ABC コナー
「はぁ、はぁ……!」
コナーは走っていた。
必死に、心臓が痛い。
息ができない。
それでも、あの化物じみた連中から逃げなくてはいけなかった。
「こんなところで、くたばってたまるかよっ……!」
コナーには恋人がいる。
最初はヤリ目だったが、気づけば二年も一緒にいる。
恋人の名はジェス。
左手を事故で失い、義肢になっている女だった。
刈り上げた銀髪がかなりクールな女だ。
ジェスはコナーの“仕事”を嫌っている。
幼馴染たちのことも嫌っている。
言葉にはしないが、態度でわかる。
だが、それでもどっちかを選ぶことはできなかった。
コナーにとっては悪友であり幼馴染であり仕事仲間のアレクとベンは大事だ。
そして恋人のジェスもふたりと同じぐらい大事だ。
それに今さら、こんなどうしようもない都市でまともな職にありつけるかとも思う。
務め人。
そんなものになれるなら、道なんか踏み外していない。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
その大事な三人のうちの、ふたりが死んだ。
ガキの頃から、両親が最悪すぎる共通点で、窃盗やら強盗やらをやりまくった仲間。
そのふたりが、あっけなく殺された。
「ジェス、ジェス、ジェスっ」
問題は何も解決していない。
この都市にいる限り、きっとあいつらの影はつきまとう。
だが今は、今だけはすべてを忘れて、ジェスの胸で眠りたかった。
大きくもなく小さくもない、コナーの好みとは言えないが、人生で一番安心できる寝床。
会いたい。
ジェス。
お前に会えるなら、もうこんなことは辞める。
なんとかなるかわからない。
でも、なんとかしてお前のために、俺達のために職を見つける。
Bランクエリアには住めない。
けど、Cランクの上層には行けるかもしれない。
子供ができるのもいい。
ジェスは子供が好きだ。
ふたりの子供。
想像なんてしてなかったが、ジェスとの子供なら可愛いだろうと思う。
そんな柄じゃないが、貧しかろうと幸せな家庭が作れれば、それが一番良い。
「はぁっ……!」
走り抜けた。
コナーは走って走って、どれだけの道を曲がり、人を突き飛ばしたかわからないぐらい走って、そしてようやく、ジェスが住むアパートの通りに出た。
アパートの窓には明かりが灯っている。
ジェスがいる。
まだ、間に合う。
だが──。
「よぉ、おつかれさん」
「……」
コナーは前方から聞こえた声に、顔を歪ませた。
眼の前にひとりの男がいた。
角刈り。
雨なのに傘も差さず、コートも着ず、アンダーシャツと軍用パンツ、そして黒いブーツの男。
「……あいつらの、仲間か」
「そうだ。それがわかってるなら、用件もわかるな」
男が言う。
コナーはサッと周囲に目を走らせた。
「……」
小柄な男がいた。
少年にも見える。
傘を差しながら、片手に持った携帯端末でゲームをしている。
「やっほー」
赤髪をベリーショートにした女が、笑顔で手を降ってきた。
ふたりとも、黒い衣装。
それだけで、自分の逃げ場がないことをコナーは理解した。
確率が高そうなのは少年のほうだが、隙はない。
たぶん、襲いかかったら何かしらの得物を取り出して反撃される。
「よっし、やろうか。お前は武器を使っていいぞ。俺は素手だ」
眼の前の男が言って、拳でシャドーボクシングを始める。
速すぎて見えない。
男のパンチを打った先の雨粒が、弾けて消える。
「許してくださいっ!」
コナーはその場で土下座した。
「は?」
男が戸惑った声をあげる。
少年は無関心。
赤髪の女は笑っていた。
「もう二度とあんたらに仕事させるようなことはしない! 強盗やら盗み、強姦から足を洗う。だから、許してください」
身体が重酸性雨にまみれる。
地面についた手のひらが濡れる。
そんなことはどうでも良かった。
見逃してもらって、ジェスのもとに帰ることが最優先だった。
「お兄さん、心入れ替えるの?」
少年が、話しかけてきた。
横目で見ると、携帯端末からは目を離さないままだった。
「い、入れ替える」
コナーは答えた。
「どう入れ替える?」
今度は、女の声だった。
「ま、真面目に働く。仕事を見つけて」
