オスカー・ユーティリティー
オスカー。
そう呼ばれることは滅多にない。
オスカーの父が付けてくれた名前で、そしてオスカーの父が一番呼んでいた名前だった。
今、オスカーは「ユーティリティー」と呼ばれている。
不満はない。実際、ユーティリティーがオスカーであることを知っている人間のほうが少ないし、そっちのほうが都合が良い。
ユーティリティーの父が死んだのは、貧民街にありがちな悪徳の金貸しから金を借りたからだ。もっとも、この街に悪徳でないものが何人いるのかは分からない。
土下座をして返済の延期を頼む父に、一番大切なモノは?と金貸しが訊いた。父は息子だと即答した。
そうしたら、金貸しはオスカーを浚った。
オスカーの父は狂乱し、必死になって金策に走った。
けれど金貸しから金を借りるほど切羽詰まった人間に、アテなどなかった。
だからオスカーの父は自らの内臓を売った。
幸いにも、酒も煙草もドラックパックもやらないオスカーの父の内臓は高く売れた。
そんな父がオスカーを取り戻したとき、オスカーはすでにユーティリティーになっていた。
手足を根元から切り取られ、大人用の義手と義足を付けられた。
薬で感情の大半を“萎められ”、変わり果てた息子に涙する父を前にしても、特に何の感情も浮かばなかった。
オスカー……ユーティリティーの父は金貸しを詰った。
自分が返せないと思って息子を金持ちの玩具にしたな!と吼えた。
掴みかかり、頬を殴り飛ばした。
それがいけなかった。
ホロスクリーンで見られるドラマや映画のように、長い別れのシーンなど親子にはなかった。
金貸しが銃をバンッ!
それで頭を吹き飛ばされて終わり。
ユーティリティーは地面に倒れ、痙攣する父をただ見下ろしていた。
何の感情もなく、ただ起こった事象を記録する機械のように。
「取るに足らないヤツは、死に方も取るに足らないもんさ」
金貸しが言ったことを、ユーティリティーは憶えている。
それから、ユーティリティーの生活は一変した。
オスカーだった頃は、父が一生懸命に愛情を注いでくれた。
自分の飯よりもオスカーのためにいくらでも差し出した。
だからオスカーの父はいつもやせ細っていた。
そして欠点がもう一つ。
この世界において、彼はひどく金を稼ぐのが下手だった。
体力もなく知識もない。悪事を働く度胸も知恵もなければ、真面目にブロイラーをやる体力もなかった。
オスカーの父にあったのは、オスカーだけだった。
オスカーの父は安い風俗店の前で立っていた女の誘いを断り切れず、一発生でやる代わりに、その日入ったばかりの週給を全部取られ、そして十月十日後に赤ん坊のオスカーを押しつけられた。
それから、オスカーの父はオスカーにただひたすら愛情を注いだ。
稼げないなりに一生懸命稼いだ金では足りなくて、結局金貸しに頼った。
オスカーの父はいつも笑顔だった。頼りなくて、優しい表情だ。
オスカーは……ユーティリティーはそれだけは憶えている。それだけは忘れない。
ユーティリティーはまず、様々な犯罪を憶えさせられた。
貧民街の連中でも容易には踏み越えない境界線「殺し」もやった。
金貸しはユーティリティーを便利に使った。
飯はたっぷり喰わせてくれた。ただし、中には思考を奪う薬もたっぷり入っていた。
数年間、金貸しはユーティリティーを使ってずいぶんと儲けた。
たっぷりの衣食住を提供しても、痛くも痒くもないほど。
「お前は最高だなユーティリティー」
金貸しが肩を叩き、高笑いする。
その頃には、薬の量はほぼ入れてないに等しかった。
すでにユーティリティーの脳は薬によって破壊されていると、金貸しは思っていた。
ある日、金貸しの元へ新入りがやってきた。
死ぬほど膨れあがった借金を、その美形と話術で落とした女達の身体で払わせた男だ(金貸しはその手腕を気に入っていた)。
「この人、なんでユーティリティーって呼ばれてるんすか? まさか本名?」
新入りが金貸しの横で微動だにしないユーティリティーを指さして訊くと、金貸しが嗤った。
「……ん? いや、こいつにはオスカーって名前があるぞ」
オスカー。
それは、もう愛情を込めて呼ぶモノがいなくなった名前。
ぴくりと、ユーティリティーの瞼が瞬く。
後ろに組んでいた指が、電流を浴びたみたいにビクンッと曲がる。
「父親は俺に騙されたとも知らず、自分の内臓を売ったのさ。信じられるか?」
「それで必死に金をかき集めたら自分は内臓なしで、息子は改造済み。いやー無駄死にっすね」
「バカ野郎。最後にちゃんと金を作ってきただろうが。人様の役に立って死ねたんだ。俺のおかげで天国へ行けただろうさ。なぁ? ユーティ……」
金貸しの顔が真後ろに消えて、正面に後頭部があった。
「へぇあ……?」
間抜けな声を漏らした新入りが事態の説明を求めて無意識にユーティリティーを向いたところで、その美しい顔に拳型の穴が開いた。
絶命し、膝をついた新入りを見下ろしながらユーティリティーは己の拳を見る。
