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浮浪者の逃亡劇1

 雑踏の音。

 雨滴が路面を叩く音。

 人々の話し声。

 様々な言語。


 異臭。

 香水。

 いい匂い。

 悪い臭い。


 アジアンフードを提供する屋台の群れ。

 客足は常に途切れない。

 どの時間でも、誰かしらが飯を求めてどこからともなく現れる。


 巨大都市ネオ・トーキョー。

 人類が、いや、文明が発達し切った結果、欲望だけが独り歩きする都市。

 地球上にあるすべての都市は、今はすべてゆるやかな荒廃に向かっていた。


 シゲは浮浪者だった。

 家はその時々で変わる。

 段ボールか、誰かが捨てた防雨性能のカッパかコートがあるとラッキーだ。


 服はしばらく変えていない。

 饐えた臭いがする。

 けれどシゲの近くにいる浮浪者たちも、そういう類の人間ばかりだから、あまり気にならない。


 慣れない臭いは、だいたい下水道から漂ってくる。


 あとは酒の匂い。

 シゲは体質的に酔えない。

 だから、わざわざ高い金を払って酒を飲む意味はなかった。


 ドラッグパックは良い。

 あれなら酔える。

 だが、この都市では誰かの吸い差しだったり、シケたブツを手に入れることは困難だ。

 ほとんどの場合、この重酸性雨が濡らして分解してしまうから。


「……」


 腹の虫が鳴った。

 一日、何も食べていない。

 日雇いの仕事も、何もなかったのだ。


 そういうときは、できるだけ動かないに限る。

 動けば腹が減る。


「……」


 動かなくても、腹は減る。


 ボーっと、屋台の立ち客たちを眺める。

 美味そうに食っているものを見ると、口内にヨダレが溜まる。

 あれを襲って飯を奪えたら、どれだけ満たされることか。


 しかしシゲはそんなことはしない。

 人からモノを奪う力もなければ、下手に道徳心があるものだから、そんな非道なことができない。


 この都市では、シゲのようなものから死んでいく。

 綺麗事を抜かせるのは、生きている人間だけだからだ。


「おい、シゲ」

「フルさん」


 そんなときだった。

 シゲに声をかけてくる者がいた。


 フルトン。

 中央アジア系の男で、シゲと同じく浮浪者なのに恰幅がいい。

 噂によれば、武器と麻薬売買で儲けているらしい。


 浮浪者仲間からは、親しみを込めてフルさんと呼ばれている。


「食うか?」


 フルが言って、近くの屋台のパックを差し出してくる。


「いいんですか?」

「ああ」


 シゲはパックを受け取り、蓋を開けた。

 中に入っていたのは、甘辛く味付けをしたチキンだった。

 もちろん培養食品シリアルだが、シゲにとっては何でもいい。

 そもそも生鮮食品プラチナなんて食べたことがない。


「いただきます」

「おう」


 シゲは言って、さっそく熱々のチキンを手に取った。


「はふ、はふ」


 甘辛いタレごと皮と肉を噛む。

 肉汁が口の中に広がって、火傷するかと思った。


 しかしシゲは構わずチキンを貪った。

 次はいつ食事にありつけるかわからない身の上だ。


 いきなり働かされた胃が驚き、一瞬チキンを吐き戻しそうになるが、シゲはそれを無理やりねじ伏せた。


 俺の身体だろう。

 俺の生き方に慣れろ。


 そうしてシゲは、あっという間にチキンを食べきった。

 指に付いたタレまで舐めて、ようやくひと心地つく。


「美味かったか」

「はい。ありがとう、フルさん」

「おう。ところで、ひとつ話がある」

「はい」


 来た、とシゲは思った。

 フルトンが浮浪者仲間に何かを差し入れするときは、大体裏がある。

 ようするに、表に出せない仕事だ。


 そしてそういう仕事をさせるのに都合がいいのは、いついなくなっても構わないし、誰も気づかないような人間。

 つまり、シゲのような浮浪者だった。


運び屋ランナーをやってほしい」

「はぁ、俺にできますかね」

「出来ると思ったから頼んでる。物はこれだ」


 フルトンが手のひらに収まる程度の箱をシゲに手渡す。

 それは月と太陽がデザインされたドラッグパックのパッケージだった。


「これ、ですか?」

「ああ。これを持って、今から送るルートのポイントで一本ずつ吹かしてほしい」

「これは相手に届けるものでは?」

「そうであると言えるし、そうでないとも言える。まあ、報酬はちゃんと出すからやってほしい。頼めるよな」


 フルトンの大きな手がシゲの肩に置かれた。


「もちろんです」


 シゲはすぐに頷いた。

 断ればフルトンに何をされるかわからないし、そもそも報酬が出るなら断る理由もない。

 ただでドラッグパックが吸えるのも魅力的だ。


「いい返事だ。お前のそういうところ好きだぜ、俺は」

「ありがとう」

「じゃあ、ルートを送る。受け取ったら、さっそく行ってくれ」

「ああ」

「それからな。ドラッグパックは必ず全部吸え。必ずだ。いいな」

「……わ、わかった」


 念押しに若干の不安感が湧き上がったが、シゲにはどのみち選択肢などない。


 すぐに視界の端に地図がポップアップする。

 サイバーグラスは買えないから、貧乏人用のサイバーコンタクトだ。

 耐用年数はかなり短いが、ほとんどの浮浪者がそのまま使っている。

 目がイカれるか、コンタクトがイカれて交換するかのチキンレース。


 シゲは立ち上がり、フルトンに見送られながら最初のポイントへと向かった。

 フードを被り、小走りで移動する。

 腹の中が温かい。

 やはり、食事は良い。


 報酬を貰えたら、屋台のヌードルや焼き飯を食おうか。

 トッピングは何にしよう、などと考えながらシゲは最初のポイントに到着する。

 そしてドラッグパックを一本取り出し、口に咥えて火を点ける。


 それがドラッグパックを吸い終わるまでの壮絶な逃亡劇の始まりだとは露とも知らずに。


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