Invisible
関連:Life isn't going well
メガシティ、ネオ・トーキョー。
Cランクエリア。
貧困街と呼ばれる場所に、レンジはいた。
防酸性雨製の革のコートを羽織って、トタンに当たる雨の音を聞きながらドラックパックを吹かしていた。
いつものように手作りのモノではない。
先日、仕事の報酬として山田フォルンにもらったものだ。
良いものだった。
酩酊したような感覚には陥らないし、不快な気分にもならない。
代わりに、忘れたいこと、考えたくないことも消えない。
つい先日だ。
ドラッグパックと100ドル紙幣と引き換えに、親友のトーナが死んだ。
正確には、殺された。
葬儀なんて上等なものはない。
清掃課によって死体袋に詰め込まれたか、使える部分を探している死体漁り(スカベンジャー)に持っていかれたか。
とにかく、トーナの死体はすでになかったし、ニュースが駆け巡ることもない。
Cランクエリアの、それも貧困街の住民の死など、誰も必要としない。
踏み潰された虫のことが記事にならないように、トーナが死んだことも、生きていたことも、ほぼすべての人間が気に留めない。
そして大滝レンジという人間も、これで透明になった。
レンジのことを知る人間はこの都市にいない。
親も、知り合いも、親友も消えた。
人と積極的に関わらず、死んでないから生きているだけ。
そういう生き方をしてきたレンジは、この都市の誰からも気に留められない。
もっとも、レンジだけではない。
このCランクエリアの、こんな場所に生息しているほとんどの住民がそうだ。
悲観的になっているわけでも、センチメンタルになっているわけでもない。
ただ、話し相手がいなくなってしまったという事実が、少し寂しい。
もう少しマシな生き方が出来ないものかと考えたが、それは難しい。
山田フォルンからの報酬は、滞納していた家賃で減り、何度か定食屋で食事をしたら減り、バーチャルシティでの女遊びでなくなった。
100ドル。
レンジにとってはでかい金だった。
同時に、使い方を知らない人間には、あっという間に溶ける金額でもあった。
「なんで……」
レンジはふいに、小さく呟いた。
ドラッグパックの先端から灰が落ちて、路面を転がる。
「なんで、お前が死んだんだ。トーナ」
どちらかといえば、死ぬなら俺のほうがふさわしい。
そんなことをレンジは思った。
けれど、それはただの願望だったし、現実の結果として生き残ったのはレンジのほうだ。
質のいいドラッグパックを吸っているのに、手製を吸ったときの、バッドトリップしたときみたいな気分になってくる。
明滅するネオンで目が痛い。
通り過ぎていく人々が灰色に見える。
やはり誰も、レンジのような人間を気に留めない。
侮蔑や軽蔑、嫌悪の視線すら送られない。
「……まいったな」
どうやら自分は相当に落ち込んでいるらしいと、レンジはようやく気がついた。
コートのポケットを探るが、もうドラッグパックはない。
心を誤魔化す手段を失ったまま、レンジは虚空を見つめる。
ふいに、視界の端に何かを捉えた。
いつもなら気にも留めないような、些細な何か。
赤い色だった。
派手な色だ。原色に近い。
デジタルスクリーンを貼り付けている色ではない。
赤い布で作られたコート。
それを羽織っている女が、キョロキョロとあたりを見回している。
爬虫類のような目だった。
瞬間、レンジは思い出す。
トーナを殺し、そして山田フォルンに殺されたあの赤いコートだ。
仲間だ。
たぶん、レンジを探している。
自分のことはバレていないだろう。
なんて楽観的なことをレンジは考えられない。
そっと立ち上がり、裏路地に入る。
身体を壁につけて、通りに顔を出して様子を伺う。
直感だ。
あの赤いコートの女に見つかったヤバいことになる。
女はまだレンジを見つけられていない。
と、女が急にバネ仕掛けのように顔を跳ね上げ、レンジを見た。
「……うっ!?」
思わず声が漏れる。
女がこちらに近づいてくる。
レンジは顔を引っ込めて裏路地の奥に逃げようとした。
そこで、少し先を塞ぐ形で、いつの間にか赤いコートを羽織った男が立っていることに気づいた。
硬直するレンジ。
男が腕を持ち上げる。
手には、拳銃が握られていた。
死んでないから生きているだけ。
そのはずだったのに。
レンジは大昔に絶滅した名前も知らない草食動物みたいに、弾かれたように動いた。
身体を低くして、通りに飛び出す。
背後から発砲音。
頭をかすめて飛んでいった弾丸が、雑貨屋のネオン看板の一部に当たって破砕させる。
横から飛び込んできた赤いコートの女の手がレンジを捕らえようとする。
だが間一髪、レンジの背中の後ろを、その手はかすめていった。
レンジは走った。
レンジは逃げた。
透明人間は、赤い追跡者に認識されてしまったのだった。




