ハービーー1
男が宙を舞った。
くたびれたスーツに包まれた身体が、小汚い路地を転がる。
「──ッ、ガハッ……ゴッ、オエッ……」
立ち上がろうとしても力が入らない。
蹴られた腹が痛み、横隔膜が痙攣して息が出来ない。
胃が数時間前に食った昼食を食道に押しやり、耐えきれず中身をまき散らす。
男──事件記者のハービーは荒い息を吐きながら、ゆっくりとこちらへ向かってくる影に目を向けた。
目に痛い様々なネオンを背負って、大柄な身体が視界の面積を覆っていく。
「ゆ、許してくれ……」
ハービーの言葉に大柄の男は足を止めたが、何も喋ろうとはしなかった。
ただじっくりと、雨に打たれ弱るハービーを見下ろしてくるだけだ。
「頼む、もうアンタをつけ回したりしない。約束する。だから」
男が唐突にしゃがむ。長いコートの裾が濡れることにも無頓着で、固い軍用ブーツが軋みを上げた。
「俺は……記者が嫌いだ」
男が低い、耳の中に入り込んで威圧するような声を発した。
「お前らは、俺がすることに理由を求める。そして勝手に俺を病気だ、可哀相な奴だ、はたまた生まれながらのサイコパスだと好き勝手に話す」
男が片手に握っていたビニール傘がユラユラと前後する。
「その割に俺が取材を受けると言えば、怯えて巣穴から出て来ない。そして気づけば、俺がお前らを殺そうとしているというバカな話まで出してきた」
「わ、私はそいつらとは違う。アンタと向き合おうとして、だから取材を……」
「申し込んでないだろう。お前は俺の私生活を盗撮していただけだ。それが取材か?」
「それ……は……」
男の全身が小さく揺れる。
笑っているのだと気づくの、時間がかかった。
「怖かったんだろう? お前らが作った虚像に、お前らが踊らされている。マヌケな話だ」
「な、ならッ……あ、改めて……しゅ、取材を申し込みますッ、だから、助けてください。私はまだ、し、死にたくないんですッ」
「手首を地面につけて、手を立てろ」
「……え?」
男は二度同じ事を言わなかった。
立ち上がり、ハービーが従うのかジッと見ている。
「は、はい」
意味がわからなかった。
けれど、助かるために何でもしなくてはという思いだった。
ハービーは片手を地面につけ、指を立てた。
地面から手だけ生えているような、奇妙な絵面だった。
そして、男のブーツがハービーの手を上から押し潰した。
「……ひぎゃああああああああああああッ」
ハービーは痛みと共に信じられないものを目にしていた。
己の手指が曲がってはいけない方向に曲がっていた。
五指などバラバラの方向を向いて折れ曲がっている。
痛みはすぐに襲ってきた。
手首から骨が突きだしている。
ナチュラルの身体だ。
脆弱で、暴力に耐えられない人の身体。
「叫ぶと次は肩だ」
ブーツの底面がハービーの肩に押し当てられる。
軽く加重をかけるだけでいい。
それだけでハービーはさらなる痛みを味わわされる。
「んぐッ、ぐッ」
無事な片手で口を押さえた。
痛みで吐きそうだが、零れるのは涙と鼻水だけにして必死に堪える。
「ほッ」
男の声と共に、ハービーの身体の内側から骨が砕ける嫌な音が響いた。
「ああ、すまん。叫んでなかったな。つい」
ハービーは声にならない叫びを上げた。
地獄の業火に焼かれているみたいに口を広げ、全身がビクビクと激しく痙攣する。
「げうッ」
男がハービーの背中に座る。
肋骨が何本か折れ、内臓に刺さった。
ハービーは血を吐き、羽根をもがれた虫のようにもがいた。
「お前はナチュラルか?」
「ひッ……ひッ……」
ハービーは答えられない。
恐怖が思考を放棄させ、ただ本能のみによって逃亡しようとする。
