雨はまるで涙のように
「どうして、先に死んでしまったの」
狭く、寒々とした印象のマンション──住民たちから自嘲を込めてネズミの巣穴と呼ばれている──の一室に、かすれた声が小さくこぼれた。
「あなたが逝ったのは天国? それとも地獄?」
喪服を着て、顔を覆い隠すベールのついたトーク帽を被った女──トリッシュは、笑顔の夫が写るホロスタンドを眺めて呟き続ける。
「どうして一人で死んでしまったの。どうして私を残して死んでしまったの。一人にはしないと、言っていたじゃない」
トリッシュはもう何度目になるかわからない言葉をこぼす。
雨と同じく涙は枯れ果てず、アイシャドウが黒い水となって頬と顎を伝う。
「妬ましい。あなたのたった一つしかない死を、私以外に人間が奪ったことが……あぁっ、あぁああっ!」
トリッシュは慟哭し、抱えていた夫の遺灰入りカプセルを叩きつけるように投げた。
カプセルは床にバウンドし、硬い音を立てて転がっていく。
夫が死んでから掃除もろくにしていない。
埃だらけの中を、何度も叩きつけられて傷だらけになったカプセルが進んで、止まる。
「あなたは私だけのモノなのに。世界で一番愛している私が、あなたのすべてを、死を、自由にしていいはずだったのに」
トリッシュはホロスタンドを掴んだ。
力を入れすぎてフレームがミシリと音を立てた。
ホロがブレ、夫の隣に映ったトリッシュの笑顔が歪む。
「あぁっ! こんなのおかしい! おかしい! おかしい! おかしい! ひどいわ! こんなのってない! 私はただ愛する人のために生きていただけなのに! それなのにどうして私から奪っていくの! あぁっ、嫌ッ! こんなの嫌ッ!」
“いつものように”取り乱したトリッシュは、テーブルに並べた夫用の食事を手で振り払って落とす。
それからテーブルの中央に置いていた、団らんの場所には似つかわしくない大口径の拳銃を取った。
弾丸は装填されている。
トリッシュは銃口を口に咥え、撃鉄を上げた。
そして銃を大事そうに抱え、引き金に親指をかける。
あとほんの少しでも力を入れれば、夫と同じ場所にいける。
夫の死という一生で一度、取り返しのつかない事象を奪ったこんな世界になど、未練はない。
痩せぎすの身体がブルブルと震える。
恐怖ではない。
顔は恍惚に歪み、夫の元へ行けると本気で信じている。
──しかし、引き金を絞ることはできなかった。
トリッシュの金色の瞳が濁っていく。
今日も死ねなかった。
自分はなんて弱虫なんだろう。
夫をどれだけ愛していても、あの人のもとへ行きたいと思っていても、死ぬことすらできない。
引き金を絞る最後の一瞬を、必ず躊躇ってしまう。
「あぁ……どうして……」
トリッシュが銃を下ろし、そう呟いたときだった。
「未練があるからだよ、ミセス・トリッシュ」
「ひぃっ!?」
いきなり耳朶を揺らされ、トリッシュは身体をビクリと硬直させて震え上がった。
「だ、誰!?」
銃を構え直し、声のした方へ銃口を向ける。
しかしそこに“あった”のは、人型をした影だった。
不気味だった。濃淡のない黒い物質。
こんなにも濃く、闇そのものみたいな影はおかしい。
薄暗いとはいえ、ライトはちゃんと点いているのに。
ここがラットケイブと呼ばれていても、こんな洞窟の奥底を覗き込んだような影があるはずがない。
「大丈夫。僕は敵じゃないよ、ミセス・トリッシュ」
「誰? 誰なの……?」
「怖がらないで。僕は君が死ねない理由を知っている」
「……え?」
大丈夫。
怖がらないで。
そんなことを言われて、安易に銃を下ろすバカはいない。
特にこの都市で、女一人で暮らしているならば。
けれどもなぜか、トリッシュはその影の声に毒気を抜かれたように、銃口を下げてしまった。
銃は握ったままであるものの、今さら目の前の影に発砲しようとは思わない。
いや、本能、理性、どちらかで気づいているのかもしれない。
“こいつ”を撃っても意味はない、と。
「落ち着いた? ミセス」
「……ええ」
数秒、影を睨んだあと、トリッシュは仕方なく銃をテーブルに置いた。
奇妙なことになったと嘆息しながら、視線を影に戻す。
「あなたは、どうやってここに……いえ、そうじゃない。もう一度聞くわ。あなたは誰なの?」
「僕? 僕は……“都市の幽霊”。気軽にゴーストと呼んでくれればいいよ」
「幽霊……? ふっ、ふふ……どうせなら、夫が出て来てくれればよかったのに」
