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貧民街のニア3

「おかあ、さ……」


 廊下にいる母と男を見て、ニアはヒュッと息を飲んだ。

 見えたと思った光は偽りだったのか。

 目の前があっという間に、暗くなっていく。

 搾取され続ける自分が、自分の未来が再び形成されようとする。

 けれど──。


「すまない。そこを通りたいんだが、どいてもらえるか?」


 ニアの隣に立つオスカー・ユーティリティーが言った。

 母と男は、憤怒と愉悦の顔をニアから、今初めて気づいたというようにオスカーへ向けた。


「なんだ、てめぇは?」


 男が言った。


「……まさか、初めての客かい? この売女」


 母がせせら笑う。

 自分が産んだ子を馬鹿にしないと、自尊心を保てない人だった。


 そして母の言葉に、男も下卑た笑みで反応する。


「おぉ、そういうことか。おい、あんた。そいつの処女はな、俺がもらう予定だったんだ。だけどまあ、あんたが客ってことならしょうがねぇ。10万$だ。処女代を合わせれば、それが妥当だな」

「じゅ……」


 自分で言うのも悲しいが、吹っ掛けすぎだ。

 そんな価値はないとニアは思う。


「なら、それはこの子に渡しておこう。お前にじゃない」

「……はぁ? そいつはうちの商品だ。店主に金を払うのが筋ってもんだろう」


 男が凄む。よれたシャツと破れたズボン。手には酒瓶を持っている。

 あれで殴られるのは痛い。ニアは折檻を思い出し、顔と身体が強張った。


「おい“ニヤ”! そいつから金を取ってこっちに持ってこい!」


 ニアの名前さえ間違える男に、ニアは怒りよりも恐怖を覚える。

 怖くてたまらない。どうせ言うことを聞く、と、信じて疑っていない母が後ろでニヤニヤと笑みを浮かべる。


 怖くてたまらない。

 どうして私はこんなに弱いんだろう。と、ニアの瞳に涙が浮かぶ。

 しかしその肩に、温かい手がぽんっと置かれた。

 機械製のはずなのに、温かさを感じる手だった。

 顔を上げて横を見る。

 無表情のはずのオスカーが、ふっと微笑むのを見た。


 ニアは知らないが、それはオスカーの父が、怖くてたまらない事態に陥った息子を落ち着かせるために見せていた微笑だった。


「この子は今、俺の依頼人だ。悪いが、それ以上邪魔をするならこちらにも考えがある」


 オスカーが黒いグラブを填めて、男と母を見据える。


「なんだ、そうか。そういうことならこっちだってなぁ」


 男は一瞬怯んだが、手にしたものを思い出してニヤッと笑った。


「てめぇの考え聞かせてみろや!」


 男が飛び出す。しかし長年の酒太りで遅い。

 ドタドタと廊下を走ってくる。


「殺すか? 加減するか?」


 急に問われ、ニアは驚いた。

 そして肩を押されると、間を男がつんのめって転んでいった。


「くそっ!? なにしやがった!!」


 男は自分の足がもつれて転んだことにすら気づいていない。

 情けない姿だった。


「殺すか? 加減するか?」


 再び、オスカーが訊いてくる。

 どうして私が?

