マルビン・スチューテッド
申し訳程度の賃金を手にして、向かうのはいつものアパートだ。
週に2ドル払えば、カビ臭いが自分のベッドで眠れる。
「オヤジ、今週も頼む」
「……あいよ」
カウンターに金を置くと、奥からメガネをかけた老人が出てきて金を受け取る。
代わりに適当な鍵を置いて、また奥に引っ込んでいく。
「二階……」
マルビンは短い金髪を撫で、赤い鼻をさすってから鍵を取る。
手には6缶入りのビールとつまみのジャーキー。
メインの飯はヌードル屋の一番安い「かけヌードル」だ。
マルビンはやせ細った身体で階段を上がり、鍵に示されている204号室に入った。
「ん……」
前回は誰が使っていたのか。
部屋に入ると、室内はきれいに整えられていた。
とはいっても、ホテルのように、ではない。
貧乏アパートにしては、という意味だ。
簡素なテーブルと椅子、クローゼットにベッド。
一応、簡単なキッチンもあるし、冷蔵庫もある。
長く滞在する場合は、ここに電気代と水道代もかかってくる。
短い滞在でも、使いすぎたら別途請求される。
だからマルビンは最低限しか使わない。
「はぁ……」
黒いカッパを壊れかけたコート掛けに投げ、椅子に深く座る。
今日も疲れた。
マルビンは単純労働者だ。
ベルトコンベアから流れてきた何かわからない肉に、緑色や青、白のカビが生えていないかをチェックするのだ。
技術が必要な場所もあるが、マルビンのいる部署は違う。
ただ、カビの有無を見ていればいい。
つまらない仕事だし、同僚は次々に変わるが、マルビンにとってはこの上なく最適な仕事場だった。
まず第一に誰とも喋らなくていい。
くだらないおしゃべりは嫌いだ、と言いたいところだが、ただの人見知りだ。
知らない人間とどうでもいいことを話すのは疲れる。
第二に、特別な資格も技術も、最低限さえあれば体力もいらないことだ。
働くことに頑張らなくていい。
それが、マルビンにとってとても大事なことだった。
マルビンは今、Cランクエリアで生きている。
生まれはBランクエリアだった。
両親は教育熱心だったが、それは優秀な姉と兄に注がれた。
マルビンは出涸らしだった。
勉強も運動も、興味でさえも、姉と兄どころか人より秀でているものがなかった。
なぜ自分が生まれてきたのだろう。
そう思う日々だけが募っていった。
でも、マルビンは今、それなりに幸せだ。
周りには、マルビンみたいな連中ばかりいるから。
人より劣っているというわけではない。
ただ、人より生きることに興味が薄いだけの人間たち。
買ってきたヌードルをすする。
最低限の肉や野菜もない。
ただヌードルに汁がかけられただけの代物。
50J$(ジャパニーズドル)。
それでも、安い給料のマルビンからすれば十分な食べ物だった。
ビールを開けて、飲む。
喉に流し込むと、炭酸と苦みで顔をしかめた。
両親から連絡なんてない。
ハイスクールを中退して働くと言ったことで、あの人たちの興味はマルビンから消え失せた。
マルビンは両親にとって、いない子となった。
ヌードルを食べ終えると、つまみのジャーキーを齧りながら外を眺める。
雨が降っている。
ネオンの反射に目を細める。
はるか遠くに、裕福な人々を運ぶホバースライドが見える。
あの中のどこかに、両親と、姉と、兄がいるのだろうか。
羨ましいとか、憎らしいとか、そういう感情はなかった。
なんだか家族だった時間も、自分の幻想だったように、最近は思うようになってきた。
時間が経ちすぎたのだと思う。
実際は大した時間は過ぎてないと思うのだが、心の距離が、相当に開いてしまった。
生きているうちに再会はないだろうと思う。
家族だった人たちの誰かが死んだとしても、マルビンに連絡は来ないし、逆にマルビンが死んでも、家族だった人たちの誰にも連絡はいかないだろう。
ときおり、おとぎ話のように語られる家族の絆というのは、そういうものだとマルビンは思っている。
脆くはない。
あっけなく、ただコーヒーに入れた砂糖みたいに溶けてなくなっていくだけだ。
2本目のビールを開けたときだった。
コンコン。
誰かがドアをノックした。
ブザーもあるのに、と思ったが、このボロアパートだ。
ブザーなんて壊れていても不思議ではない。
「……誰ですか」
しぶしぶ、チェーンを掛けたままドアを開ける。
「あ、夜にすみません」
そこに立っていたのは、ひとりの女性だった。
金髪で、丸く大きなサイバーグラス。
白いシャツと赤色のデニムを穿いた、派手な見た目の女性。
押しかけ娼婦のようにも見えないことはないが、そういった連中にある雰囲気を、彼女はまとっていなかった。
「……あの」
女が何も言わないので、仕方なくマルビンが言う。
すると女はハッとして、照れくさそうに頬をかいた。
「その、さっきまでこの部屋を使ってたものなんだけど、忘れ物をしちゃって。黒いカバンがベッドの下にないかな」
「ああ……」
なら、彼女が部屋をきれいに使った使用者なのか。
と、マルビンは思った。
「あると思う。すぐに取って来るよ」
マルビンがそう言って踵を返そうとすると、女が慌てたように言う。
「ああっ、ごめん。他の人に触られたくないんだ。大事なものだから」
「……ああ」
なるほど、とマルビンは頷く。
それもそうだ。
マルビンは汚いナリではないが、Cランクエリアの労働者、といった風体だ。