「旦那さんについては、お悔やみ申し上げるよ。でもね、ミセス。あなたが死ねない理由、その旦那さんなんだ」
「……どういうこと?」
死ねないのはありきたりな理由だと、トリッシュは考えている。
結局は命を失うことが怖い。
自分はそんな弱虫だから、死ぬことができないだけ。
そうだと思っていたし、今も思っている。
夫に逢うことを躊躇う弱虫未亡人。
「さっきも言ったけど、あなたには未練がある。それは何か」
ゴーストがゆらゆらと揺れる。
腕を上げて、その上に細い影が立つ。
人差し指を上げたのだと、少し考えてから理解した。
「あなたは死にたい。でも死ねない。なぜか。あなたにとって何よりも大事で尊い、旦那さんの死を奪ったものたちがまだ生きているから」
「あ……」
ゴーストの言葉に、トリッシュは今まで全身に、目の前に、渦巻いていた黒煙のような考えがストンと腑に落ちる感覚を得た。
「つまりあなたは旦那さんが所属していた組織、自警団『MA』に死を奪われた。彼は残念ながら殉死してしまった。凶悪な殺人鬼に殺されてしまった」
「…………」
トリッシュの脳裏に夫の死にざまが浮かぶ。
顔も身体もぐちゃぐちゃになった死体。
悔やむ言葉を口にしていた、団長たち幹部の顔。
「でも、それもこれもあなたの旦那さんをスカウトし、そして死地に赴かせた自警団のせいでは? 命令した者、旦那さんの犠牲で生き残った者、その死を間近で見た者」
ゴーストはそこで一度言葉を区切った。
トリッシュは口を挟まない。
頭の中で、ざわざわと考えが巡っていく。
「凶悪犯は死んでしまった。ではあなたのその感情をぶつける相手は誰だろう? あなたの燻った未練を完全燃焼させるのに必要なのは? どうしたら清々しく、旦那さんのもとへ逝けるだろう」
「…………」
「ねえ、ミセス。古い言葉を一つ、あなたに贈ろう」
トリッシュはその一瞬、考えを切ってゴーストを見た。
真正面から真っ黒な闇のような影を見据えた。
「賽は投げられた」
ゴーストが笑ったような気がした。
次の瞬間、窓ガラスに何かが当たる音がしてトリッシュはそこに意識を奪われた。
視線を戻したときにはもう、影は形も痕跡すらも残さず消えていた。
「…………賽は投げられた」
トリッシュはゴーストが最後に口にした言葉を繰り返し、窓に向かう。
ネズミの巣穴のベランダとも呼べない極小のスペースに小型のドローンが落ちていた。
片道用で、簡易プラで出来ているボディは重酸性雨で溶け始めている。
ドローンが運んできたボックスを取り、中身を取り出す。
入っていたのは小分けにされた液状のドラッグパックと、手のひらに収まるほど小さな箱型の注射器だった。
目算で10回分。
明らかな違法薬物だったが、トリッシュは自分がすぐにこのドラッグパックを体内に入れるだろうと確信していた。
そしてその効力にも、予想がついている。
間違っているなら、そのときはそのときだ。
開けっ放しになっていた窓から雨が吹き込んでくる。
けれどトリッシュは気にせず、ドラッグパックを見つめたまま、ゴーストの言葉を反芻していた。
「……私ね、あなたに殺してほしかったの。そしてあなたを殺したかった。あなたは冗談だといつも笑っていたけど、私は本気だったの。だから、だからね、私からあなたを奪った奴らが許せないの。直接だとしても、間接だとしても」
トリッシュは液状のドラッグパックを注射器に注入。
それから四角い形状を手で包むように掴み、左腕の静脈に向けて押し付ける。
「……ッ」
ブシュッ、と空気が抜けて、飛び出した極小の針がトリッシュの血管に刺さる。
ドラッグパックが、体内に注ぎ込まれていく。
「ねえ、あなたは笑ってくれるかしら。あの優しい笑顔で。困ったような笑顔で。本気だったんだねって、私の行動を笑ってくれるかしら。うふふ、楽しみ。あなたに逢える日が。すべてが終わって、終わ、わ……ふ、うふふ、ふ、う、う」
トリッシュの痩せぎすな肉体が痙攣し始める。
受け身を取ることすらできずに床に倒れ、四肢が勝手に暴れ、指先が電気を流されたみたいにビクンッ、ビクンッ、と曲がりくねる。
「さ、ささ、賽は……ふふ、なげ、な、投げられた……の……うふ、う、あ、はは、あぁ、は、は、は……」
―・-・-・-・-
「大人しくしろ!」
「離せコラッ! 触るんじゃねぇ! ぶっ殺すぞ! クソ自警団!」
雨の降る夜。
大通りの喧騒から離れた路地裏で、一人の男が自警団によって濡れた地面に押さえつけられていた。
