FE編・1st.哀れなブロイラーと都合のいい名探偵
フェイス・イーター。
顔を抉り取り、その上にホログラム加工をして、ただ寝ているように見せる、イカれた殺人鬼。
指は切り取るのに、市民IDは放置する。
異常で、不可思議な犯罪者。
その人物として逮捕されたのは、Bランクエリアの平凡な労働者テッドだ。
「僕はどうして……なんてバカなんだ……うぅ、うぅううッ」
テッドはフルオール署の地下にある古臭い檻の独房で、一人ベッドに丸まっていた。
ベッドといっても足のついた木の板。その上に薄いシーツが敷いてあるだけ。毛布も寒さをまったくしのげない粗末な代物だった。なにより臭い。
それでもテッドはその毛布を噛み、自分の不運をひたすら呪った。
唸り、身体を強張らせ、じっとりと嫌な汗をかく。
横柄で暴力的な警官に捕まり、収監されてから数日。
抵抗できたのは最初の数分だけ。
何度も電気警棒で痛めつけられたテッドは、唸ることしかできなかった。
「僕じゃない。僕じゃないんだ。くそっ、僕はどうしてこんなに間抜けなんだ」
その声は誰にも届かない。
独房は他にもあるが、誰も入っていない。
この地下にいるのはゴキブリ、ムカデ、ネズミ、便所バエ、そしてテッドだけだった。
「僕は、ちゃんと生きてたじゃないか。文句だって言わない。不満だってなかった。ちゃんと、市民としてちゃんと……」
型落ちのARゴーグルで満足できる。
ブロイラーとしての一生に満足できる。
市民として真っ当に生きる。
何も悪いことだってしていない。
なのに。
「何度来てもここは臭うな」
「……ッ!?」
不意に自分以外の声が聞こえ、テッドは緊張していた身体をビクンッと跳ねさせた。
警官がまた自分をいたぶりに来たのかと思った。
しかしその声に覚えはなかった。
毛布をそっと下ろし、檻の向こう側に視線を投げる。
「よぉ、こんにちは。哀れな労働者くん」
そこにいたのはボーラーハットにトレンチコート、ダークグレーのくたびれたスーツ姿の男だった。
顔に刻まれた皺は老人を思わせるが、その立ち方はテッドがこれまで見たどの人物よりも力強い。
「……あ、あなた、は……?」
数日、誰ともしゃべっていない。
それだけで人は言葉を話すことにも苦労する。
独り言をどれだけ繰り返していたとしてもだ。
「俺かい? チェナロ。しがない探偵をやっている。隠居していたんだが、とあるヤツにせがまれてね」
「探偵さんが、どうしてここに……」
「たまたまさ。俺を無理やり復帰させたヤツがいて、そこに君の事件があった。もう少し前なら、もう少し後なら、俺はここには来ていない。すべては偶然だよ。都合のいい、な」
テッドには理解できなかった。
けむに巻くような話し方だった。
「それで? フェイスイーター。君はどうしてこんな事件を起こした?」
「ぼ、僕じゃないッ……僕は、やって、ない……あ」
テッドは思わず反発したあとで、ビクッと身体を震わせる。
反抗すると電流警棒で打たれる。その記憶がテッドを反応させた。
しかし電流も、殴られる痛みもなかった。
探偵を自称する老人、チェナロが浮かべていたのは侮蔑でも嘲笑でも、嫌悪でもない。
穏やかな笑みだった。
「だろうな」
「……え?」
「そんなことは知っている。ただの確認だ」
チェナロは「悪いね」と言って、コートの内側から葉巻を一本取り出し、吸い口をカット。火を点けて吸い始める。
「テッド。Bランクエリアのベッドタウン生まれ。平凡な生活。成績。親と同じように工場の労働者となった君は、ある日不幸のどん底に落とされる」
チェナロが葉巻を持った手で床を指さす。
「ここだ。猟奇殺人鬼フェイスイーターの濡れ衣を着せられて、ここで生涯を終えようとしている」
「……え? 生涯って……」
「当然だ。フェイスイーターは連続殺人鬼だからな。死刑は免れん」
死刑。
その言葉にテッドの心臓が大きく跳ねた。
「ま、待って……待ってください。そんな、僕は、僕は死ぬんですか?」
「ああ、死ぬ。このままならな」
「ど、どうにか……どうにかならないんですか」
テッドはベッドから転げ落ちた。
這いずるようにチェナロの元へ向かい、鉄格子を掴む。
冷たい鉄格子と錆び、それから葉巻のビターな匂い。
「なる。どうにかはなる」
「……ほ、本当ですか? ど、どうすれば」
「まあ、落ち着け」
チェナロは葉巻をもう一口吸う。
そして葉巻の煙をテッドに吹きかける。
テッドが思わず顔をしかめ、顔の前を手で払うと、チェナロは薄く口角を上げる。悪魔のような笑みだった。
「その前に質問がある。テッド。大事な質問だ」
チェナロの瞳に真剣さが宿る。
飄々とした態度が抜けていた。
その迫力に気圧され、テッドはたまらず一歩、あとずさった。
「助かりたいか? それともこのまま朽ちてもいいと考えているか?」
「そ、それはもちろん助かりたいです」
即答するテッドに、チェナロはゆるく首を振った。
「そうじゃない。お前さんはもう詰んでる。助かれば、つまりここを出れば警察に追われる生活になるだろう。普通に生きてきた君にはとても怖い生活だ。一瞬も気が休まらない。そして誰も正解など教えてくれない。そんな世界でもここを出て、生きていたいと思うのか?」
「…………」
今度は即答できなかった。
そんなこと、考えもしなかった。
「ある意味、安寧だよ。詰んでるんだ。無実の罪だとしてもここで死んでしまったほうが、楽にはなれる。もう何も考えなくていい。そういう意味で、ここでこのまま朽ちてもいいか。そう聞いている」
テッドは顔を歪めた。
鉛を飲まされたような気分だった。
「その上で聞く、テッド。君は理不尽多きこの世界で生きたいか? それともこんな辛い現実なんて忘れて楽になるか?」
「…………」
即答できない。息すら、満足に吐き出せない。
「僕、は……」
考える。想像する。警察から逃げる自分を。
警察に追われ、いつか捕まり、様々な方法で痛めつけられる自分を。
ここを出なかった自分も想像する。痛めつけられるのは変わらない。
独房でずっと一人。大したことのない人生。
銃殺? 絞首? それとも毒殺? 電気椅子?
