貧民街のニア 1
週2ドルの安アパート。
貧民街にあるセキュリティもくそもない、大家の受付がいるだけのそこに、少女──ニアは住んでいた。
家族は母親と母親の彼氏、そして弟がいた。
けれど弟は今培養器の中にいる。
そのバイオポッドの目的は、Aランクエリアに住む金持ちたちのための代用品確保。
正規の業者であれば身元が確かな人間を多額の金額とともに買い取るが、弟のフェローが入れられたのは粗悪なバイオポッドだった。
当然、はした金だ。
母と父代わりの男が受け取った額は詳しくわからない。
だが、その非正規業者がうたう最高額はたかが5000ドルだったことだけは知っている。
つまり今年6歳になる弟の人生は、5000ドル以下ということになる。
Aランクなら一日で、Bランクなら数か月で、Cランクでも一年と少しで稼げる金だ。
そんなはした金が、弟の人生につけられた値段だった。
そして、弟のことだけではない。
ニアとしても、対岸の火事ではないのだ。
「おい、こいつ、いくつになる?」
母親の彼氏が言う。
ニアをジロジロと眺めて、好色そうに眼を歪める。
「10歳だよ。前も言っただろ」
面倒くさそうに母親が言った。
ニアを見る目は、母ではなく嫉妬を燃やす女のモノだった。
「じゃあ、あと二年、いやこんだけ生育が早けりゃ一年……」
「いやっ……」
男の手が胸に伸びてきた。
同じ年齢の子に比べて、ニアの成長は少しばかり早かった。
膨らんだ胸を、ボロボロのシャツ越しに掴まれる。
ニアは反射的に手を振り払った。
それがいけなかった。
「なにしやがんだてめぇっ!」
「ぎゃんっ!」
殴られた。
壁に頭を打ち、倒れた。
倒れると、今度は腹を蹴られた。
身体を丸める。
その上から、容赦ない蹴りが飛んでくる。
助けて。
誰か、お母さん……。
母は笑っていた。
娘が暴力を振るわれているのに、楽しそうに笑っていた。
唇を噛む。
大事な弟を、守ることはできなかった。
姉ちゃん、姉ちゃん。
バイオポッドの業者に連れられる弟の声が耳にこびりついている。
救いはない。
あるとすれば、弟の身体が誰かのパーツになる前に、なんとかお金を貯めて買い戻すこと。
身体を売る。
でも、こいつらにきっとお金は取られる。
どうしたらいいの。
どうして私たちがこんな目に。
こいつらのせいだ。
こいつらが、親だから──。
「親に向かってなんて目してんだ!」
親だと思ったこともない男が吼え、ニアは目のあたりを蹴られ、意識を失った。
「…………」
短い夢を見ていた。
ニアとフェローが、二人で平和に暮らす夢だ。
母も男もいない。平和で、代えがたい日常。
「…………」
けれど、すぐにドロドロの黒に飲まれていく。
新しい景色には見慣れた風景。
男に暴力を振るわれ、せせら笑う母の姿。
きっとそろそろ、ここにもっと酷い光景が増える。
ニアだって無垢な子供じゃない。
子供ができる行為を知っている。
こんな男に支配される。
こんなヤツに好きなように触られる。
下手をすれば、子供まで。
嫌だった。そんなのは絶対に。
「…………う」
だが、ニアは無力だった。
どこにでもいる、貧民街の子供だった。
薄暗い部屋の中、痛む身体に呻きながら起き上がる。
一度力が抜けて大きな音を立てて倒れてしまったが、誰も怒鳴らなかった。
奥の部屋で、母と男の気持ち悪い声が聞こえる。
あの行為をしているのだ。
だから、ニアのことなどどうでもいいのだ。
母と男はニアに暴力を振るったあと、あの行為をする。
二人を興奮させるための材料でしかないのだ。
そして“売れる”ようになれば、この身体はニアのモノですらなくなる。
泣きたくなんかないのに、自然と涙が出てくる。
誰か、誰か助けて。
自分を売る覚悟が出来ては、萎む。
揺れる。怖くてたまらない。
自分の未来に希望なんてない。
弟を助けることしか、希望はない。
けれど、蹂躙される恐怖。絶望。嫌悪。
どうして私には力がないだろう。
ニアは身体を引きずり、逃げるように部屋を出る。
行くあてなどない。
けれど、あんな部屋にはいたくなかった。
身体が痛い。
どこか、どこかへ。
誰もいないところへ。
誰もニアのことなんか気にしない静かな場所へ。
「……ッ!」
ギシッ、と後ろで薄い板を踏む音がした。
緩慢な動きで振り返ると、そこには一人の男がいた。
こんな安アパート、いや貧民街には似つかわしくない、黒いスーツ姿の男。
ニアは男のことを借金取りかマフィアだと思った。
それ以外にこんな男がこのアパートにいるのはおかしい。
けれど男は慣れた様子で廊下を進むと、ニアがもたれかかっているドアの前に立った。
「……な、なに? お金なら、ない、です……」
そう言ったニアに、男は軽く首を傾げた。
それから右手の人差し指でドアを差した。
「そこは俺の部屋なんだが……」
「……え?」
ニアはドアと男を交互に見て、それから痛む身体を無理やり動かしてドアから離れる。
「ご、ごめんなさい。まさか、住んでる人がいるとは思ってなくて……」
「お前はここの住人じゃないのか?」
「住人だよ、そこの二つ隣の……」
「そうか」
男はニアが指さした方を一瞥し、自らの部屋のドアノブを掴んで回した。
立て付けの悪い扉が軋む。
不意に、男がニアの方を見た。
「お前は物乞いか?」
ニアは慌てて首を振る。
「そのケガは本物か?」
ニアは、少しためらってから頷いた。
男が一つ嘆息する。
片手でドアを押して、広く開けた。
「手当てぐらいならしてやれる。欲しているなら入れ」
「…………」
ニアは、先ほどよりも長く躊躇った。
さっき会ったばかりの男だ。信用なんて当然ない。
けれど、あの男や母よりは信用できると思った。
子供の、ニアの直感だ。
「いらないなら、そう言ってくれると助かるんだが」
「い、いる……手当て、して……ください」
男が顎でクイッと部屋の中を示す。
ニアは男の部屋の前に小走りが近づく。
それから振り返り、自分の部屋を一瞥してから、男の部屋──306号室に入った。




