リオナ・エトワフスキー
関連:ep6/ep20/ep31 レイチェル&クロームシリーズ
リオナ・エトワフスキーが行きずりの男との子どもを産んだのは、22のときだった。
当然、男には逃げられた。
というか、名前も知らない。ジュリオンと名乗っていたが、本名じゃないだろうと思っている。
リオナはメガシティ、ネオ・トーキョーの庶民だった。
住まいはBランクエリア。
パパとママがいて、弟がひとり。
小、中、高と順調に進んで、大学もランクが低いものながら進学できた。
その大学も卒業して、就職先もあって、この都市で平々凡々に暮らしていく。
そのつもりだった。
今となっては、なぜその男と寝たのかすら覚えていない。
リオナはとあるバーで友人ふたりと互いの就職と平凡な人生を祝っていた。
楽しい酒宴で、それから、男が三人ナンパしてきたのだ。
あしらったつもりだった。
リオナたち三人はそんな男に引っかかるほど安い女ではない。
だが、薬でも盛られていたのか、男たちが引き下がってすぐ、三人は酩酊した。
そして気づけば、ベッドの上だった。
男がジュリオンと名乗ったことだけは覚えている。
けれど、顔ももう思い出せない。
嫌な記憶だったが、何も覚えていなかったから三人で忘れようということになった。
それから数カ月。
仕事を始めたストレスで、月経が来ないんだとリオナは解釈した。
実際、ストレスの多い職場だった。
特に新人いびりをする御局がいて、そいつのせいで体調が悪くなったんだと、そのときは思っていた。
今思えば、その可能性から目をそらしていただけかもしれない。
妊娠がわかったとき、もう堕ろせなくなっていた。
父と母はリオナを侮蔑した目で見た。
リオナは被害者なのに、恥ずかしいという顔をした。
恥をかかせやがって、という表情をした。
特に父は、そういった態度や言葉を隠さなかった。
母も、味方はしてくれなかった。寄り添うことさえ。
弟。
弟は、誰よりもリオナを見下した。
リオナより優秀で、Aランクエリアの大学に推薦で入学した、両親自慢の弟。
助けてほしいと、リオナは言った。
はした金が振り込まれた。
そのかわり、家に入ることは二度と許されなかった。
それから数カ月が経ち、リオナは職を失った。
家も失った。かろうじて福祉施設の産院につながることができて、入院した。
リオナは腹の中の子を呪った。
もう顔も思い出せない男よりも、腹の中にいる子に恨みや憎しみが向いた。
けれど、腹を押しても、軽く叩いても、流れることはなかった。
リオナの憎悪に反して、お腹の子はすくすくと順調に育った。
そして、三十時間という時間をかけて、娘が生まれた。
その顔を見た瞬間に、これまで抱えてきた恨みや憎悪が、嘘みたいに消え去っていた。
「ごめんね、ごめんね……でも、生まれてきてくれてありがとう……」
リオナは泣いていた。
疲弊した身体で、泣き声をあげる我が子を、壊れないように優しくそっと抱きしめた。
すべてを失った。
でも、この子に逢うためだったなら、別にいいと思えた。
自分がそんな感情を持つなんて思いもしなかった。
友人たちがそんなことを言ったら大げさすぎると笑ったかもしれない。
けれど、本心だった。
リオナは娘、のちにレイチェルと名付ける娘の体温に、涙を止めることができなかった。
それから、リオナの人生が始まった。
娘のために捧げる人生だ。
福祉施設は早々に追い出された。
健康体で働ける人間を助けられるほど、潤沢な予算があるわけではない。
五大企業が運営する施設もあったが、子どもたちが取られるという噂があって、リオナは怖くて利用することができなかった。
乳飲み子を抱えての仕事。
楽なものはひとつもなかった。
出産したばかりの身体でやれることではなかった。
だが、リオナはやった。
娘のために、レイチェルのために身を粉にした。
