雨は隠してくれる。些細なことも、重大なことも。
雨が降っている。
数メートル先、汚れた地面を雨滴が叩く。
ゴミ捨て場。
大量のゴミ袋をベッドにしたホームレスのタテオカは、酒の瓶を傾けて雨を眺めていた。
黒と灰の混じった髪は頭に張り付いて、濁った眼は何が楽しいのか細められている。
ボロボロの服を、ボロボロのコートで覆い、お手製のベッドに寝そべったタテオカの頭上に雨は降らない。
違法建築のためにせり出した建物の一部が、彼と明日には回収されるゴミの山を守っていた。
「おい」
「んぁ?」
通路の向こう、通り側から声をかけられて間抜けな返事をする。
近づいてくるのは黒い仮面に赤い字で『MA』と刻印された男だった。
「大丈夫か、あんた」
「……ああ、大丈夫も大丈夫。俺はここで気ままに酒飲んで楽しく生きてるだけさ」
酒瓶を掲げて見せると、MAの構成員は足を止めて肩をすくめる。
「なあ、うちで──自警団でやってる支援施設がある。困窮してるなら面倒を見てやれると思うがどうだ」
「勘弁してくれ。俺はそんなのいいんだ。この生活が性に合ってるのさ」
「……そうか。まあ、気が向いたら来てくれ」
「……ああ」
タテオカは瓶に口をつけてグッと呷る。
それから踵を返したMAの構成員に向けて瓶を掲げる。
「心配してくれてありがとよ、兄さん」
言うと、男は左手を軽く上げて応じた。
タテオカは嬉しくなって口角を上げると、もう一度酒を口に含んだ。
「殺さないんだね」
そこへ、声と共に黒い影が割り込んできた。
タテオカはすぐには答えず「へへ」と笑って再び酒を呷る。
「そんなバカスカ殺したりしねぇよぉ。人を殺人鬼みたいに」
「現に何人も殺してるじゃないか。君が寝床にしているいくつかのゴミ袋の中身は──」
「俺がお仕事をするのは金になるからだ。こいつらがゴミ袋に詰められたとき、ちょうど俺は酒を買う金を切らしていた。そしてちょっと掃除をすれば日銭を稼げた。ただそれだけのことさ」
「君が飲んでる酒、相当高いよね。一般的な殺人──掃除の給金じゃとても捻出できないくらい」
タテオカが瓶の首を掴んで左右に振る。
ちゃぽちゃぽ、と残り僅かであることを音が示す。
「そうさ。俺は酒代が欲しい。しかし今の兄ちゃんを殺しても、一銭にもならんだろう。いや、財布を抜けば多少の金を持ってるかもしれんが。生体IDだったらアウトだ。面倒くさい」
「それぐらいなら、代わりに抜き出してあげることもできるよ?」
「いい、いい。そもそも、今からあの兄ちゃんを追っかけて殺すのも面倒だし、変だ。まるで恨みや依頼があったみたいだろ」
タテオカは本当に面倒くさそうに首を振って、「あー」っと口を開けて残りの酒を流し込む。
その僅かな容量で、Cランクエリアの住人30人ほどの一週間が楽に買える。
特別に高いわけではない。金持ち連中にとってはむしろスタンダードな酒。
タテオカが飲んでいる酒はそういった類のモノだった。
「俺は酒代さえあればいい。怠け者なんだよ」
「じゃあ、彼らを一人殺すごとに賞金が出たら?」
「はした金ならいらんぜ。……いくらだ?」
「一人1万$」
「おっほほ」
ゴーストの提示した額に、タテオカは思わず笑ってしまった。それなら一人殺すだけで酒が半瓶手に入る。
「条件が良すぎるな。幹部じゃなくてもいいんだろう? あの兄ちゃんはそこまで強そうに見えなかったぜ」
「金は彼ら自身から奪う。あの組織は最近拡大傾向にあってね。資金源もいくつか増やしたらしい」
「……あー、なるほど。そういうヤツ」
「嫌いかい?」
「いや、少し肩透かしだっただけだ」
「肩透かし?」
「お前さんが出してくれるのかと思ったぜ、ゴースト」
タテオカの言葉に、ゴーストが揺れた。
笑ったのか、動揺したのかは判別がつかない。
「お前さんとは短い付き合いだが、金を出すなら自分で出す。そういうタイプだと思った。だから意外だった。それだけさ」
