黒羊と季節を売る人
黒い絨毯が敷き詰められた巨大なフロアの中心。
そこに二人掛けの四角いテーブルがぽつんとあった。
それ以外にはグランドピアノが一台。
あとはサーブの人間が五人ほど。
テーブルの対面になっている椅子には、二人の人物が座っている。
一人はこの食事の主催で、黒羊総領、ラナ・エディンブル。
もう一人はCランクエリアにおける三人の主の一角、アリアナ・ディゲッドだった。
二人の前には旧ヨーロッパでよく食べられていた肉料理が並べられていた。
さらに食中酒としてラナの前にはワイン。アリアナの前にはラム酒が置かれていた。
料理と酒、どちらも当然生鮮食品だった。
値段に換算すれば、Bランク庶民の時間をいったいいくら買えるのか。
そんな食事を、二人は躊躇いなく、優雅に口に運んでいく。
食事が始まってしばらくは会話もなく、二人が肉を切り分ける音と、生身の奏者が奏でるピアノの音だけが響いていた。
口を開いたのは、肉を半分ほど食し、ラム酒で唇を潤したアリアナだった。
「この間はどーも。あなたのところの薬は本当に効能がいい」
ラナはナイフとフォークを置き、唇を拭く。
それからワインで口を湿らせ、再び食器を取った。
「君のところだって良い質だった。おかげで陣内の幹部を一人、篭絡できた」
「あの男、役に立つの?」
「いいや。もう役には立たない。罠はバレた。尻尾になってしまった」
ラナが肉を口に運ぶ。
アリアナは鼻を鳴らし、ラム酒を呷る。空になったグラスには、何も言わずともサーブがラム酒を注いだ。
「残念。まあ、そこまで期待はしていなかったんでしょ?」
「ああ、そうだね。だが、販売経路としてはまだ役に立つ」
ラナが薄く笑みを浮かべ、肉を噛む。
アリアナは肩をすくめ、残りの肉を切らずにそのまま口の中に放り込んだ。
「君のところでもあの男を使うかい? まだまだ客は紹介できると思うよ」
「もちろんうちでも使わせてもらう。金のある男はいい男だからね」
アリアナが口を拭いていると、空になった皿が下げられる。
代わりに旧日本で食べられていた牛の肉が出てきた。
シンプルに焼いただけだが、添え付けのワサビや塩、細かく刻んだリーフで食べると極上の味わいになる。
アリアナはさっそくワギュウを刻んで口に運んでいった。
「ああ、とろけるように美味い。いつ来てもここのワギュウは最高だね。牛だけに関していえば、陣内にも引けを取らないんじゃないの?」
「客には、うちの牧場で育てている美しいものだけを出すからね。君には当然、そのとき一番いい牛だ」
「あら、それは光栄ね」
アリアナが妖艶にほほ笑む。
大抵の男なら、すぐに篭絡される『季節を売る人』の笑みだった。
女性相手にも効くのだが、ラナはそれを簡単に受け流す。
「これを売れば、一気にトップに躍り出ることも夢じゃないのに」
「まさか」
今度はラナが微笑する。
「たかが極上の牛だけで陣内のシェアには食い込めないだろう。クリティカルの種付けは頑張っているようだがね」
「ふふ、それもそうね。まあ、あなたにはこれがあるものね」
アリアナはテーブルの上に一つの箱を出す。
それは特別な人間にしか配られない、一つ一つ手作りの極上ドラックパックだった。
市販されているドラックパックとは値段も効能も段違いの代物だ。
「健全な商売も、不健全な商売も、どちらもこの世界には必要だろう? 私はそちらを選んだ。それだけのことだよ」
「あら、それじゃあ表を選んでいたら陣内にも勝てたような口ぶり」
ラナは答えず、最後の一切れを口に運ぶ。
アリアナとは違い、皿が下げられるとデザートが運ばれてくる。
小さな皿に載せられた、葉巻型のドラックパックだった。
ラナはそれを手に取り、まずは匂いを嗅ぐ。
「私はね、人が見たがる夢が好きなんだ」
「……夢?」
「そう。蜜のように甘くて、とりとめのない混沌の夢。誰も彼もがその夢から覚めたくないと思っている」
ラナは葉巻の先端をカットし、口に咥えて火を点ける。
肺いっぱいに吸ってから、煙を吐き出しくゆらせた。
「正しさが蔓延るピュアな世界は苦いんだ。だから私は甘い甘い間違いを提供するんだ。君だってわかるだろう?」
切ったワギュウにワサビを塗りたくっていたアリアナは鼻で笑う。
「そりゃあね。こちとら、夢を売るのが商売だもの。うふふふふ……あ、からッ……鼻に来るわねこれ」
「何事も適量だよ。過ぎたるは猶及ばざるが如し。聞いたことは?」
「……うー、うるさい。お金も食事もたっぷりなのが好きなのよ」
「それは失礼。ふふ」
楽しい食事だった。
そんなとき、フロアに男が一人入ってくる。
入り口で止まった男を、ラナが人差し指をクイッと動かして呼ぶ。
男はアリアナにも目礼してから、近づいてくる。
それから耳打ちされた内容に、ラナは微笑んだ。
「うん。さすがだ」
肉を運ぶ手を止めて、アリアナがラナを見る。
「うちの蹄がね、仕事を成功させた。最近グループの一つを任せた男なんだが、想像以上にいい働きをしてくれる」
アリアナが「あー」と息を漏らした。
「そいつなら私も知ってる。ミスタでしょう?」
「おや、さすがに耳が早いね」
「彼、大丈夫? 優秀だけど、ちょっと強引ね。高いのとは長続きしないタイプ」
「ふっふふ、手厳しいね。だが、彼ならこれからも上手くやるだろう。今度、純正の肉で食事会でも開いてやろうかな」
「あら、彼も一番いいお肉?」
アリアナの問いに、ラナは首をゆるく振る。
「いいや、彼はそうだな。八番目に美しい牛を殺すことにしよう」
「八……縁起を担いでるの? 珍しい?」
「大事なことだよ。こういうことも……ああ、下がっていい。ご苦労」
報告した男は頭を下げ、それからフロアを出ていく。
「ところで君は、あそこのトップになるつもりはないのかい?」
「……ない。わかってるでしょ」
三又城の一角として当然の答えに、ラナが笑み、再び煙をくゆらせる。
「私たちの抗争なんて誰も得しない。横槍が入って、みんな喰われるだけ」
アリアナはまた肉を一気に頬張って、三度目のおかわりをする。
今度はワギュウのタンが運ばれてくる。
「他の二人ならまだしも、私たち女は弱いのよ」
「ふふ……それこそ冗談だ。君より荒事に強いヤツがこの都市に何人いると」
「……買いかぶりすぎね」
言いながら、アリアナが微笑む。
しかしそれは誰もを虜にするものではなく、相対したものを震え上がらせる──凶悪な笑みだった。
「君のその顔、とっても好きだよ。私はね」
「あらありがとう。光栄よ。この食事会に呼ばれるのと同じくらい」
Aランクエリアの中でもさらに高層。
天を貫くほどの高さのビル。
黒羊が誇る黒く輝く摩天楼。
数多の人間たちの苦悩を礎にして建てられたその最上階。
頂の一つに座る女たちの食事は続けられるのだった。




