血の雨
雨が降っている。
重酸性雨が、通りを走る車を打っていた。
旧市街地の一つ。
ネオンの毒々しくも美しい発光が遠ざかっていく。
運転している女は大柄だが、軍にも卸されている四輪装甲車なので、窮屈ではない。
アジャスタ・ゴング。
ドレッドヘア。両腕に巨大なサイバネインプラント。ゴリラ社の白兵戦用特殊アーム『ブラッド・レイン』。
鈍色の機械の腕。
黒のタンクトップに、同色のレザーパンツ。
所属している組織『MA』の幹部である証のブラックコートは助手席に置いてある。
車が目的の場所で止まる。
廃墟となった区画の一角。
今もなお、急激に発展し、衰退し、また発展していく都市の衰退、破壊された箇所。
しばらくすれば、人気のないこの場所もまた人であふれかえるだろう。
“招待状”が示す住所はここで間違いない。
アジャスタの鼻がひくっ、と動く。
車越しでも、雨が降っていてもわかる。
崩れかけた入り口の向こうから、血の臭いがする。
「……くせぇな、おい」
分厚いドアを開けて、ブラックコートを羽織って外に出る。
入り口はすぐそこだ。
傘もいらない。
ざりっ、と埃と瓦礫の混じった地面を軍用ブーツで踏みつけて中に入る。
廃墟の中からは、さらに濃厚な血の臭いがむぅっと漂ってきた。
血の臭いが濃いほうへ進む。
入り口から二番目の一室。そこに真っ白い女と、椅子に縛り付けられたMAの団員が三名いた。
「……約束、破ったのか」
アジャスタは三つの“死体”を見て、それから胡乱な目つきで白い女、カミラを見た。
カミラは、少女のような笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。だって、我慢できなかったんだもの」
謝っているが、悪びれてはいない。
腰まで伸びた純白の髪、眉も睫毛も白く、瞳と口の中だけが赤い。
白のワンピースと白い靴。
瓦礫の上に佇む女。
幻想的ともいえる光景だ。
その手に、血にまみれた巨斧を握りしめていなければ。
「私が到着するまで待てなかったのか?」
「我慢できなかったって言ってるじゃない」
カミラが瓦礫から降りる。
音がしない。嘘みたいに静かな着地。
「なら、お前はこれから私に何をされても仕方ないな?」
「嫌よ? あなたは大人しく私に血を提供してくれなくちゃ」
アジャスタは部屋に入った。
団員の三人は苦悶の表情を浮かべて死んでいた。
瞬き一つの黙とうを送る。
これでさよなら。よくやった。お疲れ様。
「提供? 私をデリバリーか何かだと勘違いしてるのか?」
「あら、違うの? 部下を助けられず、間抜けにも一人で猛獣の巣に入ってきた配達員さん」
二人の距離は十メートル。
けれど化け物じみた身体能力を獲得したカミラにはないも同然の距離だ。
カミラは巨斧を振り上げ、アジャスタに向けて飛び出そうと足に力を込めた。
「えぇ?」
しかし、次の瞬間、カミラの目の前に死体が現れる。
いや、高速で飛んできた。
アジャスタが団員の一人の頭を掴んでぶん投げ、それがカミラに当たろうとしていた。
団員を悼む気持ち、悲痛、その気持ちに偽りを感じなかった。
感傷的な人間は隙だらけ。
そんなカミラの思考を嗤うように、アジャスタは何の躊躇いもなく死体を投げつけてきた。
「ぎゃうッ……!?」
額同士がぶつかる。
カミラはのけ反り、落とした斧がコンクリートの地面に突き刺さる。
額が割れ、頭蓋骨にヒビが入ったかと思うほど、強烈な、遠慮のない一撃だった。
トンッ。
微かな、地面を蹴る音。
カミラは反射的に額に触れようとする手を堪え、全身の筋肉を使ってしゃがんだ。
直後、カミラの顔があった場所に残ってしまった白の髪が千切れ飛んだ。
十メートルがないも同然なのは、アジャスタも同じだった。
「はぁっ……」
カミラは息を吸った。
そして地面に這いつくばるような恰好のまま、地を蹴って前方に駆ける。
背後で、地面の割れる音がした。
それから舌打ちも。
「すばしっこいなぁ」
「あなたも相当よ、アジャスタ」
ようやく立ち上がったカミラは、自分の判断が間違ってなかったことを理解した。
アジャスタの足元、地面が抉れていた。
とても小規模なクレーター。
遠い昔、姉と見たシネマを思い出した。
爆弾魔と刑事の戦い。
人を吹っ飛ばす小さな爆弾の痕。
恐ろしい威力を持つそれは、単なる脅し用の爆弾だった。
「部下を投げるなんて、酷い人ね、あなた」
カミラのそばに二つの死体がある。
ちょうどアジャスタと位置が入れ替わった形だ。
声を出して初めて、カミラは自分が震えていることに気づいた。
血を身体に入れる前、病弱で仕方なかったころ以来の感覚だった。
肌が総毛立っている。
冷たい汗がこめかみから頬、そして背中に流れていた。
「恐ろしい人、怖い人。あなた、全然姉に似てないわ」
「はぁ? そりゃそうだろう。あんたの姉と私じゃ人種からして違いそうだ」
インプラントされた巨大な腕が、ググっと持ち上がる。
それから緩く、ボクサーが動きを確認するみたいに、左拳が前に突き出される。
「それに私なら、殺される前にバカな妹をぶっ殺してる」
アジャスタはカミラのことを知っている。
