雨はどちらにも平等に
喪服姿の未亡人が立っていた。
傘も差さず、ベール付きのトーク帽を被って。
重酸性雨が降っている。
Bランクエリアの、ある通りだ。
人々が多く行き交い、電飾が煌々と照り、闇夜を侵食していた。
誰も、通りの中心に立つ未亡人に声をかけなかった。
怪訝な目をして、欲望の眼差しを向けて、けれどすぐに背ける。
ベール越しに見える女性の瞳は、一片の濁りもなく赤。
さらに両手には一丁ずつ、大口径の銃が握られている。
未亡人──トリッシュは顔を心持ち上にあげて、深く、息を吸った。
湿った匂い。
人々や、香水、溶けた路面、ゴミの臭い。
雨滴の音、雑踏、やかましく響く宣伝、CM、客引きのAR。
耳をすまさずとも、聞こえる音の波。
目を閉じる。
サイバーグラスに頼らずとも、夫との記憶がすぐに蘇る。
この街を、この都市を、歩いた。
笑い、泣き、怒り、愛を囁き合った。
トリッシュは彼を、夫のリッターをいつも傷だらけにした。
爪で、歯で、拳で、足で。
自警団員だった夫は、服の下は痣だらけだった。
訓練のせいじゃない。
トリッシュのせいだった。
トリッシュは夫のすべてを愛していた。
だから彼が欲しくて、ずっと欲しくて、同化したくて、溶けあいたくて──そうはできないから、彼に自分のものである証として、幾度も傷をつけた。
肉体にも精神にも。たくさん。たくさん。
けれどトリッシュは未亡人だ。
夫はもういない。
夫の最期は、トリッシュのものだったはずだ。
病気にも、老いにも、ましてや他人になんて絶対に、絶対に奪わせない。
最期は必ずトリッシュの手で殺す。
そう、決めていたのに。
夫は死んだ。
トリッシュの許可なく殺されて、死んだ。
小さなカプセルに入った、灰になった。
何度も悲しんだ。
何度も死のうとした。
けれど、まだだ。まだ、この世界に未練がある。
トリッシュから夫を奪った世界を、壊さなくては。
これは、トリッシュの正当な権利だ。
雑踏が減っていく。
まだそんな時間ではないのに。
店舗の宣伝ソングだけが、歪な合唱となって響く。
雨に撃ち落とされなかった音が、トリッシュの鼓膜を揺らした。
「こちらです」「さがって」「危険です。下がってください」
誰の声だ?
何の言葉だ?
トリッシュがそう思ったのは、一瞬だった。
誰の声? わかり切っていることだ。
何の言葉? わかり切っていることだ。
奴らしかいない。
奴らを待っていた。
一番殺したい相手は、もう決まっている。
そしてきっと、必ず、彼が来る。
目を開ける。
モーセが起こした奇跡のように、人波が割れていた。
後ろも、前も、ぽっかりと、トリッシュだけの空間が出来ていた。
硬質な、靴音が聞こえる。
野次馬たちや、それらを押し止める自警団『MA』の声にもかき消されることなく、一番会いたい男の足音がした。
群衆の中から、一人の男が団員たちに案内されて吐き出される。
痩せこけた男だった。
喪服を着て、その上に黒いコートを羽織っている。
「やあ、ミセス。久しぶりだ」
「……ええ、お久しぶり。ウィック・ハルバートさん」
トリッシュは、銃の持ち手の底で、己の太ももを軽く叩いた。
空気の抜ける音がして、トリッシュの大動脈に、ドラッグが流し込まれる。
「……はぁっ」
トリッシュが喘ぐように息を吸って、それから二度、全身を痙攣させた。
痩せぎすの身体が、わずかに膨らむ。
静脈が浮き上がり、顔はタトゥーを入れたように見えた。
ぎょろりと、赤い双瞳がウィックを捉えた。
「あなたが終わったら、次はその人たち……ふふ、うふふ」
トリッシュの呼吸が速く、鋭くなっていく。
沸騰を間近に控えた、水のようだった。
「……ミセス。君は全部を壊すつもりか?」
「ええ。ええ、そうよ。ウィック。すべて。あの人を奪ったすべて」
「そうか……羨ましい。君が、心底……」
「……?」
ウィックがコートを落とす。
脇の下に佩いたマチェットを二刀、引き抜く。