どれにしたってロクなものじゃない。
詰んでいる。
いきなりやってきた老人、チェナロの言葉が重くのしかかる。
「なんで……なんで僕なんですか……」
頭が焼き切れそうだった。
だからテッドは、逆に訊いた。
「たまたまだ。すべて偶然だ。俺がここへ偶然やってきたように、君が捕まったのもまた偶然だ。たまたま君が現場にいた。犯人に利用された。誰かが通りかかるのをずっと見ていた」
その言葉に、テッドはビクッと反応する。
「そ、そうだ! 誰かが僕を見ていた。灰色の髪をした男……」
チェナロが少し驚いたように目を開く。
「そいつを見たのか?」
「はい。連行される僕を見て、笑っていた人がいたんです。路地の奥で。僕が逃げようとした路地の奥に、そいつがいたんです」
「なら、そいつが犯人かもな」
「その人を捕まえれば……」
チェナロはそこで首を振った。
「意味はない。もう証拠は揃った。捏造だろうとそれで決まりだ。真犯人が捕まる頃には君は死んでる。殺されてる。そういう筋書きだ」
「そんな……どうして、僕は普通に生きていただけなのに! 理不尽じゃないですか!」
テッドはこれまでの人生の中で、一番激高した。
声を荒げることもしたことがないから、裏返った。
悲鳴のような叫びだった。
チェナロは、その慟哭を慣れたものを見るように受け流した。
「そう。理不尽だ。ここを出たら君が生きていく世界でよくあることだ」
理不尽が終わっても、また理不尽。
終わりがない。
そこでようやく、テッドは本当の意味で気づいた。
自分にはもう、足掻いて生きるか、諦めて死ぬか。
本当にその二択しかないことに。
「さあ、どうする?」
その思考に至ると同時、チェナロの言葉が響く。
神の啓示のように。審判のように。宣託のように。
選ばなければいけない。
怖い。恐ろしい。手が震える。歯の根がかみ合わない。
それでもテッドは思った。
心の中で強く、強く思った。
生きたい、と。
テッドは顔を上げた。
そして、チェナロを見た。
「僕は、生きたい。助かりたい。理不尽でも、もうただのブロイラーに戻れないとしても……」
テッドの言葉に、チェナロは口角を上げて答えた。
「いいだろう。生きたい意思は大事だ。助け方が変わる」
チェナロはそう言って、葉巻を捨てて独房の中に手を入れてテッドと握手をする。
「いッ……!?」
チクリと、何かが手のひらに刺さった。
それはチェナロのグローブから出ている針だった。
「契約成立だ。君を必ず助けようテッド。時期になれば、君はここを出る」
テッドが痛む手のひらを見ている間に、そう言い残してチェナロが消えた。
目を離したのはほんの一瞬だったのに、足音すらもう聞こえなかった。
「あれ……?」
直後、ぐらりと身体が揺れる。
テッドはそのままフラフラとベッドに向かい、倒れ込む。
そしてそのまま、瞼が閉じられていく。
遅効性の煙と即効性の針。
どちらも人を深く眠らせるものだった。
その日、テッドは数日ぶりによく眠った。
起きたときも、チェナロとの邂逅は夢だったのかと思うほどだったが、手の平の傷がすべては現実だと物語っていた。
「……生きる。生き抜いてみせる」
テッドはもう、ベッドに包まるだけの人間ではなくなっていた。
自動で支給されるクズみたいな飯を食う。
ビタミン剤を流し込む。
なんとしても生き抜く。
気弱なテッドはもう、そこにはいなかった。




