FE編・5th.死神の鎌は探偵の首に沿う
雨が降っている。
重酸性雨だ。
ワイヤードは耐酸性の傘を差して、ブロイラー・テッドが捕まった現場へとやってきていた。
雨によって下水溝に流されていく汚いものを眺めながら、犯行の痕はほとんど残っていないことに小さくため息を吐く。
フルオール署のミラー警部と別れてから八時間ほどだろうか。犯行現場を駆けずり回り、金を掴ませては情報を提供させた。
けれどどの話も空振り。
偶然撮られていた映像のどこにも、犯人らしき姿はなかった。
ここが最後の地だ。
映像の提供を求めて付近の店を回る前に、現場に来た。
「フェイスイーターはCランクの有名人だった。しばらく鳴りを潜めていたのに、この3か月で5件も事件を起こしている。それもBランクで」
言ってしまってはなんだが、Cランクで殺人を続けていたなら、こうしてワイヤードのような人間が捜査に出ることもなかっただろう。よほど高額の依頼でもなければ。
それがBランクで事件を起こしたものだから、警察にも追われる羽目になっている。
犯人が捕まったことで情報統制が緩んだ。
そうじゃなければ、超攻撃的自警団『MA』が出張っていたはずだ。
「MAのような人間を恐れた? あとは企業か。警察ではないだろう。だから事件に無理やり幕引きした?」
ワイヤードは右手の指をこめかみに当てる。
そして数度叩いて、情報を整理していたときだった。
「お、お……おい、兄さん……」
しわがれた声に呼ばれ振り返る。
雨の中、傘も差さずに立っていたのは、ボロをまとった老人だった。
「あ、あ、あんた……スナッフデータに、き、きき、興味はない、か?」
「……なんだって?」
「だから、スナッフデータさ。殺人だよ。殺人の映像があるんだ……それも、あ、あ、あのフェイスイーターのさ」
「見せろッ!!」
ワイヤードが詰め寄ると、老人は両手を前に出してそれ以上の接近を押しとどめた。
「か、かか、金だ。5000……い、いや10000で、ど、どうだ?」
「……J$か?」
「あ、ああ……どうだ?」
「払おう。だから映像を見せてくれ」
ワイヤードが懐から1万J$を出すと、老人はそれをサッと奪って、代わりに自らの左目を取った。
ワイヤードが微かに驚きを見せると、老人は少ない歯をむき出しにして笑う。
「えっえっえっ……ここさ、ここにデータが入ってる」
老人は目玉の裏からデータチップを抜き取ると、ワイヤードに手渡す。ぬろっとした感触は不快だったが、ワイヤードはすぐに自らの端末に差し込んだ。
「…………これは……」
サイバーグラスにすぐさま映像が走った。
暗い路地。老人の息遣いに合わせて視界が揺れる。
一人の男が壁に押し付けられ、首を絞められてもがいている。
片手で成人男性を持ち上げる相手の男は、灰色の髪をしていた。
キュッ──とピントが絞られ、首を絞めている男の顔がアップになる。
見覚えがある男だった。
警察とそれなりに懇意にしているワイヤードだ。
“警察組織の人間”の顔を知っておいて、損はない。
それは、本部長ピグマ・アロンソだった。
「……うっ」
映像の中でピグマが男の顔の皮を剥いでいく。
痛みで痙攣する男は、やがて失禁して絶命する。
首の骨を折られたのだ。
血の滴りと、皮が無理やりに剥がされていく画。
顔を陥没させられ、指が引きちぎられていく。
そして最後にピグマはコートから取り出したシートを男の顔に丁寧に張り付ける。
そして端末で何か作業をしてから、男の顔を乱暴にポケットにしまって立ち去っていく。
間違いなく、犯行の現場だった。
これは証拠になる。それも決定的な。
ワイヤードは映像を切り、老人に礼を言おうとした。
そこで初めて、目の前の老人の“顔の皮膚が剥がれている”ことに気づいた。
「……ッ!?」
思わず飛びのく。
同時に老人がぐらりと態勢を崩し、前のめりに倒れた。
汚い路地に、ばしゃりと重酸性雨が飛び散る。
「迂闊だったなぁ。まさか見てる人間がいるなんて。私もまだまだ詰めが甘い」
倒れた老人の後ろに立っていたのは、映像の中の男──。
「ピグマ・アロンソ……本部長」
ダークグレーのストライプスーツに身を包んだ痩せぎすの長身、ピグマ・アロンソだった。
ピグマはグラブを填めた手を振って何かを捨てる。
びちゃりと音を立てて落ちたそれは、老人の顔の皮だった。
「やれやれ。犯人は捕まった。それでいいじゃないか。そうは思わないか? 元警察の探偵くん」
