平凡な男と異常な少女
日々の暮らしなんてものは、平凡なのが一番だと、サニタ透は思っている。
一日三食都合できて、適度に働き、適度に交遊して、ぐっすりと眠る。
それでいい。
ネオ・トーキョー。
Bランクエリアは、この都市では平凡な人間が集まっている場所だ。
もちろんエリアの中でもピンキリではあるものの、Cほど落ちぶれてはいないし、Aほどハイソではない。
通勤電車に揺られながら、透はネオ・トーキョー、Bランクエリアの街並みを眺める。
それなりの治安が約束されたベッドタウンエリア。
治安は悪いほうだが、刺激に満ちたミッドタウンエリア。
働く人々が多く行き交うビジネスエリアと、様々な物資を供給する工場エリア。
無人飛行配達便やホバースライドが空を行き交う。
若者たちに人気の一人乗りバイク、スカイホップなども車窓を流れていく。
平穏。
そういった言葉が、この都市で一番似合うのは、間違いなくこのBランクエリアの中層だろう。
差し引かれる税金は気になるが、まあ生活していけないほどではない。
五大超企業が関連していない企業なんてネオ・トーキョーにはほとんどないから、自分の能力不足でクビになる以外、親会社が潰れての食いっぱぐれもない。
友人たちの中には味気ない生活は嫌だと言ってAランクエリアを目指して企業するモノや、逆に企業戦士としてAランクエリアの企業に上り詰めようと足掻くものもいるが、Bランク以上になれた試しはない。
透たちの学校はそもそもが進学校でもなんでもないから、平凡に、平穏に生きられるだけでありがたいと思うべきなのだ。
馴染まなかったスーツがよく似合うようになり、少しだけ寝不足だが生活に不満もない。
自分は何者か。なんて、透は悩まない。
両親も、親族も全員が仲良くBランクエリア暮らしだ。
上を目指す友人たちには悪いが、足るを知るということを理解できなければ、この幸せには気付けないことだろう。
不意に、メガネ型のサイバーグラスに赤い文字がポップアップした。
『Ready?』
視界いっぱいに広がる文字。
透は視線を動かしたり、手でサイバーグラスのツルを叩いたりしたが、視界ジャックは直らない。
ウィルス対策ソフトは最新のはずなのに。
透が怪訝な顔でグラスを外し、顔を上げた瞬間だった。
『Go!!』
電車の窓に、その文字が浮かび上がった。
直後、ドンッ、と派手な音がして車体が軋んだ。
乗客たちの悲鳴と困惑の声が上がる。
しかし驚くべきことはそのあとに起こった。
メリメリメリッ、と歪な音を立てて、車体の天井がこじ開けられたのだ。
しかもそこから顔を覗かせたのは、恐怖を煽る怪物の顔ではない。
あどけない、愛らしいと言ってもいい少女の顔だった。
途端、上がりかけた悲鳴が収まる。
車内には、不自然なほどの静寂が流れていた。
電車は依然として、何も起こっていないかのように走り続けている。
少女が、とん、と車内に降り立つ。
白いワンピースに裸足という、“いかにも”な格好だった。
透は自分のこめかみから目元を指で触った。
誰かが視界をハックして、ヴァーチャルシネマを見せているのではないかと。
だとすれば、メガネを外したつもりで外れていなかった、ということも納得できる。
だが、何もない。
あるのは自分の皮膚の感触だけだ。
少女は何かを探しているようにキョロキョロと辺りを見回した。
乗客たちは息を殺したまま、少女から距離を取る。
ふと頭上で何かが動いた気がした透が、少女の上を見ると、天井が修復し始めていた。
何の冗談だ。
何の魔法だ。
ゲリラ撮影ならよそでやれ。
透が思っていると、ざわめきと乗客たちの視線が自分に向いていることに気づいた。
「え?」
正確には、自分の目の前にいる存在に。
「こんにちは」
目の前の存在──少女が言った。
鈴を転がしたような、可愛らしい声だった。
「……こ、こんにち、は?」
何をどう反応したらいいのかわからなかった。
ただ、反射的に挨拶を返しただけだ。
しかし少女は返事に至極嬉しそうな笑みを浮かべると、透の手を掴んだ。
「やっぱり、あなただった。一番心拍が平常。変な人」
「は?」
少女がふわりと浮かび上がる。
跳んだのだと理解するよりも、脳が勝手に飛んだのだと錯覚する。
グンッ、と身体が引っ張られる。
少女が跳んだのは真上ではない。
電車の窓に向かってだ。
走行中の、電車の窓に向かって。
「……は?」
少女が足を突き出すと、強化ガラスのはずの電車の窓があっけなく割れた。
そして、少女と透の身体が、するんと電車の外に出る。
何が起きてるのか理解するのに時間がかかった。
だが、次の瞬間、巨人に胸ぐらでも掴まれたのかと思うぐらいの勢いで身体が落下する。
「はぁあああああああっ?!!!!?!?!」
そうして透は、平々凡々な毎日から、逸脱することになってしまったのだった。