「僕が出すと決めていたら、君はさっきの男を殺した?」
「金が貰えるとわかっていたら当然だ。たとえ出どころがお前さんじゃなくてもな」
タテオカはさっきゴミ袋を漁って拾っておいたつまみの袋を取り出す。スルメを口に咥えて、視界の端に立つゴーストを正面に捉える。
「彼らは……現金を運ぶ」
「ん?」
ゴーストが雨の中を歩く。
左右に行ったり来たり。
「巨額を、自分たちの本部の金庫に入れるつもりだ」
「……てことはまだ、その金は別の場所にある」
「運ぶ車と時間を教えるよ。あとはどうするのか、それは君次第かな、ミスター・タテオカ」
「同じ質問になってすまんな。なんで自分でやらない?」
ゴーストが立ち止まり、首を傾げる。
それから両手を広げて、至極当然のことみたいに言う。
「それはほら、だって僕“幽霊”だから」
「……ふふふ、現世に干渉できないってことか。これだけ干渉してるのに」
「そういうこと……かな」
下手なごまかしだ。と、タテオカは感じた。
けれど同時に、“本当”のことかもな。とも思えた。
ゴーストが現れてから、世界は日に日に面白くなっているように思えた。
彼、もしくは彼女にどんな目的があるのかわからない。
けれども酒代を捻出する方法を一緒に考えてくれるモノに、悪いヤツはいない。
タテオカは勝手にそんなことを考えている。
「今、殺したら1万$を振り込んでくれるか?」
タテオカが言うと、ゴーストは困ったように──タテオカにはそう見えた──頭を斜めに傾いだ。
「だからそれは無理だよ」
「じゃあ、俺からお前さんに1万$の貸しだ」
「えぇ?」
ゴーストが本気で戸惑っている。
タテオカは右頬だけを持ち上げてゴミ袋のベッドから起き上がる。
首を左右に傾けて、ゴキッ、ゴキッ、と音を鳴らす。
それから簡単にストレッチをして、コートを頭に被るようにして雨の中へ出た。
タテオカは雨の中を小走りに進んだ。
探していた目標はすぐに見つけた。
「おーい、お兄ちゃん。ちょっと待ってくれ」
「はい? あれ、あんたは……」
振り返ったのはMAの構成員。
先ほどタテオカに支援施設の案内をした男だった。
「落としもんだ。不用心だな。俺じゃなかったら、盗まれるところだったぜ」
「落とし物?」
心当たりがないという雰囲気の構成員。
当たり前だ。落とし物なんかしていない。
走ってくる間に通りに人がほぼ皆無なのは確認済み。
この辺りはホームレスのねぐらになっているぐらいだから、監視カメラも少ない。
今、男を止めたこの場所も“死角”だ。
「そうそう。人を疑う心。なんちゃってな」
「は……? ぃうっ……!?」
タテオカが右手を振ると、手品のようにいつの間にか握られていたナイフが男の喉を切った。
血が噴き出す。
男が慌てて両手で自らの首を押さえる。
タテオカはナイフを逆手に持ち、素早く手首をサクッ、サクッ、と切る。
男が痛みに呻く間に、両太ももの太い血管をカット。
「……ッ!??!」
ナイフを順手に持ち替えて、心臓と肺、みぞおちをサクサクサクッと計十回ほど突き刺していく。
男が声にならない声をあげて地面に倒れる。
あとはもがきながら死んでいくのを眺めるだけ。
暴れれば暴れるほどいい。
血抜きが楽になる。血は重酸性雨が勝手に洗い流してくれる。
「…………」
うつ伏せのまま、ぴくりともしなくなった男を眺める。
防水用の透明迷彩だろう。前面から血を流しながら、背中側では雨を弾く様がなんとも奇妙で美しかった。
「……いいなぁ、これ」
タテオカはそんなことを呟いて、血抜きが終わった男を軽々と持ち上げた。
──また一人団員が消えた。
自警団内で捜索が始まるも、ついに男は見つけられなかった。
誰も気づかない。気づけるわけもない。
とある路地裏に、ゴミ袋が一つ追加されていることなど。