ここまで綺麗に部屋を使う女性が、所有物に触られたくないと思うのも納得できる。
「ごめん、気が利かなくて」
「いいの、あはは、こっちそこごめん」
マルビンは一度扉を締めて、チェーンを外してから再び開ける。
女は口元の笑みを作ってから、マルビンの横をすり抜けるように部屋に入ってきた。
それからベッドの下に屈んで腕を伸ばす。
どうやら目当てのカバンはすぐに見つかったらしく、ゴソゴソと引っ張る音がして黒いカバンが出てきた。
普通より少し大きめのボストンバッグ。
ブランドものでも何でもない、どこにでも売ってそうな代物だ。
何が入っているのか、バッグはパンパンに膨れていた。
女はバッグをテーブルに置くと、ジッパーを開ける。
それから中に手を突っ込んだあと、動きを止めてマルビンを見た。
「あなた……えっと……」
「マルビン」
「ああ、マルビンさん。あなたサイバーグラスは?」
「持ってないよ。必要ないんだ」
言うと、女は驚いた顔をした。
「ええ? インフラの一種よ」
「なくても生きていけるヤツもそれなりにいるんだ」
「へえ、そう」
女は動きを再開して、バッグから何かを取り出してテーブルに置いた。
それは、ドラッグパックのパッケージだった。
手のひらサイズ。
ドラッグパックはやらないから、それがどういったパッケージなのか、いいものなのか、悪いものなのか、粗悪なものなのか、マルビンにはわからない。
「ドラッグパックは?」
女の言葉に、マルビンは首を横に振る。
「そう。じゃあこれを換金してくれるところに心当たりは?」
また首を横に振った。
「はぁ、あなた何も知らないのね」
マルビンは唇を尖らせ、肩をすくめた。
馬鹿にされることは今に始まったことじゃない。
女の反応には慣れてしまっている。
「じゃあ紙とかペンは? なんでもいい。レシートでも」
上の階層じゃ通じない言葉だが、Cランクエリアにはまだレシートなんてものが流通している。
「あるよ。メモとペン」
言って、マルビンはコート掛けに投げたカッパの内側からメモ帳とペンを取り出して女に渡す。
「なに、これ」
女が書ける場所を探してペラペラとめくり、中身のいくつかを見てマルビンに言った。
「なにって、絵だよ。下手くそな」
マルビンは答える。
メモにはいくつかのイラストが描かれていた。
雨の町並み。眠りこけてクビになった同僚の寝顔。
ベルトコンベアを流れる肉みたいなモノ。
通りを走る奇妙な尻尾の色をしたネズミ。
それらはすべてマルビンが、手慰みに描いたものだった。
「へえ……けっこう好きよ、これ」
「ありがとう」
女は言って、書ける場所をメモ帳に見つけると何かを書き記した。
それは地図と名前、それから値段のようだった。
「これを持ってこの場所へ行けば、換金してもらえる」
「え?」
女がドラッグパックのパッケージを指さして、マルビンに言った。
マルビンが戸惑うと、女は肩をすくめてバッグのジッパーを閉める。
「お礼よ。あなたが私のすぐあとに部屋を使ってくれたおかげで、私を嫌ってる連中がここの使用者を誤認した」
「えーっと……」
「あなたは私の役に立った。だから、そのお礼」
「ああ、そういうこと」
マルビンが言っている意味を理解すると、女は再び口元だけで笑みを作ってバッグを持ち上げる。
「じゃあ、ありがとう。ミスターマルビン」
「あなたも、ええっと……」
「シェリル・アドス。じゃあね」
シェリルと名乗った女は、そのまま振り返ることなく部屋を出ていった。
あとには惚けているマルビンと、女の残り香だけがあった。
「あ、そうだ……」
マルビンは扉の施錠し直したあと、テーブルに置かれたシェリルのお礼を見る。
それはマルビンには何の価値もわからないドラッグパックだった。
そしてメモに書かれたドラッグパックの金額に目を見開く。
「い、一万$!? ってことは、150万J$!?」
シェリルの置き土産はとんでもない代物だった。
それはマルビンの一年分以上の給料に相当する。
しかし、マルビンが驚いたのもそこまでだった。
マルビンは別に、今以上の生活を望んでいるわけではない。
野心なんてないし、ただ今まで通りの生活ができればいいだけだ。
ただ、それだけのモノを売らないで捨てる、というのも、もったいない。
だからマルビンは、吸ってみることにした。
人生で初めての、ドラッグパックだ。
なぜか、そうしてみたほうがいい、という気持ちになったのだ。
パッケージを開けて、タバコ状になっているドラッグパックを取り出す。
コンロの火を点けて、ドラッグパックに灯す。
「……げほっ、ごほっ」
初めてのドラッグパックは、ひどい味だった。
スモーキーでビター、そのくせ後味は甘ったるい。
こんなのどこがいいんだ。
そう思った直後、妙に気分がスッと落ち着くのを感じる。
結局、マルビンはドラッグパックを一本吸い切った。
家族の誰も吸わなかったモノ。
ドラッグパックは道端で誰かが吸っているモノだった。
「悪くない、かもな」
自分で買おうとは思わない。
ただ、マルビンはそのドラッグパックを、少しだけ気に入った。
この部屋の窓から見える景色と吸い味が、妙に合う気がしたのだ。
平穏で、静かな夜だった。
マルビンの好きな、夜だった。
その直後、シェリルではない、ひとりの女が窓から突っ込んでくるまでは。