いや、調べたのだ。彼女が実の姉を殺したあと逃亡し、警察官も何人も殺していることを。
消息不明の現代の吸血鬼。
にんにく、十字架、銀の弾丸。
吸血鬼に効くモノはなんだと考えたとき、アジャスタは己の拳を見た。
“ああ、私の腕には杭があるじゃないか”。
吸血鬼退治のためだけならそれで充分。
しかし、団員が死んでいた場合は苦痛を味わってもらうために、もっと酷い手を使うことも考えていた。
「あなた、最悪ね。美味しそうだと思ったのに。最悪」
「それを引き込んだのはお前だろう」
カミラが死体の一つを掴む。
頭を鷲掴みにして、アジャスタと同じことをしようとする。
「おい、うちの団員を投げるつもりか?」
「あなたがさっきやったことをお返しするだけよ」
「やめといたほうがいい」
「自分がいかに酷いことをしたのか、あなたは考えたほうがいい」
アジャスタが両手を上げて降参のポーズを取る。
当然、カミラにやめるつもりも、理由もない。
けれどどうして?と考えてしまう。
自分は部下を投げつけたくせに、投げられることには抵抗がある。
何かがおかしい。
そう、カミラが思ったのと、アジャスタが口を開くのはほぼ同時だった。
「そいつ、危ないもの口に咥えてんだよ」
「……え?」
カミラが視線を死体に向ける。
掴んでいたのは頭部。
そこから独立したみたいに、カパッと下顎が落ちて口が開いた。
ああ、あの爆弾魔だ。
カミラは思った。
口の中にあったのは。
腹に響く鈍い音。
死体の頭が吹っ飛ぶ。
埃が舞う。
カミラは壁に叩きつけられていた。
「あぁぁあああぁあああッッッッッ!!!」
指向性の爆弾は団員の頭と、それを掴んでいたカミラの左腕を吹っ飛ばしていた。
「私の腕、私の血が……もったいない、血、血が……」
腕を押さえ、カミラが痛みに呻く。
それ以上に、美味な血で作られた己の血が容赦なく流れ出ていくショックで涙がこぼれる。
「おまえ、おまえぇ……!」
カミラの真っ赤な目が、薄く笑うアジャスタを見据えた。
鼻に皺を寄せ、歯をむき出しにして立ち上がる。
千切れて埃と血液で赤黒くなった毛先が揺れた。
白のワンピースが、太ももが、靴が、まだら模様に赤く染まっている。
「覚悟がないなぁ、カミラ」
悪鬼のようになったカミラを見ても、アジャスタから余裕は消えない。
むしろ、楽しそうに拳をボクサースタイルで構える。
「ひっそりと生きていればよかったんだ。強者でいられる世界で、部を弁えて、楽しくおかしく、独裁者のように死体の山を築けばよかったのに」
それから一転、アジャスタの瞳に憐憫が浮かんだ。
「そうすれば、こうなることはなかった」
「お前の血をよこせぇええええっ!」
髪を振り乱し、左腕から血をまき散らしながらカミラが突進する。
先ほど感じた恐怖など、もうどこにもない。
怒りだ。純粋な怒りが恐怖を克服し、アジャスタを殺すためだけにカミラの肉体を動かした。
だがそう思っているのはカミラだけだ。
それは怒りではない。
それこそが、怒りに擬態させた恐怖だった。
認めてはならない。消さなくてはいけない。
自分がこれから先、一生、死ぬまで恐怖しなければならない存在がいるという事実。
それを消さなくては、安寧の日々は取り戻せない。
カミラが右拳を振り上げ、技法も何もないパンチを放った。
常人であるならば、その一撃で昏倒させられる。
不意打ちなら、MAの鍛えられた団員たちだって眠らせられる。
けれどカミラが相手にしているのは常人ではない。
超攻撃的自警団『MA』の幹部だ。
「ひぃああああっ!?!」
アジャスタの鉄腕を殴りつけたカミラの腕がひん曲がった。
拳が砕け、指がすべてあらぬ場所を向いている。
「……ぁえ?」
痛みに気づいたあとすぐ、身体に風を感じた。
頭からつま先までを小さな衝撃が走るような、薄い感覚。
地面が揺れたような、自ら揺れているような曖昧な感覚。
「ごふっ……」
込み上げてくるものを我慢できなくて、カミラは口から血を吐いた。
身体が軽い。でも、足が重い。
羽が生えた代わりに、足取りがおぼつかなくなったような感覚。
カミラの胸部に、大きな穴が空いていた。
向こう側がしっかりと見える、空洞。
“殴られた”と気づいて、思わず、本当に思わず笑いがこぼれた。
「ば……げ、ぼ……ど……」
膝が笑う。
足首の感覚がなくなり、ぐにゃりと歪む。
膝からくずおれて、それから仰向けに倒れる。
血が瓦礫と地面、カミラの背中と髪を濡らしていく。
露出した血液ろ過用のチューブから、赤い液体がとぷ、とぷ、と流れていく。
視界が霞んでいく。
カミラは天井を見上げながら、込み上げた大量の血を再び飲んだ。
「……ふ、ふふ……お、おい……し……」
発光していたような身体から、光が消える。
暴食を冠する女は、逆に食い散らされた。
「回収班を呼んでくれ。死体袋は三つ……いや、四つだ」
アジャスタは本部と連絡を取ったあと、手ごろな瓦礫に座って、もうピクリともしないカミラを見つめる。
「悲しいな。さっさと気づければよかったのにな。化け物にも序列があるってことを」
アジャスタは昔の自分を思い出しながら、瞬き一つの黙とうを送ってやる。
雨が降っている。
今日もしばらく止みそうにない。