 最初、ニアはそう思った。

 けれど、それはニアが決めなくてはいけないことだった。


「てめぇら何しゃべってやがる!」


 激高した男が立ちあがり、瓶を振り回す。

 オスカーはそれをなんなく避ける。それどころか男を見ていない。

 ニアをジッと見据えている。


「これはお前が決めることだ。誰かに人生の決断をゆだねるとろくなことにならない」

「ボケたこと言ってんじゃねぇ! こいつは俺の所有物だ!」


 男が振った瓶をオスカーが首を捻るだけで避ける。

 壁に当たった瓶は割れず、安アパートの壁にめり込んだ。


 唐突に、弟と昔見ていた、およそ子供向けではないサスペンスドラマを思い出していた。

 こういう場面では必ずビンは割れ、刃物みたいになるのだ。


 でも、そうはならなかった。

 “思い込んでいた当然が、目の前で一つ当たり前ではなくなった”。


「加減して! でも、二度と私たちに近づきたくと思うぐらい、ぼこぼこにして。私と弟にしたことを後悔させて!」


 叫んだ。

 すると静観していた母がキッ、とニアを睨む。


「あんたなんてこと言ってんの! 私は母親で、あの人はあんたの父親だよ!」


 いつもならこんなことは言えない。

 怯んで、殴られて、唾を吐きかけられる。

 搾取されるしかない存在。

 けれど今は違う。今のニアには、オスカーがいる。


「弟を売って、私のことだってもうすぐ売るんでしょ! 母親はそんなことしない、父親もそんなことしない。あなたたちは、私たち姉弟の親なんかじゃない!」

「このッ!」


 母がこちらに駆け寄ろうとする。

 身がすくむ。悲鳴を上げそうになる。


「了解だ」


 しかしその前に、オスカーの声が静かに響いた。

 直後、ボゴッと鈍い音がした。

 ニアの目の前に何かが飛んでくる。男だった。


「あが、げ……ほ、ほえのあ、あが、が……」


 男の顎が外れていた。

 そんな男の前に、オスカーが歩いてくる。


「二度とこの子の前に近づくな。いいな」

「ら、らんろ、へ、へんりら、らっへ……」


 男が自分の正当性を主張しようとして、オスカーに蹴り飛ばされる。

 天井に当たり、それから廊下に落ちる。

 今度は母の目の前だった。


「ひっ!」


 母が尻もちをつく。

 その音を聞いて、ニアはハッとして走り出す。

 母に向かって。


「に、ニア! 逃げるよ! 早く! 腰が抜けたの! た、助け……」


 母はあろうことかニアが助けに走ったのだと勘違いしていた。

 だからニアは拳を振りかぶった。


 そして勢いのまま、母の顔面に硬く握りしめた拳を突き出す。


「ぎゃぶっ!!」


 母が鼻血を出して廊下を転がる。

 拳が痛い。目から勝手に涙がこぼれていた。

 息が荒く、心臓が早鐘を鳴らしている。


「お、お前ぇっ! ぎゃっ!」


 起き上がりかけた母をまた殴る。

 右、左、右、左。

 拳と足をめちゃくちゃに振り回して、母親にこれまでの恨み、辛さ、苦痛を返す。


「出ていけ! 私たちの生活から出ていけ! あんたなんか、母親じゃない!!」


 頭の中で一度か二度、母が優しく頭を撫でたり、抱きしめてくれた記憶が蘇る。

 涙が出てくる。

 人生で初めての、ありったけの力を振り絞った反抗だった。


「出ていけぇぇぇぇぇっ!」

「わ、わかった。出ていく、だから……ごぶっ、げぅ、ご、あ……」


「そこまでだ」


 気づくと、オスカーに振りかぶった腕を捕まえていた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 そこで初めて、もう母が意識を失っていることに気づいた。

 違法ドラックパックの乱用でやつれた顔が、血にまみれ、腫れあがっていた。


「それ以上やると死ぬ。お前の願いは、二度と近づけないようにすることだ」

「……うん。そう。そうだった」


 落ち着きを取り戻してから見ると、母はもちろん、男もボロボロだった。気絶まではしてないようだが、その顔は恐怖にまみれている。


「その女を連れて去れ。二度とここへ近づくな」


 オスカーが無表情で告げると、男はこくこくと頷き、母を連れて這う這うの体で外へ歩いていく。

 哀れだと思った。かわいそうだとも感じた。

 けれどあれは、何もしなかったときの私と弟の姿だと、ニアは直感していた。


 だから後悔はない。

 自分で選択した行動だから、後悔はない。


「俺たちも行くぞ」

「……うん」


 二人が出て行ったのを見届けてから、ニアとオスカーもアパートから出る。

 変わらないと思っていた日常が変わっていく。

 一つずつ、確かに。


「弟、返してもらえるかな」

「……向こうの出方次第だ」


 もっと願っていいなら。

 もっと願いが叶うなら。

 どうか、どうか弟にも、光を見せてあげたい。


「無事でいてねフェロー……お姉ちゃんが、今行くから」




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