ピグマはこの重酸性雨の中、傘も差していない。
濡れた灰色の髪をかき上げて、鋭い視線をワイヤードに向ける。
「……真犯人は捕まっていない。あなたのことだ、本部長」
「それは世の中に出回らない、存在しない真実だ。君も忘れたほうがいい。でないと……」
「その老人のようになると?」
ピグマの視線が倒れた老人に向く。
そのわずかな隙、ワイヤードはコートの内側から銃を取り出そうとした。
けれど──。
「目に見えるものだけが真実ではない。もっとも、この都市では、真実なんて嘘で塗り固められる」
「なッ……!?」
銃を向けた先にピグマはいなかった。
声は、背後から聞こえてきた。
振り返ると、そこにピグマはいた。けれど、雨に打たれて姿が“ぶれる”。
「君は悪いヤツだな、探偵くん。公権力など企業のそれに比べればクソみたいな状況とはいえ、警察高官に銃を向けるなど」
次は横から、しかし視線を向けたときにはもういない。
円を描くように、グルグルと声のする場所が変わる。
「現場の警官ではないとはいえ、私も一応逮捕権は持っているのでね。悪党は逮捕しなければ」
声が消える。気配さえも。
と、思った次の瞬間。
「ね?」
ピグマは目の前にいた。
「くっ!?」
「遅い」
突き付けた銃口は左手のひらで横にいなされ、反射的に絞った引き金は、しかし撃鉄を右手で掴まれ止められる。
ピグマの口角が上がった。
刹那、脇腹に衝撃を浴びてワイヤードは壁に吹っ飛ぶ。
「ごぁっ!?」
傘も帽子も吹っ飛んだ。
身体が濡れる。皮膚がピリピリと痛む。
「少しは鍛えてるようだね」
片足を上げたままのピグマが言う。
蹴られたのだとワイヤードが認識し、壁に手をつけ立ち上がると同時、またもやピグマが目の前にいた。
「ふっ!」
「おごっ」
ボクサーの前面ガードのような形で顔と上半身を守ったが、ピグマの拳はガードを潜り抜けてみぞおちに突き刺さった。
「だが、如何せん実戦が少ないな」
「かっ……?!」
くの字になったワイヤードのこめかみに左フックが叩き込まれる。
また壁に叩きつけられたワイヤードは、立っていられずにズリズリとくずおれていく。
「もう終わりかな、探偵くん」
「かっ……は、あがっ、がっ……」
ピグマがワイヤードの首を片手で掴み、壁に押しつけて吊り上げる。
痩せぎすな男のどこにそんな力があるのか。
ワイヤードはピグマの手首を掴み、足を必死に振って蹴りつけるがびくともしない。
まるで鉄柱でも蹴っているようだ。
「……君は、なかなかいい顔立ちをしている。羨ましい」
「ぐがっ、げ、う……」
手に力が入ると、つま先がピンッと下を向く。
勝手に舌が出て来て、目が充血する。顔に当たる重酸性雨が皮膚を薄く焼いていく。
「私の顔はね、母の理想とするものではなかった。私はどんな顔に生まれてきたらよかったと思う? あの人は、もう同じ言葉しか繰り返せない。答えがわからない。残念だ。本当に辛い。でも一つだけよかったことがあるんだ」
「……か、が……」
ビクッ、ビクッ、と痙攣する。
せめてデータをミラー警部にと思うが、引き攣った筋肉が掴んだ手首から離れてくれない。
「君たちみたいな母から顔をなじられたことがないような男の皮を剥がすことがいかに楽しいか。それを知れたことが嬉しい」
「ぎぅッ……いッ、あッ……!」
空いていた片手がワイヤードの目じりと頬の間を抓る。
あまりの激痛にワイヤードは身体を激しく痙攣させた。
終わりは近い。
意識を手放したい。
けれど痛みがそれを許してはくれない。
涙が出てくる。
口から血の混じった泡を噴く。
誰か、誰か、助けてくれ。
そうじゃなければ、一刻も早く終わらせてくれ。
ワイヤードがそう願ったときだった。
「おいたはそこまでだ。坊や」
ピグマが声の方を向く。
遅れてワイヤードも、視線だけでそちらを見る。
そこには、一人の男が立っていた。
ボーラーハットにトレンチコート、ダークグレーのくたびれたスーツ。
透明の傘で雨を受け止める男の顔には皺が刻まれていた。
「……誰だ、お前は?」
ピグマが訊くと、男は何も持っていない方の手を突き出す。
そこからパッと、大振りの銃が“出現”した。
そして男は、何の躊躇いも逡巡もなく、引き金を絞った。
「……ッ!?」
肩を撃たれ、抉られたピグマが半回転で吹っ飛ぶ。
解放されたワイヤードが地面にべしゃりと尻から落ちた。
その様子を見てから、男はゆっくりと銃を下ろす。
「俺かい? 名はチェナロ。しがない探偵だよ」