「レイチェル! ただいま!」
「まー……ま……!」
Cランクエリアのボロアパート。
娘との生活は幸せだった。
笑顔が絶えず、これまでのどんな人生の瞬間よりも、素晴らしい日々だった。
「ママー」
「なぁに、レイチェル」
ある日、三歳になったレイチェルが聞いてきた。
「どうしてママは、困ってる人を助けるの?」
レイチェルの質問に、リオナは思わず笑顔になった。
自分の姿をちゃんと見てるんだと、嬉しくなった。
「ほんの少しだけ、困ってる人より余裕があるとき、元気なとき、ママは人を助けてあげたくなるの」
「どうして?」
「ママが困ってるときに、いろんな人が助けてくれたの。それがとっても嬉しかったの。だからママも、困ってる人を助けるの。わかるかな?」
「うーん……ちょっとだけ!」
「そっか。うん。ねえ、レイチェル」
「なぁに?」
レイチェルが小首をかしげる。
そんな娘が愛おしくて、リオナはレイチェルを強く抱きしめる。
「大好きだよ、レイチェル」
「レイチェルもー! ママ大好きー!」
幸せで、愛おしい日々。
けれどここは欲望渦巻く、善悪の境目がひどく曖昧なメガシティ。
悲劇はいつだって突然に訪れるのだ。
「レイチェルッ!!」
最初、何が起きたのかわからなかった。
昼の街。
繁華街。
昼食を買って、レイチェルと帰るところだった。
酔っ払い。
走ってくる足音。
逃げている。悲鳴。何かがぶつかる音。
そのとき、風が吹いたのだ。
ひどく、熱く、真横を通り抜ける風。
ホバースライド。空を飛ぶ車。
どうしてこんな場所をホバースライドが?
疑問。直後、衝突、炎上。
背後から頭上を飛んで、幾台ものホバーパトカーが通り過ぎていく。
急に、左手が重くなった。
「レイチェル?」
娘が、具合が悪くなってしゃがみ込んだのかと思った。
違った。
頭の中が真っ白になった。
娘は腕だけになっていた。
違う。
ホバースライドのどこかと衝突して、娘の腕が切断されたのだ。
「レイチェル!」
叫んだ。
立ったまま、倒れている娘を見て、切断された右腕から血を流す娘を見て、棒立ちのまま。
「レイチェル!!」
一瞬遅れて、やっと弾かれたように動いた。
お弁当の入った袋が地面に落ちる。左手にレイチェルの手を握ったまま、倒れる娘に駆け寄る。
「ああ、うそ……そんな! どうしよう! どうしたらいいの! ねえ、お願いレイチェル! 違うって言って、こんなの違うって……ねえ、どうして! ねえ!」
「助けてやろうか? ママさん」
パニックになったリオナに、話しかけてくる女がいた。
そいつは酷薄な笑みを顔に浮かべ、金色の髪を風に流れるままにしていた。
藁にもすがりたい気持ちだった。
助けてくれるなら、大嫌いな神様にだって祈ってもよかった。
だから、それが悪魔との取引だと理解したのは、あとになってからだった。
結論を言えば、レイチェルは助かった。
意識を取り戻し、その身の丈に似合わない巨腕をつけて。
そしてリオナは、娘を助けてもらうかわりに莫大な借金を背負わされた。
娼館で三年。毎日五人以上を相手にする。
それで借金はチャラ。
それが、リオナに課せられた仕事だった。
その間、娘に会うことは許されない。
脱走すれば、娘は殺す。
「……本当に、三年働ければ、娘のもとに帰してくれますか?」
リオナの言葉に、金髪の女がにぃっと笑う。
「もちろん。三年間、男をしゃぶって突っ込まれて気持ちよくなれば、晴れて自由の身だよ。その間、娘はこっちでちゃーんと預かっておくからさ」
「……わかりました」
別れの言葉さえ言えなかった。
リオナは大切な娘の命を救ってもらった恩と、そして娘の命を人質に取られ、娼館『ウォール・イン・ディーバ』(壁の中の女神)に務めることとなった。
(必ず、必ず帰るから……待っててね、レイチェル……)
リオナはそう誓い、覚悟を決めた。
