貧民街のニア4
母と男を退けたニアたちは、貧民街にある、非正規の培養器業者に乗り込んでいた。
入り口には警備員がいたが、オスカーが買い取りに来たと言ったら、すんなりと通してくれた。
そしてニアとオスカーは、社長を名乗る男を前にしていた。
禿頭の男で、頭にいくつかのボルトを埋め込んでいる。
数年前に一部の人間に流行ったファッションボルトだった。
「やぁ、どうも。買い取りだとか? 必要なのはその子かな? どこのパーツです?」
男がまくし立てる。
ニアを一瞥したが、基本はオスカーしか見ていない。
「パーツじゃない。丸ごとだ。この子の弟がいるはずだ。名前は……」
「フェロー」
オスカーの言葉をニアが引き継ぐ。
しかし男は片眉を上げ、不審な目を向けてくる。
「フェロー……? いったいそれは……」
男がわからないというポーズをとると、横から男の部下が耳打ちする。
「あー、あの貧乏夫婦から買い取ったアレか。残念だ。本当に残念だ。アレはね、買取が決まってるんですよ。心臓。なんとBランクの方ですよ。あなたからすれば、超高額だ。たぶんね」
「いくらだ」
オスカーが訊く。
すると男は指を一本立てた。
「一億」
「いち……ッ」
思わず飛び出した声を、ニアは口元を覆って塞ぐ。
男がニアを見て、ニヤリと笑った。
「出せないでしょう? 仮に出せたとしても」
男はニアからオスカーに視線を戻す。
そして指を三本立てた。
「迷惑料と割り込み代込みで三億は必要になる」
「……それは確かに無理だ」
「でしょう? だったらさっさと帰ってくれ。どうやらあんたらは客じゃないようだ」
気づくと、警棒を構えた男たちにそれとなく囲まれていた。
抵抗すればどうなるか。ニアは酒瓶で殴られたときの痛みを思い出して呻く。
しかしオスカーは動じる様子もなく、男を見つめていた。
「ここは非正規の業者だよな?」
「ん?」
男が片眉をピクリと持ち上げる。
「俺は貧民街出身で、人間として……非正規みたいなものだ。ここで何があっても、表には出ない。そう考えるが、どうだ?」
ざわっと、空気が動いた。
「……こちらとしても後ろ盾はある。三又城がいる」
「誰だ?」
「なに?」
「三又城の誰がお前のボスだ?」
「それ、は……」
男が歯噛みする。
ニアにはわからなかったが、Cランク及び貧民街の掟として、庇護されていないものが勝手に三又城のボスの名を使ってはいけない。というものがある。
男は答えられなかった。
それはすなわち、男が嘘を吐いているという証拠だった。
呻いた男は、急にオスカーを指さした。
「今なら穏便に済むぞ。帰れ。俺たちの間には何もなかった」
「いいや、ある。悪いが、ここにいる子どもと俺は縁を持ってしまった」
男がため息を吐く。長いため息だった。
わからずやの子供を前にした、心身ともに疲れ切った大人のような。
「今のは俺の温情だった。だが、お前が台無しにした。わかるな? わかるよな? 残念だ。交渉決裂だ。おい」
男が手を振ると、囲んでいた男たちが警棒を構える。
「もういい。やれ」
「ハッ!」
男たちが一斉に向かってくる。
ニアはとっさに身をかがめて丸くなった。
これが暴力を受けるとき、一番痛くない恰好だった。
しかしオスカーは立っていた。
冷静に男たちを見て、そして──。
そして、オスカーが男たちを蹂躙した。
「ガッ!?」
オスカーが腕を振るうと男の一人が飛ぶ。
壁にぶつかった男は鼻血を出し、歯が欠けていた。
「なっ……ゴバッ!」
オスカーの突き出した左手のひらに視界を遮られた男は、戸惑っている間に右拳で打たれた。
ゴツッと硬い音がして、あまり掃除されていない床を転がる。
