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マルーシャー1

 ウエノ・マーケットの朝は早い。


 と、いうよりも夜中から続けて人間とアンドロイドがウロウロしている。


 この街は眠らない。この都市は眠らない。


 マルーシャはこの都市で暮らし始めて、22年になる。


 母はウクライナ系で、父が日系だ。


 マルーシャは紺色のエプロンで豊かな胸をつぶし、ヒモを腹から腰、そしてまた腹へと一周させて前方で固く結ぶ。


 もちろん外すときにはヒモを軽く引くだけで良いように工夫してある結び方だ。


 次に愛用の出刃包丁を握って、目の前の魚を捌きにかかる。


 魚とはいっても当然、天然食品プラチナフードではない。


 庶民が大好き培養食品シリアルフードだ。

 見た目は魚でも、こいつが生きて海を泳いでいたことはない。

 最初から死んでいて、最初から食用なのだ。


 培養食品シリアルは食料問題を解決したが、そのほかの食事本来の楽しみを全て奪ったと言われている。


 そんなことを言っているのはAランクのアッパーヤードだけだが、マルーシャはいつか天然プラチナの魚を捌いて食べてみたいと思っている。


 マルーシャはいつも母が歌ってくれた子守歌を鼻歌交じりに魚の鱗を落としていく。


 マルーシャは整形やホログラムいらずの美女だが、かなりの音痴だ。彼女の鼻歌を聴いているとなんだか気持ちが落ち着かなくなる。


 もちろん本人はそんなこと気にしていない。

 お気に入りの曲を歌いながら、魚の頭に刃を当て断ち切る。


 頭を切り落とした部分から腹ビレに向かって開いていき、そこから内臓を掻き出す。


 最初は頭を落とすことさえ出来なかったマルーシャは、出刃の切っ先で器用に魚の内部を取って流しに捨てる。


 最初から死んでる培養食品シリアルなんだから、そんなところまで拘らなくてもいいのに。という声もあったが、マルーシャはそうは思わない。


 人は行為に意味を持たせようとする。

 ただ捌くだけで良いのなら、なんなら魚の形だっていらない。

 最初から刺身や煮付け、その他色々な料理の形になっていればいい。


 もっと乱暴に言ってしまえば、そこにマルーシャみたいな料理人はいらない。


 切っ先を骨に当てつつ、横に滑らせて腹を開いていく。

 一旦そこで包丁を置いて、魚の中を流水で洗う。


 そして再びまな板の上に置いて、今度は背ビレ側に包丁を入れていく。


 一度、料理人が消えかけたことがある。

 味はそこそこで栄養価のある培養食品シリアルの手軽さだけが求められた時代。


 ブロック状、パック状、液体状。


 食事の時間さえ惜しいほど忙しく意義がある(と思っている)人生を送っている人間には最適解だった。


 しかし、大半の人間は自らはそうではないとすぐに気づかされた。


 自炊というものは減ったが、ネオ・トーキョーには屋台や食事処が増えた。アッパーヤードのようなプラチナだけを出す超高級店はないが、大衆向けの安くて美味い、顔も知らない誰かと共に食事することが出来る場所だ。


 そして誰かが自分のために食事を作ってくれているという事実が、人々を安堵させた。


 三枚に下ろした魚の身を、一つは油で揚げ、一つは柳刃で刺身にした。

 骨も違う油で素揚げにする。


「なんだ、カルパッチョはないのか」


 常連の男が話しかけてくる。

 いつも素揚げの骨をバリバリと美味そうに食べる男だ。


「今日はドレッシングの調合が上手くいかなかったから。カルパッチョならヤンミさんとこで食べて」

「いや、マルーシャのとこで買うよ。俺はあんたの手料理のファンなんだ」


 男はわざとらしくウィンクしてくるが、マルーシャは鼻で笑っていなす。

 これが男のナンパの手口だということはマーケットの皆が知っている。


「はいはい。じゃあ特別サービス、あなたには二割増しで売ってあげる」

「なんでだよマルーシャ。そりゃないぜ」


 マルーシャが笑って切ったばかりの刺身を皿に盛り付けて男の前に出す。

 もちろんいつもの料金だ。


 男はあからさまにホッとした顔で、親指を指紋認証装置チェッカーに押しつける。


 600J$ジャパニーズドルを支払い確認。


「はい、あとこれね」

「おお、さすがマルーシャ。わかってるね」


 柔らかい白パンを差し出すと、男は嬉しそうに受け取る。

 刺身にパンが合うといって譲らない男はコンゴ系で、黒い肌に黒目すらない真っ白な眼球を持ち合わせている。


 三年前、強盗に襲われ眼球を抉られた。

 しかし男は金を持っていたので、今では元の目より良いと自らのサイバネティクスアイに触れて見せたことがある。


 男は横に置いてあるサービスの醤油を皿に垂らし、近くのテーブルへと去って行く。


 引き続き料理を作り続けるマルーシャの元へ、続々と人が集まってくる。


 そろそろ出勤前の人や家族の朝ごはんを買いに来る人々でマーケットは溢れかえる。


 それまでに少なくともあと五十尾は捌かなくてはならない。


 超振動ブレードが料理にも使えれば手間は少ないが、アレは切れすぎる。

 内臓を破って身にえぐみを与えたりするので、マルーシャは一回で使うのをやめた。


 ああいうのは、巨大な肉などを切るときに必要なものだ。


 少なくとも、今のマルーシャには必要ない。


 今日も様々な客が来るだろう。

 全員を笑顔に出来るかは、マルーシャの腕次第だ。


「いらっしゃい。今日は何にします?」


 「キッチン マルーシャ」は今日もウエノ・マーケットで繁盛店として賑わっている。

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