男が往生際悪く暴れるから、自警団員の二人もところどころが濡れている。
男はCランクエリアにあるダイナーで強盗。
そして逃走中に道で客引きをしていた娼婦を襲撃。
犯そうとしていたところで自警団に見つかった。
必死の逃亡も虚しく、男はすぐに捕まった。
娼婦のほうも女性団員が保護していた。一時的に自警団の支援施設で預かり、手当てされることだろう。
もちろん暴行した本人と一緒にするわけには行かないので、女性団員と共に先に施設へ向かわせている。
「テメェよりはマシだよ、クソ犯罪者が!」
「げぉっ!?」
男の背中に膝を置いて押さえていた団員が、男の横っ面を殴りつける。
生きるための仕方ない盗みなら大目に見るが、女性を襲った時点でアウトだ。
こういう手合いに、自警団は容赦しない。
超攻撃的自警団『MA』。
その容赦のなさは、犯罪者たちを震え上がらせる。
「や、やめろコラッ! てめぇら警察じゃねえんだろう! 何の権利があってこんな暴力を、げぐっ!?」
もう一人の団員が男の脇腹を蹴る。
男は息が出来ず、ヒキガエルみたいな声を漏らして必死に呼吸した。
「警察のほうがマシだろうな。お前の言う権利を一応は尊重するだろうし」
「だが残念。俺たちはクソ自警団だからよ。お前みたいなのに暴力を使うこと、躊躇わないぜ」
背を押さえた団員がもう一度拳を振り上げる。
「ひっ、許して! ま、待って! わかった! 謝る、謝るから……」
男がそう命乞いをし始めたときだった。
「当たり所が悪ければ、死にますよ。その人」
路地裏に、かすれた女の声がした。
三人の視線が声のしたほうに注がれる。
そこに立っていたのは、痩せぎすの、喪服姿の女だった。
「……誰だ? あんた……」
「ここは危険ですよ、お姉さん。見ててあげるから、さっさと大通りに……って、あれ?」
立っていた団員がその姿に眉をひそめる。
「どうした?」
「いや、この人……リッターさんの奥さんじゃ……」
「……え?」
「あら、夫を知ってるんですね」
喪服姿の未亡人、トリッシュがベール越しにニコリと微笑んだ。唇が割れて、血が滲んでいる。
アイメイクに見えたものが、隈だと気づくのにも、さほど時間はかからなかった。
雨の中、傘も透明迷彩合羽も着ずに立つ未亡人。
その異様さに、犯罪者の男すらも、言葉を出せずにいた。
「嬉しい。夫の最期、見た人ですか?」
トリッシュがゆっくり、三人に近づいてくる。
顔を見合わせた団員二人だったが、立っているほうが小さく息を吐いた。
「見てないです。でも、俺はリッターさんを尊敬している一人です。あの人は情に厚くて俺みたいな新米を可愛がって……」
「そう。あなたは?」
トリッシュは興味なさげに言って、男を押さえている団員に訊いた。
「俺は、その、実は……リッターさんが最後に出かけていくとき見送った一人です。今でも、ついていけばよかったと後悔してます。ただ、リッターさんの意志はちゃんと俺たちに受け継がれていて……」
「あら、そうなの」
トリッシュは団員の言葉に微笑んで、それから大口径の銃を二丁、取り出した。
銃口は団員二人に向けられている。
突然のことに対応できていない二人に、トリッシュは何の容赦も躊躇いもなく、引き金を絞った。
獣の慟哭のような銃声が、路地裏を揺らす。
「あ……」
「えぅ……?」
立っていた団員の左胸が弾け飛んだ。
押さえていた団員の頭部と顔が半壊する。
どしゃり、と屈強な団員二人はともに地面に倒れた。
即死だった。
「そうね。あなたが死ねばよかったのに。代わりに。あの人の代わりに。ふふ」
トリッシュは死体を見下ろし、微笑んだ。
「あ、あぁ……ひ、ひぃ……」
押さえられていた男が死体の重みから這いずるように抜け出してくる。
「あらあら、どこへ行くの? そんな恰好じゃ汚れちゃうわ」
「ひ、ひぃいいっ! ば、バケモノ!!」
男は顔を近寄せてきたトリッシュの顔を見て悲鳴を上げた。
トリッシュの瞳は赤に染まっていた。
グラデーションはない。瞳孔も見えない。
ただひたすらの赤。悪魔のような瞳だった。
「でもね、私いいこと知ってるわ。それさえ私に捧げてくれれば、もう困ることはないの。汚れも、自分の欲望を抑えられないことも。うふふふふ」
「助け……助けて……た」
獣の慟哭が響いた。
トリッシュは三つの死体が生まれた路地を厳かに歩く。
墓地へ向かう葬列の先頭を歩くように。