生涯の別れになるところだった。
それに比べれば三年ぐらい──。
そう思った矢先だった。
務め始めて一週間。
その日の二人目の客を見送ったあと、あの金髪女と派手なサングラスをしたブラックスーツの男が話しているのを聞いた。
「あのガキ、ママを探して彷徨ってるらしい」
「あーらら、ボロボロだけどミチル・スメラギの刻印付きなのに、まだ腕取られてないんだ」
「ひでぇことをする。さすが蜘蛛の毒蜘蛛だ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
リオナは、ふたりの前に飛び出していた。
その話している“ガキ”というのは──。
「ねえ、あなた……レイチェルをちゃんと預かるって……」
「あぁん? なんだ、聞いてたのママ」
突然現れたリオナに驚いた様子もなく、金髪女が笑った。
「預かってたわよ。でも、勝手に出ていったのよ。ママを探すって」
「じゃあ、あの子は今……!」
「ママを探して彷徨ってるでしょうね。可愛そうに。ママはここで男たちのきったないのおしゃぶりしてるって知らないのかしらね」
「いや、あのガキはママの職場を知ってるぞ」
派手なサングラスをかけた男がニヤケ面で言った。
「……え?」
「俺が教えたからな。この店の名前を。一生懸命探してるだろうよ。今頃な」
リオナは反射的に飛び出そうとしていた。
夜の街に幼女がひとり。いかにも襲ってくれと言ってるようなものだ。
レイチェル。
私のレイチェル。ただひとりの、可愛い娘。
裸足と下着姿で駆け出そうとしたリオナはしかし、首根っこを派手なサングラスの男に掴まれた。
「かひっ!?」
「ダメだろう。ウォール・イン・ディーバは、壁の中にいなくちゃな」
男の空いている手に、注射器が握られている。
「三年間、きっちり務めないとな。ああ、“コイツ”の代金も上乗せしておくからな」
言って男は、リオナの首に注射器を突き立てた。
中の液体が注入され、リオナの思考が分解されていく。
何も考えられない。暴れようとしたが、嘘みたいに身体が動かなくなっていく。
「それの料金足すなら、三年間で済まないじゃん」と、金髪女。
「ならその分延長して働いてもらうだけだ」
男が言って、リオナの顔を覗き込む。
サングラス越しに目が合う。
リオナのことを、昆虫みたいな意思を感じられない瞳で見つめてくる。
「頑張れよ、ママさん」
リオナの瞳から、涙が一筋こぼれた。
口は半開きになり、焦点が合わなくなっていく。
「さあ、三人目の客が来そうだ。俺は行くぜ」
「ええ。またね、ミスタ」
ミスタと呼ばれた男が肩をすくめて出ていく。
金髪女が嘲るような笑みを浮かべてリオナの背中を押す。
身体が勝手に動いた。
命じられるまま、自分のブースに戻る。
(れ、い……ちぇ……る)
ベッドに座ったリオナは、もう一度だけ涙をこぼした。
それから、
それから……?
リオナは、自分がなぜここにいるのか。
どうして男たちの相手をしているのか、わからなくなっていた。
ただ、ひとつだけ。
心の中に、妙に疼くものがあった。
なにか、ひとつ、とても大切なものを忘れているような、切ない感覚。
今日も男がひとり、入ってくる。
リオナは笑みを浮かべ、男を見た。
「ようこそ。ウォール・イン・ディーバへ」
機械的に、リオナの身体が動いた。
働いている理由はわからない。
けれど、そうしないといけない理由があるような気がするのだ。
誰かのために、この命を捧げているような、そんな覚悟とも取れる思い。
レイチェル。
ときおり浮かぶその名前、単語がやけに懐かしく響く。
だがリオナにはそれがなんなのかわからない。
いつか、わかる日が来るのだろうか。
いつか、そんな日が来るといいな。
リオナはそんなことを思いながら、さらけ出された男のモノに向かって、顔を近づけていった。