二人を殺したのはユーティリティーだ。
傍目には生身との違いが分からない人工皮膚の一部が破け、鈍色の機構が覗いている。
(ドクターに修復の依頼をしなくては……)
ユーティリティーはそれだけ思い、再び二つの死体を見た。
『取るに足らないヤツは、死に方も取るに足らないもんさ』
金貸しの言葉が甦る。
だが特に感慨も抱かず、ユーティリティーは金庫から金と武器を奪って部屋を出る。
部屋の外には何人も“同僚”たちがいたが、銃を使ったわけではないので誰も中の出来事には気づいていない。
洗脳され、物言わぬ人形だったユーティリティーを一瞥すると、再び仲間内でギャンブルをしたり、つまらなそうに雑誌やホロスクリーンを眺めたりする。
ユーティリティーはいつもと変わらない表情と態度で、金貸しの屋敷を出た。もう二度と戻ってくることはないだろう。
────────
「部屋を借りたい」
ユーティリティーが言うと、管理人室から老人が顔を出す。
「……部屋はどこでもいい。週2ドル……」
ユーティリティーを一瞥した老人が言うと、ユーティリティーは頷き前金として二百ドルを支払う。
老人は片眉を上げて金を奪うように受け取ると、一度だけユーティリティーに興味の視線を向けてきた。
「……ご自由に」
しかしすぐに視線を外すと、すぐに奥へと引っ込んでいく。
ユーティリティーは老人の言葉に従い、エレベーターもないアパートの階段を三階まで上った。
向かったのは廊下の一番端にある部屋だった。
306号室。
ドアノブに手をかけ、立て付けの悪い扉を軋ませながら開ける。
中へ入ると当然、誰もいなかった。
というより“あの日”から置いてあるモノも含めて何も変わっていなかった。
小さい頃、父が買ってくれた玩具の車がホコリまみれになっていた。
拾って息を吹きかけると、玩具の車だけじゃなく、部屋全体の埃が舞い上がった気がした。
ユーティリティーはイスとテーブルの埃を手で軽く払って、イスには自分が、テーブルには金と武器の入ったバッグと小さな袋を置く。
一つ息を吐いてから、ユーティリティーは貧民街の途中で寄ったパン屋の袋を取って開く。
中に入っているのは色々なパンの切れ端だった。
合成食品でも、こういった品は出る。
そしてこういうモノは、貧民街の中でもさらに貧乏な連中の食べ物と相場が決まっていた。
中身は父がよく頼み込んで格安、もしくはタダで貰ってきたモノと同じだ。
切れ端を一つ取りだして口に運ぶ。
飯はたっぷり与えられたが、改造の過程でユーティリティーは味覚をほとんど失っていた。
だから期待などしていなかった。こんなモノを買ったのは、ただ何となくだ。
しかし、噛みしめたパンには“味”があった。
ユーティリティーは、二つ目の切れ端に手を伸ばす。
また味があった。
『おいしいかい? オスカー』
失ったはずの父の声が甦る。
ユーティリティーは、パンを食べながら涙を流していた。
表情は変わらない。無表情で涙を流しながら、黙々とパンを食べ続ける。
指先が袋の先に触れてようやく、すべて食べきってしまったことに気づいた。
ユーティリティーはパンの袋をくしゃりと丸めてから、目を閉じる。
「……おいしかったよ、父さん」
これまで抑え込まれていたモノがあふれ出すように、父との記憶が甦ってくる。
ユーティリティーは静かに、誰にも聞こえない慟哭を叫ぶ。
ただ涙が流れているだけだ。口は開いてすらいない。
それでもユーティリティーは泣き叫んでいた。
父が死んだあの日から、ようやく泣くことが出来た。
────────
貧民街では、そこそこの頻度で強盗が発生する。
皆、生きていくために必死なのだ。
もちろん、合成食品のパン屋とて例外ではない。
「金出せオラぁッ!!」
この日も、ナイフと銃で武装した強盗が入ってきた。
しかし強盗達にとって不幸だったのは、店の中に一人の“便利屋”がいたことだ。
「がッ!?」
「かひッ……?!」
「ぐえぇッ!?」
二人は叩きのめされ、一人は首を絞めて持ち上げられていた。
強盗が気絶したのを確認すると、男は強盗たちを外へ放り投げて店内へと戻る。
そして何事もなかったかのように、パンを物色し始めた。
「あ、あのぉ……」
店主が声をかけると、男が顔を上げる。
「お礼と言ってはなんですが、欲しいパンがあったら差し上げますよ」
男は「いい」と遠慮しようとして、上げかけた手を止める。
そして少し迷ったあと、店主にこう告げるのだった。
「パンの切れ端の詰め合わせをくれ」
「え? そ、そんなので良いんですか?」
「ああ、それが好きなんだ」
男は困惑する店主や店員たちを気にすることなく、切れ端の詰め合わせを受け取る。
「あの、もし良かったらお名前を……」
出て行きかけた男に恐る恐るといった様子で店主が言うと、男は振り返り口を開いた。
「オスカー・ユーティリティー。便利屋だ」
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