「このッ……ぎゃひっ! ぎゃっ!」
男の一人が警棒を振り上げる。
しかし振り下ろされる前にオスカーの突き出した蹴りが警棒を握った指を折り、痛みに悶絶する男のこめかみにつま先蹴りが入った。
これで残りは二人。
「ごぶぇっ」
一人は突き刺すような蹴りで腹を抉られ、後ろに吹っ飛ぶ。
「ちっ!」
「あっ!」
そして最後の一人に向かう間に、社長が逃げ出した。
「心配いらない」
「え?」
とっさに追おうとしたニアに、オスカーが言う。
そして左フックで男の顎を打ち抜いて失神させると、男の手からするりと落ちた警棒を掴んでその場で回転する。
ブンッ、と風を切り裂く音がして、警棒が投擲された。
「あぎゃっ!!?」
硬い警棒で思い切り背中を打たれた社長の男は、足をもつれさせて転倒した。
男が痛みに悶えながらも這いずり始めるころには、もうオスカーは男の横に立っていた。
「ひっ……」
「あんたには悪いと思うが、こっちにも事情がある。あの子の弟を買った金、最大で50万だったな」
オスカーは怯える男に、懐から取り出した札束を一つ投げる。
「……へ?」
「100万ある。迷惑料込だ。アンタ含めて全員の治療に使ってくれ。さて、彼女の弟はどこにいる?」
オスカーが顔を近づけて訊くと、男はさすがにもう抵抗しなかった。
「てめぇ、イカれてる」
自力では立てない男は、オスカーに支えられて歩きながらつぶやく。
オスカーは無表情でそれにうなづいた。
「だろうな。じゃなきゃこんなことはしない」
「自覚有りってのがタチ悪いぜ」
吐き捨てるように言った男が、一つの培養器の前で止まった。容器には日付と名前、売却先がラベルされている。
薄緑色の培養液の中に、裸の少年が浮いていた。
「フェロー……!」
それは間違いなくニアの弟、フェローだった。
「二度とくんなよ、疫病神が」
「俺だって縁を持ちたくない」
培養器から出し、服を着せたフェローをオスカーが背負っている。
培養工場から出ると、男が悪態を吐いてきたが、オスカーは軽く受け流す。
「俺が縁を持ちそうな子を浚わなければいいだけだ」
「印でもつけとけっ。くそがッ」
男は工場の中へ戻っていく。
そして中からは罵声が聞こえてきた。
「いつまで寝てんだてめぇら! さっさと起きて仕事だ! Bランク様に謝罪だぁっ!」
「は、はひっ」「う、うす」「はいっ」「ふぁい」
返事が一人足りような気がしたが、ニアにはもう関係ない。
それよりも、オスカーに背負われたフェローの顔を見て、久しぶりに見る弟の寝顔に安堵する。
「さて、帰るとしようか」
「……はい!」
そうして姉弟は、数か月ぶりに再会を果たしたのだった。
ー・ー・ー
古びたアパートに到着すると、オスカーが受付兼大家の下へ向かう。
受付台に顔を出した大家はオスカー、フェロー、ニアの順に見たあと、老眼鏡のツルをクッと持ち上げる。
「この子らの部屋の分も。それから最低限でいい。警備を」
警備? と、ニアは思った。
こんな貧民街の古ぼけたアパートに警備も何もありはしない。
そう思っていたが、大家はうなづくと虚空を見つめ、手元で何か操作し始める。
ニアはそこで初めて、それがただの老眼鏡ではなくサイバーグラスだということに気づいた。
「週6ドル」
「それでいい」
オスカーは懐からクリップで留めた札束を出して受付台に置く。
大家はそれを受け取り、数えることもせずに引き出しの中へ入れた。
それからオスカーと大家は会話をすることはなく、自然と部屋へと向かう。
ニアたちの部屋へ戻ってくると、安酒の臭いがプンっと香る。
獣臭い、慣れた臭いだった。けれどその主は、もういない。
「ここでいいか」
