。
だから誰にも相手にされない。
彼は工場で生まれ育っていない。
ある日、工場長に似た男数名に引きずられて連れて来られた。
昔から古翁はここを底辺だ、地獄だと言っていたけど、最初の話相手は僕ではなかった。
そいつは僕と同じようにやせ細った男だったと思う。
けれど僕や他の労働者と違い、なんとなく目がぎらついていたように思う。
古翁は楽しそうにその男と話していた。
けれどある日を境に、男は消えた。
工場長と工場長に似た男たちが僕たち労働者の間を頻繁に行き来した日があった。
たぶん、男が消えたのはあの日だろう。
労働者番号4402。
僕より古株で、古翁の話し相手だった男。
「だがな、比べなければお前みたいにここを地獄だとは思わない。人が不幸になる原因は他人と自分を比べるからだ。隣の芝生の青さを知らなけりゃ、いつだって自分の芝生が一番青い」
「……ふーん」
僕はゼリーを掬って口に運び、咀嚼する。
カプセル剤を一つ取り、労働者用飲料水で流し込む。
「あいつには可哀そうなことをした。外の世界に興味津々だったからな、ついつい教えてやったんだ」
古翁が呟く。
「あいつと一度だけ外を覗き見たことがある。ゴミだめみたいな景色さ。それでもワシにとっては慣れ親しんだ、あいつにとっては初めて見る工場以外の景色。それはもう魅力的に映ったことだろう。それからだな。あいつにとってこの工場は地獄に変わったんだろう」
古翁のサイバネアイがキュイキュイと音を立てて工場内を見る。
僕はパテを規則正しく切り分けて口に運んでいく。
最後の一欠けを食べる前に、スプーンを置く。
パテに錠剤を詰め込んで、見えなくなるまで包む。
これを口に放り込むと、いつもと違う食感がして楽しいという。
教えてくれたのは古翁ではない。
労働者番号4402だ。
「あいつは今、どうしてると思う?」
「……さぁ」
僕は答えながら、パテの錠剤包みを口に放り込んで咀嚼する。
ボリ、グチャ、と、ただパテを食べただけではしない感覚がある。
僕はそれを好ましいと思っている。
「お前も見たいと思わないか? 隣の青い芝生を」
「僕はいいや」
甲高いチャイムが鳴る。
その後、誰のモノかわからない声がスピーカーから流れる。
『労働者の皆さん、食事の時間は終わりです。楽しい労働の時間です。働きましょう。人の役に立ちましょう。あなたたちの価値を示しましょう。労働は善行。労働は皆さんの幸福です』
僕らは一斉に立ち上がる。
古翁だけは嫌そうに唇を歪め、一拍遅れて立ち上がった。
銀色のトレーを持ち、人々の流れに沿ってトレーを返却する。
作業場2の前で、他の労働者に続いて入室する。
口元にマスク。手袋を填めて、クリーンシャワーを浴びる。
「なあ、不満に思わないのか? 世界にはもっと楽しいことがあるんだぜ」
ベルトコンベアの前に立ち、作業を開始すると古翁が話しかけてくる。
僕の顔を覗き込むようにして言うが、僕は何かの塊を長方形に成型しながら首を横に振った。
「不満なんかない。僕は幸福だよ。ここでの生活に、僕は満足しているよ」
「そんなわけねぇだろう。お前だってわかってるはずだ。お前は4402と同じ資質がある。お前はあいつと同じ食べ方を……あ?」
古翁の両脇に、工場長に似た男たちが立った。
「な、なんだよ……ろ、労働する。ワシはちゃんと……」
「労働者番号10216。怠惰、そして扇動の疑いあり。連行する」
工場長に似た男たちが古翁の両脇を抱え、有無を言わさず連れて行く。
「ま、待て! ちょっと待て! お、おい8452! 助けてくれ! ワシはちゃんと働いていたって証言してくれ! おい! い、嫌だ! 離せ! おい! 誰か助けて! 助けてぇえええ!」
古翁が引きずられていく。
僕たちは淡々と自分の作業を続ける。
過去にも“ああなった”労働者がいた。
誰も彼も再びその姿を見ることはなかった。
「8452」
「はい!」
いつの間にか、工場長が横に立っていた。
僕は工場長に向き合い、直立不動する。
「ここでの労働は幸福か?」
「はい! ここでの労働は幸福です!」
僕は大きな声で返す。
工場長は満足げに頷いて、僕の肩を叩いた。
「労働を続けたまえ」
「はい! ありがとうございます!」
僕は工場長に声をかけられた光栄に舞い上がらないようにしながら、再び何かをちぎって長方形に成型する。
正直に言ってしまえば、僕は古翁の言っていたことがほとんど理解できなかった。
芝生なんてものは知らないし、外の世界なんて興味もない。
僕たちはここで生まれ、生きて、死ぬ。
それがこの工場の中というだけの話。
でも、それでいい。
古翁の言う“隣の芝生”を見せられたら、あの逃げた4402と同じ行動をしてしまうかもしれない。
それは困る。
僕はここにいたいのだ。
少し前、古翁は言っていた。
僕たちには名前がないと。
今は労働者番号10216なんて名前だが、ワシの本当の名は×××××××××というんだ。
そう自慢げに話していた。
けれど彼は間違っている。
僕たちには名前がある。
8452という大切な名前が。
それに彼は僕たちを不幸だと何度も言ったが、僕はそうは思わない。
彼のようにたくさんの物事を知ることで不幸と幸福を知るのだとすれば、僕は知らないでいい。
“本当”の名前だって興味がない。
だって知らなければ、ないと同じだから。
古翁の言う不幸と同じように。
つまりは見えなければ、すべてないのと同じ。
僕はこの目に見えている労働という幸福を享受することにする。
だから古翁には悪いと思うのだけど、僕は幸福だと思う。
そしてたぶん、4402は不幸になってしまったと思う。
この幸福から逃げ出したのだから。
読了、感謝します。
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