ウィック・インソムニア・ハルバートー1
我々はまだ、この地表に這いつくばっている。
宇宙港なんてのは出来てるが、旅行したり宇宙を開拓する浪漫あふれる“お仕事”は、庶民の目が飛び出るほどの金を持った、お金持ち共のものだ。
庶民に与えられたのは、この公害はびこる街で慎ましく生きていくこと。
なんて悲観に浸っても、誰も俺の機嫌を取っちゃくれない。
お前が庇護されるべき赤児ではなく、また見目麗しい少年か少女ではない限り、機嫌を取って欲しかったら金を払うしかない。
ここはそういう街だ。
もちろん、俺にとってはだが──。
ウィック“インソムニア”ハルバートが時計の代わりに60BPMのメトロノームを置き始めたのは二年前だ。
妻を殺され、殺した連中を皆殺しにしてから、よく眠れない日々が続いている。
復讐しているときはあんなにも充実した毎日だったというのに、妻がいない穴はまだ開いたままだ。
ウィックはサイバーグラスをかけ、横部分にあるスイッチを弾く。
目の前に妻が現れた。
『ねえ、早く来て』
弾んだ声。暖炉の火。控えめだが飾り付けられたツリー。
これはクリスマスの映像だ。
幸せだったクリスマス。こんな街にも、暖かな風習は続いていた。
手の伸ばせば本当に触れられそうだ。
妻が嬉しそうな顔をする。
『プレゼントがあるの』
あの懐かしいソプラノ。
『私ね……』
妻が自身の腹部を撫でる。
『×××××××』
メトロノームの音が闇深くから迫り上がってくる。
やめろ、妻の声が聞こえない。
カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。
妻が崩れていく。
妻にノイズが走る。
ダメだ、こんなことはダメだ。
“繰り返されてはならない”。
ウィックの目から涙がこぼれる。
これまで幾度も流し、これから幾度も流れる涙。
また妻が消える。
現実から、幻想から、記憶から。
愛した女が消えていく。
カチッ、カチッ、カチッ。
「待ってくれぇッ」
イスの上でウィックの身体が跳ねた。
衝撃で、グラスが飛んで床を滑っていく。
暖炉の火は消え、薄暗い部屋の光景が視界に広がる。
ウィックは妻が殺されたときの姿を思い出した。
彼女の暖かな笑みは、声は、グラスを使わなければ思い出せないくせに、妻の無残だけは脳にこびりついている。
ウィックは便所に走った。
ゲー、ゲー吐いて、鏡の中のやつれた顔を見る。
頬に手を当てた。
こんなになっても、まだ死ねない。
──と、右腕に仕込まれたデバイスに着信。
部下からだ。
「どーした?」
幽鬼のような低く暗い声に、部下は一瞬戸惑ったようだった。
しかし気を取り直して、報告を上げてくる。
『ビバ“鮮血”ケインが見つかりました』
「……ああ、そうか」
『ですが、我々だけでは』
「……分かってる。場所を伝えろ。すぐに向かう」
ウィックは詳細を聞いて、通話を切る。
鏡の中に映っている顔は未だ死人のようで、およそ生気というものを感じられない。
だがその瞳には昏い炎が灯されていた。
手のひらで覆った口元が、ゆっくりと歪む。
ウィックは嗤っていた。
「もうダメだ、もうダメだ、もうダメだ」
「今度こそ死んでしまう。ああ、きっと死んでしまう」
「けれど俺の心にあるのは安寧だ。救いだ」
「待っていてくれリオ。今度こそ君の元へ向かうよ」
ウィックは深い闇色をした喪服に袖を通す。
そして巨大なマチェットナイフを2本、腰に差す。
今夜の敵は恐ろしい相手だ。
もう何十人も殺している。
警察も匙を投げている。
いや、警官を殺していないから積極的に動かない。
社会の敵だ。この都市の敵だ。
つまりそれは“我々の”敵だ。
ウィックはくたびれた黒いコートを羽織り、表へ出る。
今日も重酸性雨が降っている。
「今日こそ、ああ今日こそ……」
期待に笑みを浮かべ、『MA』幹部の一人
ウィック“インソムニア”ハルバートは街へ出た。
誰もいない部屋の中で、メトロノームの音だけが響いていた。
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