「俺は、壊されることを願っている。圧倒的な力で、ねじふせられて……俺の生など無意味だったと、彼女の元へ運んでくれるモノを待ち望んでいる」
「……なら、好都合ね。私が、あなたを奥さんのもとへ送ってあげる。大丈夫。お仲間もたくさん一緒に送ってあげるから。きっと寂しくないわ」
トリッシュが銃口をウィックに向けた。
ウィックは天を見上げ、重酸性雨を浴びる。
「“素晴らしい提案ね。ぜひ、お願いするわ”」
顔を再びトリッシュへ向けたとき、すでにウィックの顔は彼の妻であった“リオ”に変わっていた。
トリッシュの赤い双瞳が見開かれた。
自警団以外の人間はほとんど知らない。知っていても理解できない。
もしくは、それを見た者たちは全員カプセルの中だ。
もちろん例外はあるが。
ともかく、それはとても奇妙で、とても歪で、オカルトな光景だった。
この科学技術全盛の時代に。
シートを貼っているわけでもない。
それでも、首から上が別人だった。
「……なに、それ……」
トリッシュが言葉をこぼすのと、リオが駆けだすのはほぼ同時だった。
「あっ……!?」
違法ドラッグパックによって超強化された動体視力を持ってしても、リオは消えたように見えた。
それは直感だった。
トリッシュは引き金を絞った。
──いや、絞ったつもりだった。
「……え?」
血が噴き出していた。
指があった場所。銃を握っていたはずの場所。
そこから、血が噴き出していた。
硬質なものが落ちる音が耳に届くと共に、トリッシュは高速処理される知覚で自らの身に起こったことを理解した。
銃が落ちている。
トリッシュの指と共に。
Q.なぜ?
A.斬られたから。
Q.何に?
A.マチェットに。
Q.どうして?
A.トリッシュが、彼我の力の差を見誤っていたから。
「お悔やみ申し上げるわ、ミセス。“どうぞ、安らかに”」
耳元でリオの声がした。
首筋に刃先の冷たさを感じる。
悲鳴を上げようとして、トリッシュが息を吸ったその時だった。
「ひゅ……」
待って待って待って待って待って待って。
お願い待って、まだ何も始まってない。まだ何も成し遂げてない。そんなバカなことがあるわけない。だってそうでしょう。私には正当な権利がある。こんなにも私の権利を、尊厳を破壊したすべてを壊す権利が、義務が私にはあるはずなの。それなのにこんな結末なんて、信じられない。どうしてよ。なんて私からあの人を奪った男は亡くなった奥さんと会えるのに、どうしてあなたは会いに来てくれないの、ねぇ、リッター、ああ、ああ、嘘、嘘みたい、目の前にいる。どうして?私はまだ生きてるのに。これは夢?それとも。ああ、待って。私もすぐそこに行くから。おかしいわ。手が伸びないの。リッターこっちへ来て、足が動かないの。ねえ、リッター。私を愛して。またキスをして。お願い私からはいけないの。どうしてだかわからないけれど。ああ、待って。もう一度、私の名前を呼んで。ねえお願いリッター、リッター、リッター……私の、愛す……ひ……。
頭だけとなって地面を転がるトリッシュの瞳から、赤が消えた。
目元に当たった重酸性雨が涙のように目じりへと流れていく。
遅れて、頭を失った身体が雨に濡れる路上にくずおれた。
「また、死に損なったな」
ウィックが呟き、マチェットを腰に戻す。
リオはもういない。
“これ”が何なのか、ウィック自身にもわからない。
リオと会える、同調できる貴重な時間。
けれどそれは、とても、とても短い逢瀬だった。
団員たちがすぐさまやってきて、死体袋にトリッシュを入れていく。
一人がウィックにコートをかけ、軽く会釈をして他の団員に指示を出す。
「君はいつも、喜々として俺を手伝ってくれる。俺を殺そうとする連中に同意してくれる。けれど、死なせてはくれない……リオ……君に会いたいよ、リオ……」
ウィック・インソムニア・ハルバートの、隈の濃い瞳から、涙が一筋こぼれおちる。
それから、運ばれていくトリッシュの入った袋を見つめた。
「君が羨ましいよミセス。心の底からだ……」