床に転がる酒瓶を蹴飛ばして道を開けたオスカーは、一台しかないベッドの前に立った。
ニアがうなづくと、フェローを降ろす。
「時期に目が覚めるだろう。手足も健在だ。最低限の栄養だけだったろうから、最初は苦労するだろうが、すぐに回復する」
「……うん」
ニアはフェローを見ながら、返事をする。
「食事は俺のところへ取りに来い。金はある程度置いていくから、自分で買いに行ってもいい」
「自分で……」
「ああ。浚われる可能性もあるし、襲われる可能性もあるから、オススメはしないがな。だから下の爺さんに頼め」
「大家さんのこと?」
「少し割増しになるが頼んでおけば食事などは買っといてくれる。デリバリーじゃないから部屋まで運ぶのは自分だがな」
こんなところか、とオスカーがつぶやく。
「じゃあ俺は部屋へ戻る。また助けが必要なときは呼べ。いるときは対応してやる」
「あ、あのっ……!」
出て行こうとするオスカーを、ニアが引き留める。
「どうして、ここまでしてくれるんですか?」
「理由は言ったはずだ。俺がそうすべきだと思ったから、そうしているだけだと」
「それは聞きました。けど、それでも、ここまでのこと……私たちに……」
オスカーにここまでしてもらう価値はない。
ニアはそう思っている。弟はともかく、自分には……。
オスカーは数秒、答えを探しているのか黙っていた。
だがやがてゆっくりと、口を開く。
「他人に、自分がしてほしかった行為をすることで満たされることがあるという。俺は、父から様々なものをもらった。けれど、まだ足りなかった。誰でもいい。父とともに、救ってほしかった」
オスカーはドアノブに手をかけ、かちゃりと回す。
「感謝は必要ない。すべては俺の自己満足だ。俺が満たされるために、自分勝手にやっているだけだ」
そう言って出て行こうとするオスカーの顔が、ずっと無表情だった彼の顔があまりにも寂しそうに見えて──。
「それでも! ありがとう! あなたの身勝手に、私たちは救われた! 助けられたよ、オスカーさん! ありがとう!」
ニアには返せるものがない。
この大恩を返すには何をすればいいのか見当もつかない。
それでも、それだけは伝えたかった。
「…………ああ」
オスカーはそれだけ言って、出ていく。
顔は見えなかったが、少しだけ雰囲気が柔らかくなったような、ニアにはそんな風に見えた。
「おねぇ……ちゃ……?」
「あっ……!」
それからすぐ、ニアの弟フェローが目を覚ました。
「フェロー!」
ニアは駆け寄り、弟を抱きしめた。
「おねえちゃん……どうして……? 僕……痛いよ、お姉ちゃん……ふふ」
フェローはまだ夢を見ているような顔をしていた。
けれどキュッと、小さな手で抱きしめ返してくる。
「おかえり……おかえり……」
「おねえちゃん? 泣いてるの……?」
すべては幸運だった。
奇跡だった。
貧民街のニアは、心身ともにズタボロになるのが“お決まり”だった。
けれど、そうはならなかった。
今だけの幸運かもしれない。
もしかしたらこの先、もっと早く死んでしまえば良かったと思う日が来るかもしれない。
それでも、たとえそうだとしても、ニアは今、弟とともにいられる奇跡に感謝している。
だから、ニアが覚悟を決めるのも当然のことだった。
庇護されるだけの存在では、この街で長く生きられないことを聡い彼女は知っている。
──そして数日後。
ニアは四肢を売り払い、オスカーと同じ技師に頼んで身体をサイバネ化した。
彼女はもう、奪われるだけの少女ではなかった。
奇跡を、幸運を、少しでも長続きさせるため。
弟と二人、生きるため。
貧民街の少女は、この世界をサバイブすることを決めたのだった。