けれど、男からは逃れられない。
「質問に……答えろ」
「ギギャバァッ、あああッ」
男の手が顔の横に当てられたかと思うと、“耳を毟られた”。
目の前に引きちぎられた耳が落とされ、ハービーはもはや自分が何を言っているのか分からなくなる。
「答えろ記者。お前はナチュラルか?」
「なちゅ……な、なちゅ……ら、なりゅひゃる、れす」
「ははは、ちゃんと喋れ」
「あぎゃあああああああああああああッ」
もう片方の耳も“毟られた”。
ハービーは暴れる。触覚を失った虫のように、喚きながら手足をばたつかせた。
けれど、男からは逃れられない。
男は両手で、ハービーの頭を掴む。
左右の人差し指と薬指で、目を見開かされる。
「ナチュラルか。そりゃいい。いい鮮血が見れそうだ」
「助けてッ、助けてぇッ」
ハービーは大声で喚いた。
誰でもいい。この悪夢から救い出してくれる人なら、いや人じゃなくても、何でもいい。
ハービーの視界に、ゆっくりと男の中指が近づいてくる。
指の腹が瞳の表面に触れた。
痛みから逃れようと、青い瞳が縦横無尽に動こうとする。
「ヒッ、ギャッ、ぎゃあああああああッ」
しかし全てが遅かった。
つぷり──と指が瞳を柔らかく押し潰す。
「あああああああッ、あああああああああッ」
ハービーの無事な手が男の腕を叩くが、ビクともしない。
あまりの痛みに、舌が飛び出て、両足が雨に濡れた地面を叩く。
子供がダダをこねているようだった。
ハービーは後悔していた。
色んなモノに祈った。助けを請うた。懺悔した。
家族を思った。死んだ父と年老いた母、妻と生まれたばかりの息子を想った。
だがそれらは何にもならなかった。
痛みは消えず、視力がゆっくりとゼロになっていく。
ハービーは、この男を追ったことを後悔していた。
とてもとても、後悔した。
そして──。
──────
「お前ッ、なにやってるッ」
路地裏を覗いた好奇心旺盛な住民からの通報で、超攻撃的自警団MAの団員たちがやってきた。
数名の団員は路地裏の男を問い詰めるが、男は何も答えない。
男は何かに足を乗っけて、ぼろきれみたいなモノを引っ張っていた。
複雑な音がして、“それ”はすぐに取れた。
取れた“それ”からボタボタと何かが垂れ続ける。
「おいッ、聞こえてるのかッ」
一人の団員が路地裏に入ろうとしたそのとき、男が足を乗せていたほうを掴んで、無造作に放り投げてくる。
団員の目の前でバシャリと音を立て“それ”は地面を転がった。
そして団員はそれが何か理解すると、胃から迫り上がってくるモノを覚えた。
「うぉおおえええッ」
MAの黒いマスクを外して吐き出す。
一番目の前で見ていた団員ほどではないが、他の団員も後ずさった。
男が放り投げたそれは人だった。
いや、人の頭と胴体だけのモノだった。
目や耳、鼻に口を潰された顔。
両手足を引きちぎられ、鮮血をこぼしている胴体。
恐ろしいことに、それは“たった今死んだ”。
その事実に団員たちの呼吸が荒くなる。
Cランクエリアの三叉城の連中と正面からやり合う好戦的な彼らの足をも竦ませた。
「いいだろうそれ。久しぶりだよ、ナチュラルを壊すのは」
男が団員たちの元へ歩いてくる。
ネオンの光が、男の全容を照らし出す。
男は赤かった。
全身が鮮血でずぶ濡れになっているのに、傘を差している。
“血が落ちないように”しているのだ。
この男の特徴に、団員全員が気づいた。
こいつは、この異常者は──。
「ビバ“鮮血”ケイン……」
男は、ケインはただ静かに、血に濡れた瞳で団員たちを見ていた。
口元に穏やかな笑みを浮かべながら。