「おおー、それで幸せな家庭を築く?」
「……」
コナーは、こくりと頷いた。
躊躇いながらだったが、自分はこの窮地を脱せたら、本当に幸せになれるんじゃないかと、心の中でそう思った。
「そうやって生きていたのに、お兄さんたちに壊されちゃった人たちがいるね」
少年の言葉に、コナーは己の喉がひゅっと鳴るのを聞いた。
「汝、過ちを認識し、それを悔い改めたまえ」
少年は続けて言って、携帯端末をポケットにしまった。
緑色の瞳が、ジッとコナーを見つめてくる。
「どっかの神様はきっと言うと思うよ。罪を悔いる者を許すべきだとかね」
雨が降っている。
それなのに、少年の声がよく聞こえた。
「被害者とか当事者の意見を無視して、何様なんだって思っちゃうよね」
「確かに」
少年が苦笑し、女が笑った。
正面の男だけが、微動だにしない。
「シュロ、ラムジー。おしゃべりはもういいか?」
「うん。私は平気。シュロは?」
「僕も」
シュロと呼ばれた少年が答え、それからコナーに囁くような声で言った。
「お兄さん、早く立ったほうがいいよ。殺す気で来ている相手に死んだふりは悪手だ」
「はっ……」
それは、野生の勘とも言うべきものだった。
背筋から後頭部、そして頭のてっぺんまでを這いずる虫。
「あぁあっ!」
コナーは自分の頭があった場所から、無理やり引っこ抜くようにして顔を上げた。
刹那、先程までコナーの頭部がいた場所を、男が足の裏で叩いていた。
ビキッ、と道路にヒビが入る。
チリッ、と前髪が千切れた。
「いいね」
いつの間に距離を詰めたのか、男が眼の前で笑っていた。
宣言通り手には何も持っていない。
ナイフも、銃も。
だが、今のコナーには、そのただ握りしめられただけの拳が何よりも恐ろしかった。
「あぁっ!」
収めていたナイフを再び抜く。
横薙ぎして、牽制。
男がそれ以上近寄れないように、切っ先を突き出す。
だが──。
「がっ!?」
突き出した腕。
手首を下から蹴り飛ばされた。
男の左足が消えたと思ったら、男の真上にあった。
「あぁああっ!」
コナーは叫んだ。
手首が曲がってはいけない方向に曲げられていた。
痛みに呻き、手首を押さえる。
コナーは尻もちをついた。
「ひっ、ひっ……」
顔は涙と雨で濡れている。
戦意は喪失していた。
「ほいっ」
「ぎゃあっ」
だが男は追撃をやめなかった。
今度は右足の回し蹴り。
肩に当たった瞬間、メギッ、と嫌な音がして、左腕が虚脱した。
これでもう右手も左手も使えない。
「ゆ、許して……許して……」
這って逃げることもできないコナーが許しを乞う。
その前で男は静かに足を開いて腰を落とし、右拳を腰に構えた。
左手は開き、手のひらをコナーの顔に向けている。
「罪を悔い改める。それは美しい話である」
男がよく通る声で言う。
「だが悔い改めて美しく生きるお前を許せない人間もいる」
男は、微笑んでいた。
ブッディストたちが崇める、仏のような微笑み。
「奪われ、犯され、壊され、殺された愛する人を美談の糧になどされてたまるかという人々がいる。お前は、お前たちは、そういう善良な人々に恨まれた」
「ご、ご、ごめんなさい……もうしません、しませんから……」
「己のしたことをとくと悔いよ。それでも、お前は遅すぎた」
男は最後の一音を出すとともに、強く細い息を吐き出す。
シッ!
右拳が動いた。
雨が旋回に巻き込まれ、弾け、そして拳に乗った。
いくつもの水滴の中に、コナーの顔が映る。
パァンッ。
と、水を入れた袋の塊が弾けたような音がした。
三秒経ち、あとに続いて何かが倒れる音。
「終わった。全員撤収」
「はーい」
「……うん」
男が言うと、ラムジーとシュロが返事をする。
無線からも仲間たちの返事があった。
「悪党ってやつは、キリがねぇな」
男、自警団のメンバーであるコバヤシが呟く。
ネオンで眩しい都市を見上げながら、手にしたドラッグパックを口に咥えて、一口だけ吸う。
「楽しく遊んだあとは、ちゃあんと後始末しねぇとな」
そう言って、今しがた命を失ったばかりのコナーを見下ろす。
それからドラッグパックを指で弾いて捨てる。
雨に濡れて火種が消えたドラッグパックは地面に落ち、排水溝へと流れていくのだった。




